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「ダ、ダメ……!」
キスをされる。直感的にそう感じて、私は顔の前でバツを作った。
すると、藤宮先生がムッとしたように私を見た。
「なぜ」
「なぜって……」
「好きな人を目の前にしたら、欲情するのが普通でしょう。キス、したい」
藤宮先生の爆弾発言に、私の心臓が何度目かの爆発を起こした。
「よっ……!? い、今! ここ! 病院です!」
藤宮先生は一瞬なにかを考え込んで、止まる。けれど、すぐにきりっと私を見ると、ゆっくりと距離を縮め、耳元で言った。
「……お預けとは、いい度胸です。帰ったら覚悟してくださいよ」
私は文字通り青ざめる。
(……身の危険が……)
藤宮先生はひとつ息を吐くと、白衣をひるがえして立ち上がった。その横顔は、いつも通り私が憧れた藤宮先生の姿で。
名前を呼ぶ。
「藤宮先生」
「ん?」
「……ありがとうございました」
礼を言うと、藤宮先生はなにを思ったのか、空を見上げた。
「……あぁ。そういえば、礼をもらっていなかったですね」
「……は?」
「あなたには、この数日結構振り回されましたからね。お礼をもらわないと割に合いません」
顔を空へ向けたまま、視線だけがこちらに向く。その瞳には、蝋燭のような炎が揺らめいているように見えて。
とてつもなく、嫌な予感がした。
「あ、あの、だからここは病院です。キスとか、そういうのはダメですよ」
思わず身構えると。藤宮先生はすっと目を細め、優しい表情で私を見つめる。
「名前で呼んでください」
一瞬、思考が停止する。
「……な、まえ……?」
「うん、名前」
「……藤宮先生の、名前?」
「うん」
さっと目を逸らす。
「……そ、そのうち……ということで」
「ダメ。今」
「……い、今!? 無理です!」
私は口をぎざぎざにして、くるりと背中を向けた。
すると、背中に藤宮先生の体温が当たった。びくりと肩を揺らすと、直後、後ろから頬を両手で包まれて。クイッと上を向かされた。
強制的に目を合わせられ、私は逃げ場を失う。
「はい、どうぞ?」
「!!?」
「……ほら、早く」
「い、今ですか!? この状態で!?」
私は口を魚のようにパクパクさせて、涙目になりながら藤宮先生を見上げた。
「言ってくれなきゃ、このままキスしますよ。高校生みたいなお子ちゃまじゃ想像もつかないような、大人の……」
かっと耳まで熱くなった。
「わ、分かり、ましたから……」
(おっ……鬼だ!!)
「……か……」
藤宮先生の口角がわずかに上がる。
「ん?」
「薫、……さん」
恥ずかしくて堪らない。
「い、言ったんだから、離して……」
けれど、藤宮先生は完全に私のことを無視して、嬉しそうに自身の鼻を私の鼻にくっつける。
「……杏」
「んっ……!!」
私の名前を呼ぶと、藤宮先生は私の額にキスを落とした。
「ちょっ……」
「杏」
「んぅ……っ!」
何度も、何度もあらゆる場所にキスが降ってくる。
「い、言ったのに……!」
(……というか、今、あ……杏……って)
いろいろと心臓がもたない。
「あなたが可愛いからいけない」
(……もう、敵わない……)
「死ぬ……」
両手で顔を覆いながら呟くと、くすくすと小さな笑い声が隣から聞こえてくる。
「蘇生なら、任せてください」
そう。私の心臓は、あの日からずっと藤宮先生に生かされている。
神の手を持つ悪魔と呼ばれる心臓外科医、この人に。
天使のように美しくて、不器用で繊細。誰よりも誠実で、それでいてとても弱い人。
それが、私の好きな人。
「……藤宮先生」
私は、この人にずっと憧れていた。ずっと恋焦がれていた。
今こうして隣にいられるだけでも奇跡だと思うのに、まさか、告白までされるなんて。
あの日、命を捨てようとした私が知ったらどう思うだろう。
人生は、生きてみなくちゃ分からない。
好きな人に愛される覚悟は、まだできていない。愛されると、今はまだどうしても身構えてしまう。
けれど。
「……私も、好きです」
不器用なりに、私はこの人を愛している。この人も、不器用なりに私へまっすぐ愛を伝えてくれる。
だから私も、精一杯の愛を伝えたい。
あの日、私の心臓を生かしながら、奪った悪魔。
彼は悪魔らしくいたずらな笑みを浮かべて、
「知ってますよ」と笑う。
「さて、仕事に戻りましょう。そろそろ美矢ちゃんも来る時間ですし」と。
藤宮先生は腕時計を確認しながら歩き出す。
「え、美矢ちゃん? どうしてですか?」
「拓哉くんから美矢ちゃんに、慎也さんの件を伝えてもらったんです。検査をせっつくように。あの子なら引きずってでも連れてきてくれそうですから」
もはや関心を通り越して奉りたい。というか、ICUで拓哉くんにしていた話はそのことだったのか。
「……さすが、鬼」
「俺は医者」
「ハイ。失礼しました」
あっという間に、いつもの私たちに戻る。けれど、それも悪くない。
「あなたはまず、拓哉くんと入江先生に謝罪と礼を言うように」
「ハイ」
「あ、あとそれから、俺たちの関係もあの二人にはしっかり伝えておくように」
「謝罪とお礼は分かりますが、なぜ私たちの関係まで?」
すると、藤宮先生はきゅっと唇を引き結んで、そのあと――にやりと笑った。
「……質問は禁止と言ったでしょう」
「えぇ……それ、まだ言うんですか?」
置いていく勢いで屋上を出ていく藤宮先生を、私は慌てて追いかける。
あらためてその背中を見ると、すごく大きく感じる。でも、これまでより近くに感じるのはなぜだろう。
好き。
そう、心の中で呟いて。
これから、どんなに悲しくて、怖くて、泣いたとしても。
私の隣には、いつもこの人がいるんだろう。そして私は、この人が隣にいれば、きっとどんなことがあっても大丈夫なんだろうと、そう思えた。




