2.少女の日常―朝―
シェンユェンファの一般的な朝食は、粥に薬味やちょっとした添え物、それで物足りなければ揚げパンだ。だがズーチェ家の朝餉の席は、晩餐かと思うほどの料理がひしめいている。大半がフェイツェイの胃に収まるのだが、年相応の発育具合で、鍛えて引き締まった体のどこにこれだけの料理が入るというのか。しかし、ここにそんなことを気にする者はいない、フェイツェイは十人前食べて当たり前なのだ。彼女の父は先に一般的な朝食を終え、妻に茶を淹れてもらう。
「フェイツェイ、シャオジェの成人の儀に出席する準備は進んでいるのだろうな?」
厳しい顔で心配そうに話題を振る父――赤鋼に対し、フェイツェイは瞬きしながら咀嚼していた野菜炒めを飲み込み、至極真面目な顔で頷いた。
「はい、父上。衣装など詳しいことはわからないので、全て母上と侍女達に任せています。問題ありません。」
チーガンは頭が痛そうに顔をしかめた。
「お前、少しは理解しようとする努力をしなさい。確かに茉莉や侍女達に任せていれば間違いはないだろうが、自分で采配を振るうことが出来なければ、結婚した後困るだろう。」
フェイツェイは無関心そうにチーガンから目を逸らし、点心を頬張る。
「どうせ婿を取るのでしょう?この家から出ないのであればわざわざ覚える必要もないではないですか。」
「……お前と言うやつは……」
チーガンは眩暈を覚えながら、ふつふつと込み上げる怒りに震えている。横から割って入ったのは弟の瑪瑙だ。
「姉上、いつまでも母上に頼り切りというのは、当主としてどうかと……それに私が居るので、別にお嫁に行っても構わないのですよ?」
十歳のマーナオの方が、よほど将来に対してしっかりした見通しを持っている。それも教養より武に重きを置く姉の反動か、とチーガンは溜息を吐いた。そんなマーナオをじっと見ながら、フェイツェイは呟く。
「マーナオのように頭が良く、気が利いて、私を支えてくれる夫であればよいのだがな。」
それは奥向きの仕事をするつもりが全くないという宣言に等しく、ついにチーガンの沸点は突破した。
「フェイツェイ!お前は四家の女という自覚はあるのか!?そんな心持ちでは一生結婚などできぬぞ!」
顔を真っ赤にして怒るチーガンの怒声は部屋が震えるかと思うほどで、直接怒られたわけでもないのにマーナオはびくっと肩を竦めた。対してフェイツェイは涼しい顔で母に淹れてもらったお茶を口にし、更に燃料を投下するようなことを言う。
「結婚出来なかったら出来なかったで好都合。一生皇帝陛下の剣となり盾としてお仕えするまでです。」
「お前はまたそんな世迷言を……!」
雷第二弾が落ちるより早く、フェイツェイは席を立つ。
「そろそろ養成所へ向かう準備をしなければなりませんので、これで。母上、ごちそうさまでした。」
「ええ、フェイツェイ。今日も励むのですよ。」
にこにこと送り出すムォリーに礼をすると、フェイツェイはさっさと食堂を後にした。待てと怒鳴って戻ってくるほど大人しければ苦労はしない、怒るだけ損だとチーガンは脱力した。
「……そなたはアレに対して甘すぎる。母であるならばもう少し言い聞かせるなりした方が良いのではないか?」
不満そうに妻を見て、朝から疲れた顔をする夫に、ムォリーは穏やかに微笑んだ。
「あの子は幼い頃から第一シャオジェにお仕えすることだけを考えて生きてきました。今のあの子には何を言っても届かないでしょう。第一シャオジェのご命令でない限り。」
シャオジェは皇家の未成年全体を指す言葉なので、呼び分けるときは皇位継承順に第一から番号で呼ばれる。フェイツェイが忠誠を誓っているのは、今度成人の儀で初お披露目を果たす第一シャオジェだ。
「マーナオには苦労を掛けますが、姉がどう転んでもいいように文武両道を心がけてくださいね。」
「はい、母上。私は姉上ほど絶対の忠誠心が持てるとも思えないので、ズーチェ家を盛り立てることに注力したいと思います。」
しっかりした受け答えを見て、惜しいとチーガンは思う。フェイツェイとマーナオの性別が逆であれば、胃痛の種も減ったのに……と思わざるを得ない。考えてもしょうがない事とは言え、溜息は尽きないのであった。
◆◆◆
ところで、この朝食の席を見て何か言う者はいないが、この家族には奇妙な点がある。フェイツェイ以外、皆が赤系統の髪と瞳をしているのだ。ズーチェ家の守護神の色とされ、直系に近いものほど鮮やかにその色を受け継ぐ。チーガンとムォリーははとこに当たり、ムォリーが婿取りする形で婚姻が結ばれている。フェイツェイはその二人の長子で、間違いなくズーチェ家の子だが、マーナオと違って淡い緑の髪と目を持つ。
実はちょっとした事情があり、彼女が生まれた時には一部で大騒ぎになったのだが……それはまた、別の話。
◆◆◆
武官候補生養成所の制服に着替え、フェイツェイは自宅を後にした。修練服と同じで、一人で着脱可能なのが制服の美点だと思っている。四家ほどの格になると、普段着でさえひらひらして袖や裾が長く動きにくい。そう、目の前を歩くあの少女のように――。
「雨菊、おはよう。これから学舎か?」
フェイツェイが声をかけると、付き従っていた従者が端に寄り、少女が振り返る。その動作にひらひらした服も追従し、邪魔になっている様子はない。髪は烏の濡れ羽色、瞳は黒曜石の様な黒に光が躍っていて、白く傷ひとつない柔肌を引き立てている。立ち振る舞いも楚々として、穏やかな微笑みを浮かべ、フェイツェイと違って女性らしい教養を身に付けていると聞いた。フェイツェイはこれ以上完璧な美少女などいないと思っている。
「おはよう、フェイツェイ。ええ、そうよ。途中まで一緒に参りません?」
養成所と学舎は隣り合っていて、養成所がほとんどの土地を訓練場にあてているのに対し、学舎は教室や大きな図書館を有している。学舎を利用するのは主に文官候補生とその教師だ。養成所にも座学の時間があり、その時は隣の学舎の教室で授業を受けることになっているが……。
「フェイツェイ、また座学の時に目を開けたまま居眠りして、先生に叱られたのですって?」
くすくす笑うユージュに、フェイツェイはほんの少し顔をしかめた。
「話を聞く気はあるのだが、どうもじっと座って学ぶというのが性に合わない。体を動かす訓練の方がずっと楽しい。」
「あなたらしいこと。」
笑いながらも、少し困った顔でユージュは首を傾げた。
「でも座学で優秀な成績を修めなければ、大将軍どころか近衛兵でさえ夢のまた夢ですよ?」
「それは困る!ジェジェのことは私が守るんだ。」
即答するフェイツェイに微笑みを向け、ユージュは言葉を重ねる。
「ええ、わたくしはフェイツェイの夢を応援しています。大丈夫、最終選抜までまだ余裕はあります。また一緒にお勉強しましょう?」
ユージュは四家のシェンウー家の娘で、フェイツェイとは同い年であり、同じく第一シャオジェをジェジェと慕って遊び相手を務めていた。
「そうだな。ユージュの教え方は上手で面白い。座学よりよっぽど為になる。さすが文官候補生の期待の星だ。」
「まあ。フェイツェイまでそんなことを……」
評判は耳に入っているが、本人は今ひとつ乗り気でないようだ。フェイツェイは話題を変えようと頭を働かせた。
「それにしても、まだ授業までは時間があるだろう?養成所と違って朝の訓練もないのに、随分と早いんだな。」
話題の変更にユージュはほっとしたように合わせてきた。
「ええ。授業だけでは補えない知識がありますから、図書館で自習です。禁帯出の本も多いですし、とても勉強になるのですよ。」
ユージュが生き生きしているので言いにくいが、周りが本だらけの空間だなんてフェイツェイには居心地が悪い。禁帯出の貴重本など破損、汚損したら多額の弁償をしなければならない。長年の付き合いでフェイツェイの思考を読み取ったユージュは、笑いながら続けた。
「フェイツェイにとって訓練時間がないと落ち着かないのと同じようなものですよ。」
「なるほど。」
フェイツェイが素直に頷いたところで、学舎の前に着いた。ユージュが従者から荷物を受け取る。
「さあ、そろそろ急がないと朝の訓練に遅れるのではなくて?いってらっしゃい、フェイツェイ。」
「ああ、ありがとう。ユージュも頑張れ。」
軽く手を振ると、フェイツェイは颯爽と養成所へ駆けていく。その後ろ姿を見ながら、ユージュは軽く溜息をついた。
「皇家の子女は、成人まで性別を隠され、女児として育てられる……わたくしたちのジェジェを、フェイツェイは女性だと信じて疑っていないのかしら……?」
「別の話」にした件について。
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