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病棟に戻ると、ちょうど藤宮先生と出くわした。
「あ、藤宮先生! あの……」
「ごめん、今急いでる!」
藤宮先生は声をかけた私をするりと避け、白衣をひるがえして走っていく。その声は、いつにも増して切羽詰まっているように聞こえた。
急患だろうか。
私も急いで藤宮先生のあとを追いかけた。
藤宮先生が向かっていたのはERではなく、ICUだった。
「あのっ! 藤宮先生、もしかして拓哉くんになにか……」
私は走りながら藤宮先生の背中に声をかける。
「拓哉くんは大丈夫。……違う、急変は俺の患者です」
藤宮先生は振り返らないまま、早口で言った。
脳裏に、先程の女の子の姿が過ぎる。
(あの子が……)
藤宮先生の横顔は、見たことないほど焦っていた。
そして、ICUに行くと、けたたましいアラーム音と叫び声が響いていた。
「離して! 離して離して!! なんで死なせてくれないの! 私はもう死んでるの!! 死なせてよ!!」
叫びながら暴れているのは、つい先程藤宮先生が救命した例の女の子――北見真矢ちゃんだった。
「真矢ちゃん、落ち着いて。今すぐ楽になるからね」
「動かないで」
「真矢ちゃん、こっち見て。ゆっくり息しよう」
ナースたちが三人がかりで必死に真矢ちゃんを押さえ込んでいる。真矢ちゃんのベッドの下には、抜かれた点滴のコードと鮮血が飛び散っていた。
「!」
藤宮先生の顔色が変わる。
「状況は」
「藤宮先生……! 目を覚ましたと思ったらいきなり暴れ出して、チューブを外しちゃって……混乱状態で、全然話も聞いてくれなくて」
「鎮静剤は」
「今、打ちました」
藤宮先生が真矢ちゃんのベッドに近付く。私も後に続き、藤宮先生の後ろに立つ。
すると、背後からちょんちょんと服の袖を引かれた。
振り返ると、不安げな顔をした拓哉くんと目が合う。すっかり怯えてしまっている。
「ねぇ、音無先生……あの子、どうしたの?」
「……拓哉くん」
「……あの子、さっき死なせてって言ってた」
私は拓哉くんのシーツを整えながら、そっと笑いかける。
「……びっくりしちゃいましたよね」
「せっかく助かったのに……生きたくないのかな……?」
拓哉くんの言葉に、私は喉を詰まらせた。
(生きるために必死に頑張っている拓哉くんの前で、こんな……)
こんなの、あんまりだ。
「そんなことありません。きっと、目が覚めたら知らない場所だったから、驚いちゃっただけですよ。さ、今日はもう休みましょうね」
「うん……」
カーテンで拓哉くんの視界を遮ると、私は真矢ちゃんのベッドに戻った。ベッドでは、暴れる真矢ちゃんをドクターとナースたちが数人がかりで押さえている。
「舌、気を付けて。噛まないように」
「はい」
「真矢ちゃん、落ち着いて! もう大丈夫だから」
藤宮先生も真矢ちゃんを押さえ込みながら、必死に話しかけていた。
すると、真矢ちゃんは恨めしげに藤宮先生を睨み、驚くほど低い声で呟いた。
「なんで助けたの……」
その瞬間、藤宮先生の顔が強ばった。
藤宮先生の顔から、どんどん血の気が引いていく。呼吸がかすかに乱れ始めた。
「藤宮先生……」
と、同時に、ゆっくり真矢ちゃんの瞼が下がっていく。
ようやく薬が効いたのだろう。藤宮先生は手の力を緩めて、ふらりとベッドから離れた。ついさっきまで強く真矢ちゃんを押さえていた手は、だらりと垂れてしまっている。
「……藤宮先生」
そっと声をかけると、藤宮先生が私を見た。その瞳は、少し濡れているように見える。
藤宮先生は私から目を逸らすと、俯いた。前髪が顔にすっと影を落とす。
「……すみません。精神科にコンサルをお願いしてもいいですか」
苦しげな声で、藤宮先生が私に言った。
「……はい」
呟くようにそれだけ言うと、藤宮先生はふらふらとした足取りでICUを出ていった。
私は追いかけることもできず、眠る真矢ちゃんへ視線を流した。
(……こんなの、あんまりだ……)
私は医局に戻ると、精神科にコンサルを済ませてからカルテを確認した。
「北見真矢ちゃん、十六歳……入院歴は……」
電子カルテをスクロールしていくと、とある情報が目に留まった。
「これ……」
私はじっくり目を通す。
(自殺未遂の原因は、これか……)
ため息が漏れた。
「……私はもう死んでるの、か」
カルテの一号画面を開き、彼女の家族の連絡先を確認すると、私は受話器を取った。
『――なんで助けたの』
真矢ちゃんの言葉は、残酷なまでに藤宮先生の心臓を一突きにしていた。
(……真矢ちゃんのことは、絶対に助ける)
手をぎゅっと握り込む。もう二度と、あんな顔はさせない。




