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フェンスの網越しに、人の営みをぼんやりと眺めていた。
中庭には、入院患者らしき高齢女性と息子さんらしき男性が楽しそうに話している。それから、車椅子に乗った小学生くらいの男の子と母親が日向ぼっこする姿もあった。
お腹が大きな妊婦と、妊婦に寄り添う旦那さん。
みんな、幸せそうに愛し合っている。
思わず頬が緩む。
「……音無先生」
不意に声がかけられた。
振り返ると、藤宮先生が立っていた。手には、缶コーヒーと紅茶のペットボトル。
「どっちがいいですか?」
「……じゃあ、紅茶で」
藤宮先生は紅茶は飲まない。私はあえて紅茶を受け取ろうと手を伸ばした。
すると、
「あなたはこっちのがいいですよ」と、藤宮先生は紅茶を持っていた手を引っ込めて、缶コーヒーを差し出した。
「……じゃあ」
私は仕方なく缶コーヒーを受け取り、プルタブを引く。
ひとくち飲むと、コーヒーの香ばしい香りが鼻に抜ける。
缶をあおぎながら、私は横目でちらりと藤宮先生を見た。藤宮先生もペットボトルに口をつけていた。
いつからいたのだろうか。扉が開く音にも気が付かなかった。
「……ありがとうございました」
「なにが?」
「助けて……いただいたので」
かすかに間を置いて、藤宮先生は口を開く。
「……拓哉くんから、音無先生が変な男に絡まれてると聞いて」
「……そうでしたか。ご迷惑をおかけしました。……でも、もう大丈夫です。すぐ仕事に戻りますので」
藤宮先生の横をすり抜けて屋上を出ようとするけれど、ぐいっと腕を掴まれ、防がれてしまった。
「……いいよ」
「え?」
藤宮先生は珍しく砕けた口調で。じっと私を見つめた。
「ここで少しサボりましょう」
私は戸惑いながらも、藤宮先生に手を引かれるままベンチに座る。
「……彼は、誰ですか」
唇を引き結ぶ。
「……ただの知人です」
「とても、そうは見えませんでしたが」
「…………」
「話してもらえませんか、音無先生。指導医として、でもいいですから」
一瞬躊躇って、藤宮先生の手が離れていく。
「……昔の恋人です」
呟くように言うと、藤宮先生は驚いた顔で私を見た。私は藤宮先生の顔を見ないまま、自嘲的な笑みを浮かべる。
「……驚きますよね。でも、こんな私にもいたんですよ、恋人」
最初で最後だったけれど。
すると、藤宮先生は苛立ったような声で言った。
「……どうして、そんな言い方をするんですか。あなたはいつも、そうやって自分を……」
私は、無表情のまま答える。
「……私、おかしいんです」
藤宮先生はさらに眉を寄せた。
「私は……普通の人たちが愛し合うようにできないんです。他人を信じることが怖いんです。……家族すら信じられません」
「……事件のことなら、それは」
首を横に振る。
「違います。事件は、関係ないんです」
私は藤宮先生を拒むように、手を引いた。
「彼は……景くんは、事件後も唯一触れられる異性でした」
「……景、くん……?」
「景くんは、私の初恋の人でした。……彼は、私が人生で初めて付き合った人です」
両親の離婚後、母に連れられて引っ越したアパートの近所に住んでいた母子家庭の男の子。それが景くんだった。
彼とは小学校も中学校も同じだった。
景くんは、誘拐殺人未遂事件に遭って臆病になった私とも、変わらず仲良くしてくれた唯一の人だった。
いつだって優しかった景くんを、好きになるのは必然で。でも、告白なんてする勇気はなくて、私はただそばにいられるだけでいいと思っていた。
そんなある日、景くんに告白された。
高校二年生のときだった。
私は、喜んで頷いた。
手を繋いで、デートして、キスをして。今までより、ずっと近く。誰より景くんを独占できて。
嬉しかった。楽しかった。
当時は、本当に幸せだった。景くんとなら、幸せになれるものと信じて疑わなかった。
――けれど。
終わりは突然だった。
「景くんのお母さんが、突然再婚が決まって北海道に引越すことになったんです。それを機に、景くんは一人暮らしを始めました。大学もこっちの大学を受けるつもりだからっていって、ご両親がいる北海道にはついて行かずに」
そう聞いたときは、すごく嬉しかった。これからもずっと一緒にいられると。
「……心のどこかで、私はきっと、景くんと結婚するんだろうなって思っていました。……でも、あるとき見ちゃったんです」
「見たって……なにを?」
「景くんのスマホ」
何気なく見た彼のメッセージの履歴には、私もよく知る名前があった。
「景くんのお母さんの再婚相手――それは、私の実の父でした」
「……え」
藤宮先生が困惑したような声を漏らす。
「……有り得ませんよね。私も驚きました。まさか、父がそこまで私に執着していたなんて思わなかったから」
思えば離婚のとき、父と母は私の親権を争って揉めていた。
結果、私は母について行くことになって。母が再婚して新しい父ができた。新しい父は私をなにより大切にしてくれて。
私は新しい父が大好きだった。
だから正直、実の父との記憶はあまりなくて、覚えているのは名前くらいだった。
「そのときの私はまだ子供で……もし、本当に実の父が景くんのお父さんになったのなら、私は景くんと付き合ってちゃいけないんじゃないかって思ったです」
だから、景くんに聞いた。
もう、涙は出ない。
「……そしたら、景くん……謝ったんですよ」
「謝った……?」
「景くんは私のこと、好きじゃなかったんです。景くんはただ、私の父に押されて、言われるままに私に告白したんです」
「…………どうして、そんなこと」
「父は、どうしても私との接点を持ちたかったんだと思います。そして、景くんも多分、父からの愛情に飢えていた。血が繋がっていない親って、どうしても気を遣うんです。私はそれが分かるから……」
皮肉にも、お互い似た境遇で育ったせいで、私は彼の心境をリアルに理解できてしまった。
「私はもう、なにも分からなくなりました」
幼い頃からずっと一緒だった男の子。大好きで、誰より信じていた人。
私は彼の嘘に気付かなかった。
「……正直、事件のときより落ち込みました」
事件では母や新しい父に気を遣わせ続けて。ようやく立ち直ったと思ったら、恋人に裏切られて。
「生きていても、私はただ周りに迷惑をかけるだけなんだって……それだったらいっそのこと、死のうと思いました」
「音無先生……」
もう流し切ったはずなのに、藤宮先生の声で再び涙腺が緩み出す。
「その日、高校の帰り、電車に飛び込みました」
――そして。
藤宮先生を見る。
「運ばれた先のこの病院で、藤宮先生に出会いました。藤宮先生は必死に私を助けようとしてくれていて……」
藤宮先生が、トラウマを抱える前のことだ。私は、他でもない目の前の指導医に助けられた。
「……藤宮先生は……覚えていないかもしれませんが」
涙が零れる。
あのとき、私はたしかに救われた。一生懸命、私のために汗を流す藤宮先生を見て、心から憧れた。
「……あの日、私は藤宮先生を好きになりました」
今まで私を生かしてくれたのは、藤宮先生だ。あの日なくなったはずの命を、掬いとってくれたのは、他でもないこの人。
「……ごめんなさい。私は、勝手です。藤宮先生のことが大好きだけど……藤宮先生の気持ちには応えられない……どうしても、応えられないんです……ごめんなさい」
私は泣きながら謝った。




