6.混乱
結局フェイツェイは一睡もできず夜を明かした。日課の早朝の走り込みをし、そういえばもう花は摘まなくて良いのだとぼんやり思いながら家路につく。朝食もいつもの半分程度しか食べず、家族に変な顔をされた。
式典は昨日終わったが、その影響で今日は祝日。学舎も養成所も休日だ。いつもなら休日でも自主練をして過ごすフェイツェイだが、今日は自室で何をするでもなくぼーっとしていた。睡眠不足もあり頭が回らない。ただ昨夜のツーロンとのやり取りばかりがぐるぐると思い返される。
『私の、妻になってくれませんか?』
『私はあなたを慕っています。一人の女性として。』
『世間一般で言う女の子らしさは関係ありません。私が望むのはあなただけです。』
(――…なぜ私なのだ!)
ごつん!と机に頭を打ち付ける勢いで突っ伏し、いきなり主がそんな行動に出た侍女は驚いて声をかける。何でもないと侍女をなだめ、少し休みたいと部屋を追い出した。侍女は怪訝な顔をしながらも控えの間へと戻っていく。
堂々巡りで疲れ切った頭を机に乗せ、フェイツェイはため息をつく。ふと、鳥の鳴き声に気づいて顔を上げた。庭に何羽か雀がいて、地面を突っついているのが、窓から見えた。餌はあるのだろうか、何か撒いてやろうかと思いながらボーッとしていると、雀たちは飛び立って視界から消えてしまった。
その瞬間、お告げのようにフェイツェイの頭にある考えが閃いた。
そうだ、旅に出てしまおう。
この国では、武者修行の旅というものが認められている。主に見聞を広めるのが目的だが、申請すれば休暇扱いで色んな場所に行く事ができる。
思い立つとフェイツェイはすぐ行動に出た。こっそり荷造りをし、こっそり食糧を集め、あとは何食わぬ顔で過ごして夜を待った。
本来、武者修行の旅は様々な手続きを経て、関係者に見送られながら出立するものだが、今のフェイツェイに正攻法で出て行くという考えはない。とにかく、今すぐ、ここから……ツーロンから逃げ出したかった。
夜半、静まり返った屋敷を抜け出し、通い慣れた南門へと急ぐ。街もとうに明かりが落ち、大半の人が眠りに落ちている。時折見回りの武官から身を隠し、もうすぐ南門という時に、後ろから声がかかった。
「こんな夜中にどこへ行く?フェイツェイ。」
聞き慣れた声に呼び止められ、びくりと肩が震える。ランチュァンだ。
フェイツェイが返事もできずに身を硬くしていると、一部の隙も見せない動作で、ランチュァンが近づいてくる。
「普段の勇ましさはどうした。何を言っても聞かない愚直さは?……出奔などしたらどうなるか、本当に想像できないわけじゃないだろう。」
ランチュァンの声は静かだが、圧がある。怒っていると思ったフェイツェイは、わずかに後ずさるが、ランチュァンはその差も縮めてフェイツェイの腕を掴む。
「帰るぞ。」
言うや否や、フェイツェイの腕を引いて歩き始める。フェイツェイは抵抗しようと足を踏ん張るが、ランチュァンはびくともしなかった。腕力にこれほど差があると思っていなかったフェイツェイは動揺し、よろめきながら足を動かす。
「ランチュァン、見逃してくれ。私はここにいてはいけない。少し旅でもして、距離を置いて、考え直す時間が必要なんだ。」
誰に必要なものなのか分からないが、そんな言葉がフェイツェイの口を突いて出た。連れ戻されると思うと冷静に考えることができず、つるつると思ってもみない言葉が出てくる。
ランチュァンは振り返らない。痛い程にフェイツェイの腕を掴み、ただ前を歩く。
もがいても、宥めすかしても何ともならないフェイツェイは、焦りと苛立ちのこもった瞳でランチュァンを睨みつけた。
「放せランチュァン、私は……!」
「本気で逃げたいなら、神術を使えばいい。俺の力ではお前に勝てない。」
静かに、淡々と。いつも対等に戦っているはずのランチュァンからの言葉に、フェイツェイは虚を突かれた。
その間にもランチュァンは歩みを止めることはない。向かっているのはズーチェ家ではないようだが、頭が真っ白になったフェイツェイは気づかなかった。
「な……う、嘘だ。ランチュァンはいつも、私といい勝負じゃないか。」
「嘘じゃない。お前はいつも本気で神術を使っていないだろう、せいぜいが八割だ。無意識だろうが、俺に怪我をさせないように威力を絞っている。俺はいつだって全力だった。」
自分の気づいていない癖について語られ、フェイツェイは目を丸くして黙り込んだ。
「それに、お前の勝利条件に比べ俺の勝利条件の方が難しい。俺はお前に怪我を負わせてはいけない、無傷で捉え送り返さなければならない。だが、お前は、本当に逃げたいなら、俺や周囲への被害など気にせず力を解放すればいいんだ。」
「そんな事……!」
「それができるようなら、主君はお前に惚れたりしなかったかも知れないがな。」
見透かされたように付け足された言葉に、フェイツェイはぐうの音も出なくなり、項垂れる。ランチュァンは、大人しくついてくるようになったフェイツェイをちらりと振り返り、軽くため息をついた。
「ユージュは事情を知っている。ここで少し頭を冷やすんだな。」
トンと背中を押されて、二、三歩前へよろめく。風を感じて振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。