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医局に戻ると、藤宮先生の姿はなかった。
「お疲れ様です」
一人で仕事をしていた入江先生に挨拶をして、私もすとんとデスクにつく。
「お疲れ様。拓哉くんの調子はどう?」
入江先生が私を見る。
「順調です。拓哉くん、術後で不安定な時期だというのにケロッとしていて関心していたところです」
「拓哉くんって、まだ十五歳なんだっけ?」
「はい。……あ、そういえば、今年は受験生ですね」
志望校とかは決まっているのだろうか。そういえば、受験勉強をしているようなところを一度も見たことがない。
「受験かぁ。当人にとっては悩ましい時期だね。青春だなぁ」
「そうですね。でも、この調子なら今週中には小児病棟に移れそうですし……受験に影響が出ないよう、早期退院を目指します」
「そうだね」
入江先生は、私が取り乱したあの日のことについて、あれからなにも聞いてこない。
(……まぁ、なにも聞いてこないのは私に興味がないからなんだろうし、このまま流しちゃってもいいのかな)
内心迷いながらも、私は溜まっている入力作業を片付けようと指を動かす。タイピングの音と、時計の無機質な音ばかりが深夜の医局に響く。
「…………」
やはり沈黙が気になって、私はほどなくして口を開いた。
「あの、入江先生……」
「あ、そうだ。音無先生。手、出して?」
入江先生は立ち上がると、私にすっと片手を突き出した。
「?」
言われるまま手を出すと、手の中に可愛らしいパッケージのお菓子が数個転がる。
「わっ! お菓子だ!」
「好き?」
「はい! ありがとうございます!」
入江先生がくれたのは、チョコレートとビスケットだった。しかも、まだ食べたことがないやつだ。
「それ、売店で売ってた新作なんだ。音無先生って普段あまり食べてるところを見ないから、甘いもの好きかどうか悩んだんだけど……あげたかったから全部買ってきちゃった」と、入江先生はぺろりと舌を出して言った。可愛らしい。
(深夜なのに完璧に可愛い。どういうこと……)
入江先生の茶目っ気に悩殺されながら、私は礼を言う。
「ありがとうございます。お菓子は大好きです!」
「それなら良かった。ねぇ、それなら今度、付き合ってほしいところがあるんだけど。いいかな?」
入江先生は窺うように私を上目遣いに見た。
(歳上イケメンの上目遣いの破壊力たるや……)
眩し過ぎて、もはや目が痛い。私は目を細めつつ、聞き返す。
「付き合ってほしいところ……ですか?」
「近くに新しくショッピングモールができたでしょ? 実は、あそこに行ってみたい店があるんだ」
「そういえば……私もまだ行ったことなかったです。でも、入江先生が行ってみたいところって」
最近、病院のすぐ近くに割と大きなショッピングモールがオープンしていたのだった。
「カフェなんだけど、男一人だと入りづらくてさ」
「あぁ、なるほど……」
(……入江先生とカフェ。うん、競う余地なく優勝)
一瞬、脳裏に藤宮先生の顔が過ぎるけれど。
入江先生にはいつもお世話になってるし、これは礼をするいいチャンスかもしれない。
「しかもあそこに入ってる本屋、結構医学書が豊富らしいんだよ」
(医学書!)
「行きます!」
目の前にぶら下げられた餌に、私は迷わず即答した。
「じゃあ、今度休み合わせよう」
「はい!」
私はるんるんしながら早速チョコをひとつ口に入れる。
優しい甘さが広がっていく。
幸せだ。
今年の私は、運がいいのかもしれない。
舌の上で、何個目かのチョコレートを転がしながらほくほくしていると。
そこへ、藤宮先生が戻ってきた。
「お疲れ様です。藤宮先生」
「……うん」
笑顔で挨拶をしたが、返ってきたのは素っ気ない返事だけで。浮かれていた気分から我に返る。
藤宮先生はいつになく言葉少なだ。
「…………」
表情も暗い。やはり自殺未遂の彼女のことが気になっているのだろうか。
私は既に彼の過去の傷を聞いている。けれど、だからといってそこに触れていいのかは、まだよく分からない。
隣を気にしつつ入力作業をしていると、不意に声をかけられた。
「……音無先生、すみません。今日はちょっと、送れそうにないんですが」
藤宮先生は申し訳なさそうに私を見る。
「あ……いえいえ。大丈夫です。私も勉強したいので、仮眠室に泊まろうと思ってたんです」
咄嗟に嘘をついた。
(今日は、そっか……。二人で話せないんだ)
正直残念だけれど、今日ばかりは仕方ない。私も勉強しなくてはならない。
「……すみません」
律儀に謝ってくれる藤宮先生に、私は首を横に振った。
「気にしないでください」
あれから私と藤宮先生は、夜遅く帰るときはほぼ一緒に帰るようになった。私としては、藤宮先生と二人きりになれて役得しかないけれど、藤宮先生はどう思っているのかは分からない。
彼にとって私を送る時間は、ただの無駄な時間なのか、それとも……。
「ICU行ってきます」
「え、さっき言ったばかりなのにですか?」
思わず尋ねると、藤宮先生は目を泳がせた。
「……そうでしたね」
藤宮先生は椅子に座り直したが、どこか落ち着かない様子で。
どうしても、あの子のことが気になるのだろう。
「……あ、いや、すみません。今のはその……」
藤宮先生はガタンと椅子を揺らして立ち上がると、本棚の医学書を引き抜き、立ったままその場で読み始めた。その背中は、これ以上話しかけられることを拒んでいた。
私は小さく息をついた。
(……やっぱり、まだ引きずってるんだなぁ)
私はどうするべきなのだろう。
藤宮先生のフォローに回るべきか、それとも大人しく拓哉くんの術後ケアに回るのか。
(……うぅ。分からない……)
すると。
「音無先生、一緒に帰らない?」
微妙な空気を割くように声を出したのは、入江先生だった。
「え」
顔を上げると、にこにことした入江先生が私を見ている。
「音無先生はすぐ無理するからね。今日はもう帰ろう? やっぱり寝るなら家の方が落ち着くよ。さ、そうと決まったら、帰る準備して」
「あ、いえ、でも……」
ちらりと藤宮先生を見る。けれど、藤宮先生はなにも言わないどころか、こちらを見ようともしない。
(……うーん、どうすれば)
藤宮先生のことが気になるし、正直今は帰る気にはならない。けれど、気を使ってくれた入江先生の好意を無下にするのも悪い。
ぐるぐると悩んでいると、入江先生が言った。
「ちょうどいいから、今度の休みの予定も立てよう? 二人一緒に休みを取るとなるとかなり先になっちゃうかなぁ……」
「あ……そ、そうですね」
私は藤宮先生を気にしつつ、返事をする。入江先生はご機嫌な様子でパソコンの電源を落としている。
「それじゃ、藤宮先生お先に。お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
私も入江先生にならって小さく挨拶をする。
「お先に失礼します……」
「……お疲れ様です」
(……いいんだ、他の人と帰っても)
入江先生と帰ろうとする私を、藤宮先生が止める気配はない。
扉を閉める直前に見えた藤宮先生は、どこか思い詰めたような顔をしていた。
べつに付き合ってもいないのだから、止める方がおかしいのだ。
(……分かってるってば)
もやもやする心情をなんとか誤魔化しながら、私は一歩足を踏み出した。
廊下に出ても、振り返っても、藤宮先生の姿はなかった。




