1.神源華国と少女
――『フェイツェイ』
夜明け前、まだ暗い室内で彼女は目を覚ました。懐かしい声に呼ばれる夢を見て。
もうどれくらい聞いていないだろう。
そう思いながら、翡翠は慣れた様子で夜着を脱ぎ、修練用の上下服に袖を通す。侍女の手を借りなくても着替えられるこの服が、フェイツェイは大好きだ。朱色の組み紐で背中まである淡い緑の髪を二つに結って垂らし、室内履きの靴から外を走り回る為の靴に履き替える。
音を立てないように部屋を出れば、朝のひやりとした風が頬を撫で、髪を揺らしていった。髪と同色の翡翠色の瞳で空を見上げれば、暁に染まり始め少しずつ白んできている。庭で軽く体を温めると、いつも通り勝手門を通って城下町へ駆け出して行った。
ここは神源華国。遥か昔、始祖と呼ばれるこの国の皇帝の祖先は、手勢を率いて荒れ狂う禍つ神を調伏した。始祖は黄金の龍神の加護を得て土地を癒し、疲れ果てた人々をまとめ上げて、国を建てたという。その時、始祖の側近の中の四人は黄金の龍神の配下の神、青龍、朱雀、白虎、玄武の加護を得て、代々皇帝を支えてきた。それぞれの神の名を冠した家名を持つ彼らは四家と呼ばれている。
時代が下り、姻戚関係を経て分家を繰り返す度、それぞれの神の属性を引く傍系の神が生まれ一家の神として崇められるようになった。神の生まれる国、外つ国にはそう呼ばれるのが神源華だ。
さて、まだ閉め切られた城下の高級住宅街を抜け、大通りを南に走っていく娘――フェイツェイは、ズーチェ家の娘だ。年は十四。十六の成人を迎えたら次期皇帝に仕えるつもりで、武官候補生として訓練を積んでいる。家の権力、守護神のご加護に頼り切ることなく、誰よりも強くなり、次期皇帝をお守りする立場に立つことが彼女の夢だ。毎日の鍛錬は欠かせない。朝起きたら自宅から都の南門まで往復ランニング、家族と朝食をとると午後まで武官候補生養成所で鍛錬、その後夕食までの自由時間は巡回訓練として都の見回りである。
早朝ランニングの際恒例になっているのは、季節の野の花を摘み、王城の後宮から一番近い門に置いてくることだ。今朝は、厳寒期を超え春の暖かさを間近に感じる、黄色い花が手に入った。
「姐姐、春だ。」
無表情の中でふっと目元を緩め、門番のいない門に花をそっと手向ける。
「……どうか今日もお健やかに。」
跪いて軽く礼をすると、誰かが来ないうちにさっさと家へ帰っていく。
彼女がジェジェと呼んで慕っているのは、現在皇位継承権第一位の『小姐』である。シャオジェとは、皇家ホワンロンの未成年者を指す言葉だ。ホワンロン家の未成年は、敵対する禍つ神に魅入られ命を落とさぬよう、皇帝の力が一番満ちる後宮で四家の女達によって育てられる。成人するまでシャオジェ以外の名は無く、性別も伏せられ、実質的には女性として育てられる。始祖とその家臣たちが男性であった為、女性の方が禍つ神に魅入られにくいと考えられているからだ。そのせいか、建国以来女帝も多く輩出している。
フェイツェイは四歳から九歳までの五年間、ジェジェの遊び相手を務めた。ジェジェは二つ年上で、楽器が上手く、金の長い髪に紫の瞳でいつも優しく笑いかけてくれて、美しく聡明だ。気になるのは最後の一年、ジェジェが十一の頃のことだ。臥せりがちになり、遊びに行っても会えないことが多くなった。もしや禍つ神に魅入られたのではと気を揉んでいたが、病が移るといけないからと遊び相手から外されてしばらく後、快方に向かっていると聞いた。
それから毎日、フェイツェイは自分で花を取りに行き、会えなくなったジェジェに捧げている。もしかしたら不審物として処分されているのかもしれない。ジェジェの手には渡っていないのかもしれない。それでもジェジェの健康を願い、無事再会できる日を祈って止まないのだ。その時からジェジェを主と定め、日々修行に明け暮れている。
◆◆◆
フェイツェイが去った後、小さく扉が開かれ、花が回収される。それは門番から侍女に、侍女から侍女頭にと渡されて、白磁の小ぶりな花瓶に生けられる。フェイツェイがとってくるのはいつも野の花なので、この宮に合う豪華で華美な花瓶だと負けてしまうのだ。侍女頭がそっと花瓶を主の寝台の隣に飾ると、それが起床の合図だ。寝台からそっと白い手が伸びてきて、花瓶の花を一輪抜き取る。
「おはようございます、シャオジェ。」
「おはよう。……もうこの花が咲く時期なのね。」
寝台から体を起こしながら、シャオジェと呼ばれた人物は嬉しそうに頬を緩ませる。
「ええ、シャオジェの成人の儀ももうすぐです。お勉強は捗っていますか?」
「もちろん。儀式でのご挨拶も暗記したし、もう待ちきれないくらい。」
シャオジェが手に取った花を花瓶に戻すと、お召し替えの為に侍女たちが動き始める。金色の長い髪が結われている間、紫の瞳が楽し気に虚空を眺める。その先には四年会っていない、幼馴染の顔が浮かんでいる。
「もうすぐ会えるわ、フェイツェイ。」
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