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藤宮先生は、相変わらず天才的な手腕でたくさんの患者を助けている。一方私は、大した実力も身につかないまま、誰のことも助けられずに日々悶々と過ごしていた。
そんな私でも、今日だけは特別で。
拓哉くんが、晴れて小児病棟に移ることになったのだ。
「あっ! 先生、それは触っちゃダメ!」
「わっ、すみません!」
「いいよ。でもあげないよ」
オペも外来もない私は、拓哉くんのお引越しを手伝っていた。拓哉くんは金魚柄の鶴を大切そうに手に持っている。
「……拓哉くん。よかったですね、ようやくたくさんお友達がいる小児病棟に移れて」
私は、点滴スタンドを押しながら歩く拓哉くんに並びながら言った。
すると、
「まあね。でも、先生が手伝ってくれるなんて思わなかったよ。忙しいのに、ありがとね」
「担当患者さんのお引越しなら、手伝わないわけにはいきませんよ。私も嬉しいです」
拓哉くんが嬉しそうに目を細める。
「そうだ、先生。今日美矢ちゃんが来るんだよ!」
「美矢ちゃん! 良かったじゃないですか」
「えへへ。病棟移れるお祝いだからって」
拓哉くんは心底嬉しそうに言う。
「嬉しいですね、拓哉くん。私も会いに病室行っちゃおうかな!」
「ダ、ダメだよ! 俺、今日こそ……」
「……おや? もしかして……?」
拓哉くんの目が泳ぐ。
「……うん。告白……しようかなって」
「わぁ! いいじゃないですか! 美矢ちゃん、驚くかな!?」
「先生楽しそうだね」
「そりゃ! 応援してますからね!」
「ありがとう先生ー!」
拓哉くんと仲良く恋バナをしていた、そのとき。
視界の端に、よく知った影がちらっと映ったように見えた。
その瞬間、心臓が跳ねた。
『――杏』
声が響く。
「…………」
――違う。
きっと見間違いだ。そう、言い聞かせて、私は拓哉くんに視線を戻す。
「そのためにも、早く退院できるよう――」
けれど。
「――杏」
名前を呼ばれ、言葉が途切れる。
二度と聞きたくなかった声が、耳朶を叩いた。
「…………」
身体が、ピリッと硬直する。
「……先生?」
拓哉くんの心配そうな顔が視界に映るけれど、私は、それに笑みを返して安心させてやれるだけの余裕もない。
「……ねぇ、先生、大丈夫?」
脂汗が、身体中から吹き出した。
「……拓哉くん。すみません。ここからは一人で病棟まで行けますか?」
できるだけ声が震えないように努力して、なんとか拓哉くんに笑みを向ける。
「……うん。分かった……」
拓哉くんはなにも言わず、一人で点滴スタンドをカラカラと引いて早足で歩いていった。
遠くなる拓哉くんの足音とはべつの、重い足音が近付いてくる。
「杏。……久しぶり」
「……うん」
目を合わせないまま、私は小さく反応した。
私に話しかけてきたのは、かつての恋人――景くんだった。
「……どうしたの、こんなところで」
心臓が痛いくらいに騒ぎ出す。
「……北海道で、ここの佐伯教授と話したら……どうしても、杏に会いたくなって」
よく言う。
好きでもなんでもなかったせに、と心の中で吐き捨てるけれど。その言葉を直接浴びせる勇気は、私にはまだない。
「……ずっと、会いたかった」
「医者……目指してるんだってね。佐伯先生から聞いた」
「……杏にもう一度会うためには、それしかないと思って。……大学、入り直したんだ」
「……そう、なんだ」
心臓が、素手でぎゅっと鷲掴みにされたように苦しくなった。
「あのさ、杏……」
景くんが口を開くけれど、
「…………あ、ごめん。私、今仕事中だから」
耐えきれなくなって、私は彼に背を向けた。
けれど。
「待って!」
強い力で、手首を掴まれた。
心臓が、これ以上ないくらいにばくんと跳ねた。
「話がしたいんだ。杏。俺……」
「……は、なして……」
意識が遠くなる。
「杏! 聞いてよ。お願いだよ。俺、本当に……」
「やだ……離して……」
(やだ、気持ち悪い……やだ、怖い……)
吐き気がして、目が眩んだそのとき。
「……なにしてるんですか」
しんとした涼やかな声が、私を救った。直後、ぐいっと腕を引っ張られ、身体がぬくもりに包まれる。
ようやく、肺に酸素が入ってきた気がした。
ゆっくりと顔を上げる。
「……藤宮……先生」
私の腕を引いてくれたのは、藤宮先生だった。じわり、と目に涙が浮かぶ。
(……どうして……どうしていつも、この人は……)
苦しいときに、私を助けてくれるのだろう。
「どなたか存じませんが、彼女になにかご用ですか」
景くんが眉を寄せる。
「あなたは……」
「生憎ですが、彼女は俺の恋人なので。知らない男と二人きりさせるのはちょっと」
「恋人……? あなたが、ですか?」
疑うような声が背中にぶつかる。
「えぇ。なにか、問題でも?」
藤宮先生はいつもと変わらず飄々としている。
「……いえ」
景くんの戸惑う声が聞こえる。
「……話があるなら、俺を通してください。俺の許可なく、この子に触れないで」
藤宮先生は警戒心を剥き出しにして、景くんに言い捨てる。そのまま私の手を取り、歩き出した。
「あっ、ちょっと……杏!」
背後に景くんの声を浴びながら、私は藤宮先生に連れられて屋上へ向かった。




