足跡
①
思えばこの一連の体験は、小学校の時から続いていたのかもしれません。
住宅街にある八階建ての一般的なマンション。その601号室に暮らすのが僕の家族です。霊感の強い母が何の不満も漏らさないのですから、本当に普通の建物なんでしょう。毎朝エレベーターに乗るときは大抵8階の、スーツを着た表情の暗いお兄さんに出会います。顔を合わしても互いに『おはようございます』を交わすだけで、それ以上の交流はありません。
②
朝から母に『6年生にもなってどうして割り算の計算も出来ないの』と叱られ、劣等感と共に辿る小学校からの帰宅路。悲しい気持ちを真似するかのように雨がザアザアと降っています。僕はいつもマンション裏の雑草が生えた人気のない小さな駐車場を通って帰るのですが、その奥にある、原付バイク二台分がギリギリ入るくらいの狭い空き地に異変を見つけました。刑事ドラマで見るような、立ち入り禁止を示す黄色いテープがベッタリと貼り付けられていて、更には土色のアスファルトの上に赤い点々とした模様が浮かんでいたのです。あれは恐らく血だと思いました。
遠目から見ても何となく分かりました、濃い赤色がこびり付いているのです。殺人事件でもあったのか、しかし周囲を見渡してもやはり人気はありません。警察も、野次馬も、誰も。雨音だけ聞こえる空き地に立って、僕は何となく空を見上げてみました。でもビニール傘に浮かぶのは、濁った雨空だけ。
夕飯の時間になって、仕事から帰宅する父は食卓に腰掛けながら思い出したように呟きました。「8階の人が落ちたんだって」。それが事故なのか事件なのか、洗濯を干す最中に誤って足を滑らしたのか、詳しい理由を知る人は居ませんでした。「そんな事もあるんだな」と思いながら就寝したその日の翌日から、スーツのお兄さんに会うことは二度とありませんでした。
③
それから一週間ほど経った日のこと。夏の夕暮れは通り雨がとても厄介です。
雨が降ったら洗濯物を入れるよう言われていた僕は帰宅してすぐベランダに飛び出し、靴下やらシャツやらを部屋の中へ投げ込みます。その途中、ふと室外機の横に佇む何かを発見しました。あれは多分、足跡だ。細長い形が二つ、行儀良く並んでいる。でも変だと思いました。だって、濡れ方が『逆』なんだから。普通は足跡自体が乾いているはずなのに、その周りだけがぼんやりと明るくなっているのです。大きさは大人の男性くらい。まぁ何かの偶然だろうと思った僕は気にせずに母からのミッションを済ませ部屋へ戻りました。それから雨の日は必ず、その足跡がベランダに浮かぶようになりました。それが動きでもすれば流石にビックリしたでしょうが、そんな現象起きるはずもなく、まして母が何かを気にかける様子もありませんでした。
④
そんな昔話を今になって思い出したのはどうしてだろうか。
きっと私はこうして死に際に、記憶の断片を彷徨って目の前の現実から逃げ隠れしているのだろう。
時が過ぎるのはとても早く、気付けば私は地元の大学を卒業し営業職に就いて残業と説教に揉まれる日々を送っていた。人と同じことが、当たり前のことができない私は入社数ヶ月で役に立たない人間と判断され、人影に隠れながら毎日を過ごしている。もう、耐えられない。もう、生きていたくない。死にたい。
それ以外の感情を一切捨てて、ザアザアと泣き喚く雨の中、私はベランダに立つ。少し身を乗り出して本当に十分な高さがあるのかを確認した。余りができるくらいだった。地面の上でこちらを見上げている子供の表情が見えないくらいには高さがある。ここでいい。
どうせ死ぬのだからと、私は室外機の横に浮かび上がる誰かの足跡に近付いて、その上に両足を合わせてみた。
それは寸分の違いなく、ピッタリと重なった。
『雨の日にできる不思議な足跡』『亡くなった8階の人』『鬱病』以外はフィクションです、驚かせてしまい御免なさい。