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――キィ、と屋上の扉が音を立てて開いた。
「あのぉ……先生?」
振り返ると、拓哉くんがおずおずと私を見ている。
「拓哉くん!? なにしてるんですか、こんなところで……というか、どうやってここに?」
屋上は、一般客や患者は入ることができないようになっている。
「……音無先生に伝言があったから、入江先生に連れてきてもらった」
見れば、扉のガラス窓の向こうに白衣の影が見える。
「……伝言ですか?」
「……と、思ったんだけど、やっぱり直接話してほしいから、これ」
拓哉くんが、私にスマホを向ける。
見ると、スマホには通話中の表示。しかもスピーカーモードになっている。
『……杏』
ノイズ混じりの声が、静かな屋上に控えめに響く。 その、声は。
「……景、くん」
かつて愛した人のものだった。
『……杏。いきなり会いに来て、驚かせてごめん。でも、どうしても伝えたかったんだ』
藤宮先生は私の隣で、ぎゅっと手を握ってくれる。
『ずっと謝りたかったんだ。父さんのことで誤解させて、ごめん』
(……誤解?)
知らず知らずのうちに、手に力が篭もる。
『俺が医者を……心臓外科を目指してるのは、杏に会うためなんだ。というか、もう一度杏に会う理由を作るために、気付いたら目指してた』
私は、拓哉くんがかざすスマホから聞こえる景くんの声に、静かに耳を傾ける。藤宮先生も私の隣で黙って景くんの話を聞いていた。
『杏は、俺が無理して杏と付き合ってたって思ってるのかもしれないけど……違うよ。全然違う。俺は、本気で杏が好きだった。誰より大好きだった』
ふぅ、と小さく息を吐いて。私は、口を開く。
「……でもあのとき景くん、私と付き合ったのはお父さんに言われたからだって言った」
声が震える。
少しの間を空けて、景くんが言った。
『……当時、俺はふられるのが怖くて、それまでの関係が崩れるのが怖くて、告白する気はなかったんだ。でも、そんなことを知らない父さんは、俺と杏が幼馴染だって知ったら、杏の自慢ばっかりしてきて。……堪らなくなった。俺が一番杏を知ってると思ってたのに、って。……だから、父さんの言葉に背中を押されて、告白したのは本当……』
「……なに、それ」
頭の中が混乱する。
(……お父さんに、無理やり告白を強要させられたわけじゃないってこと?)
「だったら、どうしてあのとき……」
ちゃんと、言ってくれなかったの。誤解を解いてくれなかったの。
そうしたら、私は……。
『……だって、杏が泣いたから』
景くんの声に湿り気が帯びた。
『……話をしようとしたんだ。でも、杏が電車に飛び込んだって聞いて、怖くなって……取り返しがつかないくらい杏を傷付けた俺は、もう……会う資格はないって……』
「……だったら、どうして会いに来たの」
自分でも驚くほど、低い声だった。ぎゅ、と、指先が白くなるまで拳を握る。
「なんで今さら……私は、会いたくなんてなかった。私は……っ……」
声が出ない。藤宮先生の顔が見れない。
なんで今になって、こんなに苦しくならなくちゃいけないのか。
『……佐伯教授の話を聞いて、どうしようもなく会いたくなって……なぁ、杏。男と付き合ってるなんて、嘘なんだろ? ……俺、今も本気で杏のことが好きなんだ。諦められない……。だから、もう一度話したくて会いに来た。杏……』
あんなに大好きだった景くんの告白を聞いても、私の心は虚しくなるばかりで、私の心はちっとも動かない。
かつて彼の声や笑顔に、これ以上ないくらいにときめいた同じ心臓が、私の胸にはまっているはずなのに。
黙り込んでいると、藤宮先生がそっと私を引き寄せた。藤宮先生を見上げ、拓哉くんのスマホに視線を戻す。
「……拓哉くん。そのスマホ、貸してくれますか」
私は、拓哉くんからスマホを受け取ると、スピーカーモードを切り替えて耳に当てた。
「……ごめんなさい。でも、私は……景くんとは、もう会いたくない」
『……杏』
胸が締め付けられる。
「安心してください。私はもう、元気ですから。……それに」
ちらりと藤宮先生を見る。
「……さっきの人は、本当に私の恋人なんですよ」
動揺の声が漏れ聞こえてくる。同時に、隣で藤宮先生も驚いた顔をしていた。
「……景くん。あんな形でお別れになってしまってごめんなさい。景くんには感謝しています。私、景くんのことが本当に大好きでした」
『杏……』
「でも、今はもう……景くんのことはなんとも思ってません。私には、大好きな人がいます。心臓外科を目指してるなら、知ってるはずです。藤宮薫医師……彼はすごく頭が良くて、腕が良くて、不器用で優しい人。……私にはもったいないくらいの人。景くんじゃ太刀打ちできません。……だから、ごめんなさい」
心が痛むというのは、きっとこういうことを言うのだろう。でも、どうしようもない。
『……そっか。それじゃあ……仕方ないな……』
ノイズ混じりの、声を殺すような声。
『それでも……会えて、嬉しかった……』
「……ごめん」
『ううん。……幸せに、なってな』
「……うん。また」
通話が切れると、私は声を殺して泣いた。拓哉くんも、私と同じように静かに涙を流している。
電源を切ったスマホを返しながら、私は涙を拭い、拓哉くんに微笑みかけた。
「……拓哉くん、ありがとうございました。先に病室に戻っていてもらえますか。後で顔を見に行きますから」
「……うん」
拓哉くんは戸惑いがちに頷くと、屋上を出ていく。




