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それから数日。私は、仕事以外では藤宮先生を避けるようにして過ごした。
藤宮先生も、仕事以外ではもう話しかけてこなくなった。自分が招いたことなのに、藤宮先生に目を逸らされるたび、胸が苦しいと思ってしまう。私は、なんて都合がいい人間なのだろうか。
(……仕事、仕事。そうだよ。今は、恋愛なんてしてる暇はないんだから)
私はまだまだ修行中の身なのだ。
家に帰らず、仮眠室に籠って勉強で頭をいっぱいにする。
なにも考えない。
(……考えない……!)
けれど、それも日に日に限界が近付いてきていた。
ある朝、仮眠室から医局に向かう。医局では、入江先生と佐伯先生がコーヒーカップ片手に話をしていた。
「あ、佐伯先生おはようございます」
「あぁおはよう、音無先生」
佐伯先生はにっこりと柔らかな笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。佐伯先生とは久しぶりだ。かれこれ二週間ぶりだろうか。
「あ、音無先生、これお土産ね」
佐伯先生が有名な北海道土産をくれる。私はそれを受け取りながら、
「わぁ。ありがとうございます。どうでしたか? 出張講義は」
佐伯先生はこの一週間ほど、北海道の大学に出張講義に行っていたのだ。
「うん。学生たちは皆熱心でね、とても話し甲斐があったよ」と、しみじみ。実りのある出張だったようだ。
「そうですか」
佐伯先生は心底嬉しそうに話をしている。彼の笑顔を見ていると、こちらまで笑顔になる。
「そういえば、その中で一人特に熱心な子がいてね」
「へぇ。心外希望なのかな」
入江先生も嬉しそうに話している。
「そうみたい。石神景っていう子なんだけど……」
手が止まる。
「男性?」
男性だ。
「そう」
だって、私はその名前を知っている。
佐伯先生の口から漏れたその名前を聞いた瞬間、時が止まったかのように、周囲の音がすうっと消える。
――石神景。
私のかつての幼馴染であり、かつての恋人だった人。
「彼ね、医師免許を取ったらこの病院で働きたいって言ってくれたんだよ。なんでも、昔こっちに住んでいたらしくてね」
「へぇ。心外はそれでなくても新人が育たないから、がっちり捕まえておきたいですね」
「ハハハ。そうなんだよ。だからつい話し込んじゃってね。あ……そうそう。実は、彼に君のことを聞かれたんだよ。幼馴染なんだって?」
佐伯先生が私を見る。
「え、そうなの?」
入江先生も、つられるようにこちらを見た。
私は今、どんな顔をしているだろう。
「……あ……まぁ。もう、随分会っていませんけどね」
なんとか笑みを浮かべて答えた……つもりだけれど。
心臓が激しく鳴っている。
「彼、君が外科医だってことを言ったら、すごく喜んでたよ。今度連絡して――」
「……すみません。私、ちょっと気分が悪くて。外の空気吸ってきますね」
そう言って、私は足早に医局を出た。そのまま、逃げるように屋上へ向かう。
抜けるような夏空の下、私はフェンスにもたれ、うずくまる。
「…………はぁ」
息が苦しい。胸が痛い。視界が霞む。
生理的に溢れる涙が、乾いたコンクリートの上に濃い染みを作った。
「……なんで」
なんで、今。
やっぱり私は、どうしたって恋愛には向いていないみたいだ。




