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「お好きなところへどうぞ……」
「お邪魔します」
自分の家のはずが、藤宮先生がいると思うとやけに緊張してしまう。
(匂いとか大丈夫かな。しばらく換気できてなかったし……あ、お茶出さなきゃ)
パタパタとスリッパを鳴らしてキッチンに行き、お湯を火にかける。茶葉を探すため、戸棚を漁りながらちらりと藤宮先生を振り返る。
藤宮先生はテーブルに手をついたまま、ぼんやりとして動かない。
どうしたのだろう。
「あの……どうかしましたか?」
おずおずと声をかけると、藤宮先生はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
「……条件」
「え?」
「俺が指導医になる条件です」
「えっ、ま、また追加ですか? ちょっと横暴が過ぎるのでは……」
「あなたがなにを抱えているのか、教えてください」
しんとした、歪みのない声だった。
「…………」
何度目かの沈黙が落ちる。
「今日の現場はたしかに荒れていましたが……あれが理由じゃないでしょう」
藤宮先生は、もうとっくに気付いていたのだ。
「……教えてください」
藤宮先生はこんなときだけ悲しそうな、それでいて寂しそうな、しょげた顔をして私を見た。
「……なにもないですよ。今日はただ、ちょっと調子が悪かっただけで」
「……俺には無理矢理話をさせておいて、自分は隠すんですか」
痛いところを突かれる。
「うっ……そ、それはそうなんですが……いや、とはいっても、私の場合はプライベートというか、全然仕事関係じゃないですし……」
「いいから話しなさい」
藤宮先生はキッチンの中にいた私のところまでやってきて、さらにぐいっと顔を寄せてくる。
「俺の指導を受けたいなら」
まさかの交換条件を出された。
「強引……」
(……というか、顔が綺麗過ぎるんですが。毛穴どこ。というかかなり歳上のはずなのに、この肌の潤いは一体……)
内心いろいろな感情がごちゃ混ぜになって答えずにいると、藤宮先生はふっとそっぽを向いた。
「……そうですか。では、指導医は交代ということで」
そのまますたすたと部屋を出ていこうとする。
「あー!! 待ってください!」
慌てて引き止めると、
「じゃあ、教えてください。あなたがどうしてそんなに暗闇を怖がるのか、仮眠室に住もうとするのか」
綺麗な顔に迫られ、私は小さくため息をついた。
(言うしかないか……迷惑かけたのは私なんだし)
こうなってしまっては、もう隠し通すことはできない。
「べつに、聞いて楽しい話じゃないですよ」
「いいから早く」
小さく息を吐く。
「……昔、誘拐未遂に遭ったことがありまして」
風のない空間に、私の声だけが響いた。
私は藤宮先生がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、俯きがちに話し出した。
「中学生のときの……部活帰りのことでした。帰宅途中の道で角を曲がる直前、いきなり誰かに自転車ごと蹴られて転ばされたんです。そのあと、倒れた私を知らない男の人が無理矢理車に連れ込もうとして……」
藤宮先生の、息を呑む喉の音が聞こえた。
あぁ、と思う。心が冷めていく。
かつての話を人に話すことは、好きではなかった。だって、話せばみんな、口には出さなくても私を汚いと思うから。可哀想だと思うから。
そんなふうに思ってほしくて話すわけじゃないのに、周りは勝手に私を可哀想な子だと認定して、優しくする。腫れ物に触れるように扱う。
実際は怖くて怖くて堪らないけれど、今だって、知らない男の人は苦手だけれど、必死で平気なフリをしているのに。
「心配しないでください。もう十年以上も前の昔の話ですし、あのときのことなんてなんとも思っていませんから。あくまで未遂でしたし……」
けれど、自分の意思とは裏腹に、声は頼りなく震えてしまう。瞳が潤み出す。
「たまたま通行人が声をかけてくれて助かったんです。でも、誘拐しようとしたことがバレた犯人は、持っていたナイフで私を刺しました。そのあと犯人は自殺を計って……」
ぐいっと強く腕を引かれた。同時に、全身が温かな体温に包まれる。
私は、藤宮先生に抱き締められていた。とうとう頬を涙がつたう。
「血の海の中で横たわる男の……血走った目が、ずっと私を見つめていて……」
「……もういい」
藤宮先生の手の力が一層強くなる。
「夜は……どうしてもあの日のことが頭をよぎって……」
「もういいから」
「……知りたいって言ったのは、藤宮先生です」
「……ごめんなさい。でも、もういいから」
私を抱き締める藤宮先生の腕の力が強くなった。
「……あなたがどうして仮眠室にいたがるのか、今になってようやく分かりました」
「え?」
胸に押し付けられた頭を持ち上げて、私はすぐ真上にある藤宮先生を見上げた。
「仮眠室なら、悪夢を見て目が覚めても、医局に行けば誰かしらはいますからね」
否定できず、私はそっと視線を逸らす。
「……すみませんでした」
「……なんで藤宮先生が謝るんですか」
「嫌なことを思い出させました」
「嫌じゃありません!」
思いの外大きな声が出てしまって、私はハッとして口を噤んだ。
「……す、すみません」
「……いや」
「いずれにしろ、早いうちに言っておかなくちゃと思っていました。私はこれからも、大事な現場でああいうパニックを起こす可能性があります」
「……そのときは、俺がフォローする」
私は藤宮先生から離れると、小さく首を横に振った。
「……いえ。次、またこのようなことがあれば、私は外科医を諦めます」
「……なぜ」
苛立ったような声が返ってくる。
「大切なときに戦力外になる可能性がある以上、私は外科医を目指すべきじゃありません。医学部に入った頃から思っていました。これまでは発作は起こさなかったけれど……これからもそうであるとは限らないって」
「……あなたのメンタルについては、俺が指導医として管理するから大丈夫です」
「……無理です。私だって自分の感情をコントロールできないのに」
「俺ならできる」
「それこそなんの根拠があって……」
「その代わり、危険な行動は避けるように。怖いと思ったら我慢しないですぐ俺に言うこと。返事は?」
私の言葉を遮った藤宮先生は、凛々しい顔つきで私を見ていた。
「……はい」
藤宮先生はホッとしたように表情を緩めた。しかしすぐに眉間に皺を寄せる。
「……あと、入江先生はダメです。入江先生に送ってもらうのもダメ。部屋に入れるのは絶対ダメ。帰るときは俺が……」
「え……え、あの、藤宮先生?」
藤宮先生の口は止まらない。
「入江先生はあなたには似合わない。そもそも入江先生は……」
「……あ、あの、さっきからなんの話ですか? 入江先生はたしかに優しくて素敵な先生ですけど、ただの上司で……」
藤宮先生はハッとした顔をして、私を見た。その顔に、徐々に赤みが指していく。
「……いや、なんでもありません」
早口で言うと、藤宮先生はくるりと背中を向けてしまった。
(……新鮮だ……藤宮先生が赤くなった……)
こんなときなのに、私の心臓は現金で。どきんと胸が弾んでしまう。
もしかして、少しだけ私を認めてくれたのかな、とか。
有り得ないことかもしれないけれど、もしかして、もしかしてもしかして、ちょっとだけ嫉妬してくれたのかなとか。
(……いやいや、ないないない。モテモテモテモテの藤宮先生が、うん、ないないない)
藤宮先生は背を向けたまま、私を呼んだ。
「……音無先生」
「はっ……はい!」
声が上擦ってしまった。
「今すぐ着替えてベッドに入ってください」
「へ? な、なんですか、急に」
「指導医命令です。ネーベンは今すぐに動く」
「は、はい……?」
言われた通りに部屋着に着替えて、ベッドに向かう。藤宮先生は横になった私に布団を被せると、私に言った。
「手に触れても?」
「はい……?」
藤宮先生の手と私の手が、そっと触れ合う。それは驚くほど優しい手つきだった。
「……あ、あの……これは、どういう……?」
「あなたが眠るまでここにいます。この手以外にはあなたに指一本触れません。眠りについたら帰るので、安心してください」
「い、いやいや。大丈夫ですよ。もう遅いですし、藤宮先生は帰ってください。私なら一人で寝れますから」
しかし、藤宮先生は私の声が聞こえていないのか、わざとスルーしているのか、ため息混じりに言った。
「仮眠室で魘されていたときも、こうすれば良かった……入江先生がいたから、行くに行けなくて……」
言いながら、藤宮先生は私を上目遣いで見つめて。
「おやすみ」
甘い声で囁く。
「!!?」
(……デ、デデデデレた……! 嘘、あの藤宮先生が……!?)
藤宮先生は見たこともないほど優しい表情で、私を見つめている。
とても眠れるような状況ではない。
「ほら、早く目を瞑って。怖い夢を見たら、俺が起こしますから」
「むむむ無理ですこんなの眠れません!! 藤宮先生は私を殺す気ですか!?」
すると、藤宮先生は心底困ったような、戸惑うような顔をして、
「寝かしつける気なんですが?」
「あああありがとうございます!?」
パニックのまま礼を言う。
「声がデカい……」
「すっすみましぇん……」
今度は舌を噛んだ。藤宮先生がくすりと笑う。
「わ……笑われてしまいました……」
恥ずかしくて、片手で布団で顔を隠した。
「……とにかく、これからは時間がないなんてこじつけて、がむしゃらに知識を詰め込まなくていいです。勉強ならもっと効率的なやり方をしましょう。勉強会を希望するなら、俺があなたの部屋に来るか、俺の部屋に呼んでもいいですし。……でも今だけは、しっかり眠ってください」
藤宮先生の優しい声は、まるで神聖な子守唄のようで。私は涙で潤んだ瞳を、静かに閉じた。
手からは藤宮先生の優しいぬくもりが伝わってきて、胸をぎゅうぎゅう締め付けるけれど。
それでも今日は、久しぶりにぐっすり眠れる気がした。




