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赤松の後始末、遊郭街 その4



その男には、名前が無かった。

………かつてはあったのかもしれない。だが天唯の南部の中でも最も強大な国である赤松。よりによってそんな赤松の国の盗賊団の生え抜きとして生まれ落ちた男には、最初から未来などなかった。

それでも、男は自身の事を多大な幸運に恵まれていたと感じている。

例えば、そこまで見目が良くはなかったからこそ男娼として売られることや、慰み者にされることがなかった。

人よりも身体が大きく、丈夫だったからこそ盗賊団を追い立てる武士たちから逃げることが出来た。

勿論、盗賊団の生え抜きという出生である以上、お天道様の方を向いて生きられるような人生ではなく、後ろ暗いことも何度も行ってきている。人を殺めたことだって、何度かあった。


「我ら、は………」


名前のない男は、生まれ育った盗賊団を見限り、逃げ出した。以前の赤松の国主であった赤松彰吾によってあっけなく(かしら)が打たれ、残ったのは命からがら逃げだした有象無象の残党だけ。

そんな盗賊団では、ただ生きるだけですら難しいと、足りない頭なりに理解していたのだ。

裏切り者と罵るかつての仲間を振り切って、やがて男は一人の女性と出会う。それこそが、男の―――俺の、最大の幸運であっただろう。


「………俺は、大した人間ではありません」


かつて、赤松彰吾と相対したことがある。勿論、あの達人と呼ばれるほどの腕前を持つ剣士と戦うことなんて出来なかった。

まだ餓鬼の頃に、あの男が生まれ育った盗賊団の、それなりに腕利きだった連中を片っ端から切り捨てている所を、恐怖しながら見ているだけだった。

特別とはああいう人間を言うのだと、否が応でも理解した。

そしてその血族は、今眼前にて、ただの偶然でこの場所へと足を運んだという、はるか南の六櫻からやってきた姫の隣に控えている。

六櫻の名は良くも悪くも聞いている。かつてはこの天唯を包む戦国乱世ですらも英傑と呼ぶに足る、華樂という人間が収めていた、小さいながらも強い国だと。

そしてその華樂という英傑は、娘のために命を落とし、その娘はやることなすこと全てが無茶苦茶の、無能姫だと。

こう言う稼業をやっていれば噂話そのものは幾つも聞こえてくるものだ。それを信じるかどうかは別として。


「知っています。けれど忘八よ。私は、足るを知る者は富むという言葉が好きなのですよ。身の程を弁えた人間というのは、ただ能力が突出している人間よりも遥かに役に立つ」


噂なんて嘘っぱちだと、心の中で吐き捨てたくなった。

確かに、六櫻の姫は特別な力は持たないのだろう。だが、その芯にあるのは危うい程に磨かれた、諸刃の切っ先の様な鋭い意志。

何をなすのかは分からない。最期に何を見て、この小さな姫が微笑むのかは分からない。それでも、その作り物の両足で、必ずこの姫は何かを成すだろう。

六櫻華燐は、特別な人間ではない。だが、その歩みは必ず特別なものになる。或いは、常人では辿り着けないような何かを、為すだろう。特別という言葉をすら超えて、それはこの天唯に何かを―――傷ともいえるような何かを、齎す。


「その、御心のままに」


今まで俺に降り注いできた、幾つもの幸運たち。きっと、その果てが目の前の姫なのだろう。

彼女に繋がる道を作り出すために、俺を生かしてきたのだろう。

俺には、名前がない。とっくに名を失い、一人の女性と出会って以降、ただ忘八とだけ名乗っていた。この小さな遊郭という城の中で、せめて平和に生きられるようにと。

名があればいずれ野心が芽生えるかもしれない。俺の本質なんて、ただの破落戸だと知っている。だから、名を捨てた。


―――あんた、思い切りが良すぎない?ま、それはそれでいいと思うけどね


俺が出会った幸運は、姉の様な………年上の女性の形をしていた。

片腕を無くしたその女性は、まだ青年になるかならないかの俺を拾ってくれた。

その女性にもまた、名がなかった。だが、彼女には過去があった。

曰く、彼女は里を抜けた、くノ一であったという。

元は腕利きのくノ一だったが、その腕と自らの名を捨て去ることで、彼女はただの人として生きることが出来たのだという。自らの死を偽装して、里を騙して見せたのだ。

俺はそんな彼女から、気まぐれに技を授かり、更に建てた遊郭の中で見どころのある遊女たちに忍びの技術を仕込んでいった。彼女から受け取ったものが、潰えないように。

俺が出会った幸運はこの遊郭が軌道に乗って暫くして、静かに萎れて消えた。常に猛毒を服用していた彼女は、元より人よりも寿命が短かったのだという。

それでも、彼女は最後にくノ一という道具ではなく、人としてその最期を迎えた。


「本音を言いなさい、忘八」

「………あくまでも俺が遊女に忍びの技を仕込むのは、彼女たちに人として生きて、人として死んでほしいからです。確かにここは遊郭で、俺が忘八である以上は、夜鷹のように命を散らすものもいるでしょう。しかし、才角と努力を備えたものが、権力や掟に絡めとられて死んでいくのだけは、納得がいかないのです」

「得を失った者の名を関しておいて、お前は遊女に対して随分と思い入れがあるようですね。だが、いいでしょう」


昏く、その姫は唇を裂いた。

そうとも、それは笑みではなく―――俺を、俺達を飲み干す怪物の表情だった。


「元より、私のために死ねないものに諜報機関(スパイ)など務まらない。遊女も、足抜けがしたいのであればすればいい。忍びの里だって、私の―――新たなる六櫻の中ではその在り方を変える必要が出てくるでしょう」


当たり前のように、未知なる道を歩いていくその姫に、知らずの内に汗が垂れる。

この少女は、何を見ている?何をその瞳の中に、写している?

分からない。何も分からないが………俺は、俺たちはどうやら、不可思議な運命に絡めとられてしまったことを直感した。偶然という呪いに、いよいよ蝕まれたのだと。

それでも、決めた。何者にもなれない、名前すらない俺であっても。道は、定めた


「―――全て、覚悟を決めましょう」

「良い返事だ。………さて」


六櫻の姫の視線が答えを吐き出した俺から、この枯草屋という遊郭に偶然という運命を招き込んだ禿へと向く。


「その子犬とは少しばかり話があります。過保護な姉の手から逃がしなさい」

「………っ」

「反抗的な目ですね、柃。しかしお前には何も出来ない。忘八、隣の部屋を一時借ります。なに、そんな時間はかかりません」


肩を震えさせる、遊女と禿。

俺が信頼を置くこの遊郭の中で最も古く、最も忍びの技を極めている遣手に目くばせをすれば、襖が開かれて、柃の動きを止める様に禿たちが周囲に侍る。

そんな姉の姿を見た禿は一瞬迷ったようだが、それでも立ち上がって、姫が消えていった襖の奥へと向かっていった。


「良いので、忘八」

「ああ。これ以外に、道はない」


問いかけてきた遣手に頷く。

………俺達には、道はないのだ。だが、あの禿は話が別なのだろう。

まだ、あの少女には自らの道を選ぶ余地がある。なんにせよ、後悔の無い選択をするようにと、願うばかりだ。


「まったく、疲れたな」


小声で呟く。

あの姫が居るだけで襲ってくる、重苦しい圧から解き放たれて、ようやく息を吐いた。

さてさて、あの襖の奥でどのような話がされているのか。名もないただの忘八である俺には与り知らぬことであり、また知ろうとも思わなかった。





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