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真矢ちゃんのベッドに行くと、彼女はまだ寝息を立てていた。私はそっとベッド脇のスツールに座り、真矢ちゃんの寝顔を見つめる。
穏やかな寝顔に、なんとも言えない気持ちになる。
真矢ちゃんはまだたったの十六歳で、家族であり時に親友だった、たった一人の妹を失ってしまった。彼女の痛みを分かる人間は、きっといない。これは、経験した人にしか分からない痛みだ。
「……一人で抱え込まないで……」
私は真矢ちゃんの手を握り、瞼を閉じた。
それからどれくらい経ったのだろうか。窓から差し込む光に意識が覚醒する。
飛び起きた。
(やばっ……! 寝てた! 涎! 涎……)
いつの間にか眠っていたらしく、私は慌てて起き上がる。涎を拭きつつ、ボサボサになった髪を手櫛で直していると、
「先生、音無先生ー」
誰かに名前を呼ばれた。
「あ、拓哉くん。おはようございます」
振り向くと、にこにこ顔の拓哉くんがいる。挨拶をすると、にこにこから一転、拓哉くんのすべすべの白頬が、ぷくっとふぐのように膨らんだ。
「先生、昨日から俺よりその子ばっかり。俺のこと忘れてない?」
「そんなことないですよ。調子はどうですか?」
若干忘れていたことは黙っておく。
「ちょっと痛い」
「えっ」
慌てて拓哉くんの術創を確認する。
「ふふっ。嘘だよー」
「こら。それはやっちゃダメな冗談です」
「えへへ。ごめん」
私は拓哉くんの頭をひと撫ですると、投薬を確認するため正面にある事務机に向かった。
拓哉くんはしばらく周囲を観察していたが、次第に飽きたのか、隣のベッドへ体を向けて「おはよう」と、真矢ちゃんに声をかけていた。
見ると、真矢ちゃんは静かに瞳を瞬かせて天井を見上げていた。真矢ちゃんも目を覚ましていた。
今度は暴れることなく、じっと天井を見つめている。
「ねぇ、もう泣き止んだの?」
「え……?」
拓哉くんの問いかけに、真矢ちゃんは戸惑いがちに顔を向けた。
「昨日、泣いてたからさ」
「……べつに、泣いてなんかない」
真矢ちゃんは不貞腐れたように、顔を正面に戻した。
「嘘だ。泣いてたよ。音無先生が拭ってあげてたもん。ま、気付いたのは俺だけどね」
「…………」
私は苦笑しつつ、二人の会話を見守った。
「ねぇねぇ、君はなんの病気なの?」
拓哉くんの問いかけに、真矢ちゃんは無視を決め込んでいる。
「俺ね、先週心臓手術したの。君手術したことある? 俺二回目なんだけどさ、前のときはちっちゃかったから全然覚えてなくて。麻酔ってすごくない? ドラマで見るみたいに、本当にマスクした瞬間急に眠くなんの!」
「…………」
真矢ちゃんはガン無視だ。
「しかもさ、目が覚めたらもう全部終わって二日経っててさ、やばくない?」
「…………」
(拓哉くんめげないなぁ……)
彼は、心臓は人よりちょっとばっかし弱いが、メンタルは私なんかより強靭だったりする。
「でもさぁ。手術って結構辛いよね。縫った痕は痛いし突っ張るし、服と擦れて痛いし鎮痛剤が切れても痛いし、いろいろ最悪じゃない? まぁでも、こうしないと死んじゃうから我慢するけどさ」
「え……」
真矢ちゃんはようやく、拓哉くんを見た。死、という言葉に反応したのかもしれない。
「俺、運いいの。俺の手術してくれたの、藤宮先生なんだ。君も、藤宮先生に助けてもらったんでしょ?」
「…………知らない……」
「藤宮先生って、神の手って言われてるんだって! そんな人に手術してもらった俺らって、めっちゃラッキーだよね!」
「…………」
真矢ちゃんは、戸惑うような眼差しを拓哉くんに向けていた。
「拓哉くん。私もお話に混ざっていいですか?」
「うん!」
拓哉くんに微笑んだあと、私は真矢ちゃんのベッド脇のスツールに腰を下ろした。
「……真矢ちゃん」
呼びかけると、真矢ちゃんは視線だけを動かして私を見る。
「おはよう。私、音無杏といいます。気分はどうかな?」
真矢ちゃんは答えることなく、私から視線を外した。
「よく眠れましたか? 実は昨日の夜中、真矢ちゃんの様子を見に来たら私うっかり眠っちゃったみたいで……ごめんね、狭くなかったですか?」
しかし真矢ちゃんは黙だんまりのままだ。
「あ……そういえば真矢ちゃん、胡桃坂音楽学校に通ってるんですよね」
「えっ! マジ!? すご!」
真矢ちゃんの代わりに拓哉くんが反応する。
「すごいですよね」
しかし、肝心の真矢ちゃんからの反応はない。
「真矢ちゃんは娘役と男役、どっちを目指してるんですか?」
すると、真矢ちゃんの睫毛がぴくり、と震えた。
「…………」
「真矢ちゃんはすごく綺麗な顔をしてるから、男役も似合いそうだけど……」
「えー、絶対娘役だよ! 可愛いもん!」
「たしかに可愛らしい娘役もすごく似合いそうです。どちらかを選ばなくちゃいけないなんて、なかなか難しいですね」
「ねー! 二人いれば、どっちもできたのにね!」
拓哉くんは、笑顔で地雷を踏んだ。なんてことだ。
私は振り向き、
「拓哉くん、ちょっと黙りましょうか」
「えっ、なんで? えっ?」
私は笑顔でカーテンを閉め、スツールに座り直す。背後から文句の声が聞こえるが、今は真矢ちゃんにならって無視をする。
「ごめんね、真矢ちゃん。騒がしくて」
改めて真矢ちゃんを見る。すると、彼女は今にも消え入りそうなかすかな声で呟いた。
「……私は……べつにすごくない……」
「……どうして? 胡桃坂音楽学校って、私みたいな医療オタクでも知ってるくらい有名な学校ですよ。卒業したらクルミジェンヌだなんて、すごいじゃないですか」
やはり、返事はない。
けれど、その瞳はなにかの感情に揺れ動いているように見えた。そしてそれは、私もよく知っている感情な気がして。
「……ねぇ真矢ちゃん。どうして、自殺なんてしようとしたんですか?」
尋ねるけれど、真矢ちゃんは私から目を逸らしたままで。
「……真矢ちゃん。私と、内緒の話しませんか」
頑なに口を開かない真矢ちゃんに、私は話を続けた。
「……実は私もね、ここに来たことがあるんです」
「え?」
それでようやく、真矢ちゃんは驚いたように私を見た。
「……自殺未遂で運ばれたの。真矢ちゃんと同じ十六歳のときだったかな」
背後で衣擦れの音がした。多分、聞き耳を立てていた拓哉くんが、驚いてこちらに身を乗り出したのだろう。
「……どう……して?」
「私ね、その頃男の人が苦手で、学校にも行けてなかったんです。そのせいで両親にも迷惑かけて……特にお父さんと私は血が繋がってなかったから、関係を余計にややこしくしちゃってね。お母さんはそのせいでよく泣くようになって、お父さんも疲れ切ってて。私のせいで二人にこんな思いをさせるなら、もうこのまま死んじゃおうかなって……駅のホームから飛び降りちゃったんですよ」
真矢ちゃんが、ごくりと喉を鳴らした。
「……でもね、ここに運ばれて藤宮先生に助けてもらったんです」
遠い意識の裏側で、私を助けようと必死になる藤宮先生の姿が、今でも脳裏に焼き付いている。
「……あ、これ、藤宮先生には内緒ですからね? 藤宮先生は私のこと覚えてなかったし、まだ内緒にしてるから」
私は指を立てて、真矢ちゃんに微笑む。
「……だからね、分かるんです。真矢ちゃんが生きることをやめたくなっちゃう気持ちも。でも……いろいろ、痛くないですか? 身体はもちろんだけど、心も」
真矢ちゃんは、自身の腕にちらりと視線をやった。傷はまだ生々しい状態のまま、真矢ちゃんの身体のあちこちに残っている。
「……お父さんとお母さん、すごく悲しんでましたよ。多分、真矢ちゃんが死んじゃったら、二人はずっと自分たちを責め続けると思います」
すると、真矢ちゃんは私から目を逸らし、小さく言い返した。
「……私の命は、私のものでしょ。どうしようと勝手じゃない」
「そうですね……でも、どうせ死ぬならその前に、真矢ちゃんが死のうとしてる原因を私に教えてくれませんか」
「どうして、あんたなんかに」
「どうせ死ぬつもりなら、いいじゃないですか」
私はできるだけ優しく、真矢ちゃんのシーツを整える。真矢ちゃんはシーツに顔を埋めながら、困ったように眉を下げる。
「それは……」
真矢ちゃんは小さく口を開きながら、目を泳がせる。
「……だって」
真矢ちゃんは苦しげに眉を寄せ、唇を噛んだ。
「うん。いいよ、ゆっくりでいいから、聞かせてください」
真矢ちゃんはしばらく口を噤んで、そして、言った。
「……だって、私は死んでるんだもん」
「死んでる……?」
どういうことだろう。
私は首を傾げて真矢ちゃんを見る。彼女は今にも泣きそうに、くしゃっと顔を歪ませた。息が乱れ始める。
(まずい……)
私は咄嗟に真矢ちゃんの手を握った。
「大丈夫。真矢ちゃんは生きてるよ。ほら、ね? 温かいです」
「…………私……」
真矢ちゃんの手は温かい。
ものではない、生き物としての温度がちゃんと感じられる。
「もう、止めようか。目が覚めたばかりだもんね」
しかし、真矢ちゃんはぶんぶんと首を横に振った。
「……違うの」
「違う……?」
とうとう真矢ちゃんの瞳に、透明な涙の膜が張る。
「私たち、本当は二人で目指してたの……胡桃坂音楽学校」
「二人でっていうと……妹の美矢ちゃんと?」
「うん」
「……そっか、そうだったんですね」
「でも、真矢だけが受かって」
仕方ない。二人一緒に、というのは難しいだろう。胡桃坂音楽学校となれば、なおさら。双子とはいえ、同じものを目指す以上、差が出るのは必然だ。残酷だけれど。
「それなのに、辞めたいって言うから」
真矢ちゃんの頬を、つーっと涙が横につたっていく。
「え……?」
(……どういうこと?)
真矢ちゃんの発言に違和感を覚え、私は眉を寄せる。
「音楽学校に行ってるのは、真矢ちゃんですよね?」
確かめるように尋ねると、真矢ちゃんは首を横に振り、震える声で言った。
「……私、真矢じゃないの」
「え……?」
どくん、と心臓が飛び跳ねる。
鼓動が早まっていく。
「私は――美矢」
目を瞠る。言葉が出なかった。




