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いつもと同じ道に、いつもと違う足音が響いている。夜の道はしんと静まり返っていて人気はない。
代わりに虫の声がちらちらと聞こえていた。
(もう夏も中盤か……あっという間だなぁ)
夏らしい虫のさざめきを聴きながら、私はここへ来たときのことをぼんやりと考える。あの頃は、憧れの人と仕事ができるだけで嬉しかったのに。
(私……こんなに……)
私はいつの間に、これほどまでに藤宮先生のことを好きになっていたのだろう。
(いや、きっと初めから……)
そのとき、コツンと肩がぶつかった。びくり、と肩が竦む。
「あ、ごめんね」と、入江先生が言う。
「いっ、いえ」
咄嗟に俯く。
「音無先生、こっち側歩いて。車、危ないから」
「だ、大丈夫ですよ。子供じゃないんですし」
「いいから。僕が気になっちゃうんだよ」
視界の端に、入江先生の肩が見える。いつもデスクで向かい合っているときは感じなかったけれど、すぐ隣で見ると藤宮先生より大きく思えた。
(入江先生って、こんなに背高かったんだ……藤宮先生よりあるかな)
藤宮先生は今頃、どうしているだろうか。まだ医局で彼女のことを考えて、そわそわしているのだろうか。
(……一人で大丈夫なのかな)
入江先生は気を遣ってカフェの話をしてくれているけれど、私の耳にはほとんど入ってこない。
足が重い。
どんどん病院が離れていく。
最後の藤宮先生の横顔が頭から離れない。一度もこちらを向かなかった、あの横顔。
隣から聞こえてくる足音や息遣いに、小さな違和感を感じてしまう。
ふと、沈黙が落ちた。
藤宮先生との間に落ちる沈黙とは違って、少し気まずい。
「藤宮先生のこと、気になる? それとも……僕とだと、怖い?」
しんとした世界に響いた入江先生の声。
どきりとして顔を上げると、入江先生は申し訳なさそうに私を見下ろしていた。
「……ごめん、事務長に聞いてたんだ。詳しくは知らない。でも、その……事件に巻き込まれたことがあるっていうことだけ」
(……あぁ、私は……)
目を伏せる。入江先生の表情に、胸が軋んだ。
「……あの、入江先生。私……」
立ち止まり、入江先生に深く頭を下げる。
「この前のお礼をずっとできていなくて……黙っていてすみませんでした」
入江先生は少しだけ驚いたように瞳を瞬かせたあと、優しい声で言った。
「……お礼もごめんなさいも、仮眠室でちゃんと聞いたよ?」
私は首を横に振る。
「……でも、入江先生が聞きたかったはずのことを、私は気付かないふりをしました。仕事に持ち込んだ以上、ちゃんと話すべきだったのに」
「……そんなの、音無先生が気に病むことじゃない。……ごめん、責めたように聞こえたかな」
私は覚悟を決めて、口を開く。これからも同じ職場で働いていくなら、やはり話すべきだ。
「……あの日、学生の頃のトラウマを思い出してしまって、取り乱しました。……私、部活帰りにちょっとした事件に巻き込まれたことがあるんです」
「……事件?」
入江先生が驚いた顔をする。
いつも思う。この話をするとき、必ず相手がするこの顔は未だに慣れないと。
私は目を逸らしたまま、淡々と言った。
「誘拐未遂と殺人未遂です」
入江先生は静かに息を呑んだ。
「それが原因で……夜が少し苦手で。当直明けの昼間なら、全然一人で帰れるんですけど、暗い中を帰るのはどうしても……怖くなってしまって」
「…………そっか。ごめん、そんな辛い過去を抱えてるなんて知らなくて……」
入江先生は戸惑うように言いながら、
「音無先生……抱き締めてもいい?」
「え……」
答える前に、優しく手を引かれる。そのままぽすんと入江先生の腕の中に収まった。
手の力はこれ以上ないくらいに優しくて、逃げ出そうと思えばいくらでも振り払える強さだ。
「辛かったね」
「いえ……もう、過去のことですから」
私は今、どんな顔をしているのだろう。
「……ねぇ、音無先生」
「はい」
「僕のことも……怖いかな?」
「……怖くはありません」
本音だ。怖くはない。入江先生はいつだって優しい。
「でも、安心はできない……?」
その声はあまりにも悲愴で。私の方が苦しくなってくる。
俯いたままでいると、頭の上にぽん、と優しい手が乗った。
「……そっか。無理に連れ出してごめん。ショッピングモールも嫌だったら」
「い、いえ! 嫌じゃありません! 私、ずっと入江先生にお礼がしたいと思っていて……ようやくそのチャンスが来たと思っていたので、むしろ、嬉しいです」
「本当? 行ってくれるの?」
「わ、私でよければですが……」
「うん。じゃあ、行こう」
入江先生は嬉しそうに微笑む。
「それから……これは、僕の勝手なひとりごとだから、聞き流してもらっていいんだけど」
「はい……?」
「僕は、もっと音無先生のこと知りたいと思ってる。同僚としてじゃなくて、一人の女の子として」
どくん、と心臓が跳ねた。
「え……」
入江先生はいつになく真剣な顔付きで私を見下ろしている。
「……だから、藤宮先生だけじゃなくて……僕のことも見てくれないかな」
その瞬間。ぼっと顔が赤くなる。
「えっ……えぇっ!? いや、いやいや、も、もちろん、入江先生のことだって見てますよ……?」
「でも、僕より藤宮先生のことを考えてる」
少しだけ不服そうに口を尖らせる入江先生は、ずっと歳上のはずなのになんだか可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「……あ、笑った」
入江先生がふっと表情を綻ばせる。
「……藤宮先生はずっと憧れていた人なんです。それにいつも迷惑かけてばかりだから……今日ICUに入った患者さん、自殺未遂したって聞いて気になってしまって」
「……あぁ。もしかして、藤宮先生から聞いた? コードブラックのこと」
「はい。伺いました。それが原因で、救命医を辞めたことも」
入江先生は優しく笑って、頭を撫でてくれる。
「わっ……」
「……好きなの? 藤宮先生のこと」
入江先生の手が、頭からするりと頬に落ちる。指先が熱い。くすぐったい。
「……僕じゃダメ?」
「……たしかに私は、藤宮先生のことが好きです。でも……べつに、それだけです」
私の言葉に、入江先生は少しだけ目を見開いたけれど、すぐにすっと目を細めた。
「それだけって?」
「それは……」
「……音無先生は、藤宮先生と付き合いたいとは思ってないってこと?」
(……思ってない、はず……)
私は自分自身に言い聞かせるように、
「私はただ、藤宮先生の力になりたいだけです」
「音無先生……」
「私、戻ります。拓哉くんのことも気になりますし……」
ぺこりと頭を下げると、私は来た道を引き返す。すると入江先生が私を引き止めて言った。
「送るよ」
一瞬考える。
けれど。
「……いえ、大丈夫です。ここからならすぐ近くですし。入江先生、今日は本当にありがとうございました」
「……うん。お疲れ様」
暗闇はまだ怖い。でも、前よりは少し、ほんの少しだけだけれど、闇の明度が上がったような気がする。
(……うぅ。でもやっぱり怖い……!)
私は一人で戻る選択をした自分に若干後悔しつつ、早足で病院に戻った。




