予兆
***
翌日、食事を終え、自室へと。
執務机に向かい、今日の報告で得た情報を纏めていく。重要なものと言えば、須璃の国の兵の状況と父の帰還状況だろうか。
朝日が差し込む部屋の中で、筆を止めて改めて確認を取る。
「須璃の国の兵はこちらへと進軍中、ですか。止まる気配はないのですね」
「ええ、姫様」
私の言葉に頷く夕影に視線を向ける。彼女は相変わらず眠そうに頭を上下に揺らし、殆ど閉じかけている細い瞳で申し訳程度にこちらを見ていた。
彼女の言葉の中に危機感は一切ない。それは恐らく、もうすぐに華樂が帰ってくるためだろう。
父である華樂は軍略及び築城に関して及ぶものが無いほどの才を持つというのは先も話した通り。東方の魔王からすら一目置かれるというのは、この天唯全体を見てすら最上位に食い込むほどの才を持つということだ。
まあそれに加えて彼は人誑しであり、才能を発掘する能力も高かったわけだがそれはさておき。
父に加えてこの六櫻の国に暮らす、父に並ぶほどのもう一人の天才軍師と数は少ないが最精鋭と呼んでも過言ではない六櫻の武士たちの力を合わせれば、四千程度の軍勢など簡単に押し返せるのだ。
―――いや。もう一つ理由はあるか。こうして私の護衛を務めている眠たげな女武者は、その実一騎当千とよばれる程の戦力の持ち主だ。実際に戦っている場所を見たことは無いのだが、六櫻の武士たちですら未だ年若く、出生も不明な夕影という存在に一目を置いている
華樂からも娘のように扱われていたというのだから、実際の所、私よりもこの国の姫らしい存在である。天賦と呼べる武を持つことも、何かしら必ず才を持つこの六櫻の国の姫らしいといえるだろうか。
「父が戻る前に攻め込まれる心配はないのですか?須璃の国だって、弱点を狙ってくるものでしょう」
「華樂様は須璃の国の状況について予測をしていた模様ですので。六櫻の一の砦に攻め込む前に、こちらの準備は終わり迎撃に移れる手筈です」
「………それはまた、流石というべきでしょうか」
いやはや、本当に私がすることは何もないな。
一体どうやって情報を集め、それを活かしているのやら。せめて、この身体に宿った際に華樂の才能を一つでも受け継がせてくれれば良かったものを。
他者からの評価も自己の評価も、現状の事実として六櫻華燐という姫は華樂の出涸らしである。
ちなみに一の砦というのは六櫻の国に華樂が無数に作り上げた砦の、もっとも外側に存在するものだ。最悪、ここを落とされてもまだまだその奥に要衝を塞ぐ砦があるため、砦を破られる即ち危機という訳ではない。
「そして父は今日の夕方には戻ると」
「そのように。多少ずれ込んだとしても、夜には城へと戻るでしょう。六櫻の国に戻ってしまえば、華樂様に害為す存在はいませんから」
その言葉は国衆をすら完全に虜にしているから出る言葉だろう。土地を支配する小領主とも呼べる国衆は一応は大名国家に従属する者たちであるものの、常に味方でいるわけではない。
形成が傾けば敵に与することもある上に、力を蓄えた国衆が戦国大名になることもある。
戦力にはなるものの、総じて扱いにくい存在でもあるのだ。
「姫様は華樂様のお出迎えの準備を。それが一番華樂様にとって幸福になるでしょう」
「分かりました。といっても、何かできる訳でもありませんが………ふむ。食事でも用意してあげましょうか」
「姫様は料理など出来ないでしょうに」
「………米を握るくらいならできますよ」
この世界は当然、竈で米を炊き、食事を作る。私はその火加減が上手く行かないため、一から食事を作るのが難しい。
味付けに関しては問題ないのだが。ああ、私の味付けはこの世界では薄味らしい。六櫻の国は全体的に味付けが濃いのだ。
「なるほど。その程度なら、厨房に入ることも許してくれるでしょう」
「姫だというのに厨房に入る事すら許可がいるのですね………」
「何をするか分かりませんから、姫様は。制限は必要です」
「私はそれほど変な事をしてはいませんよね」
現代知識を生かして奇想天外な事を―――が許されるほど、この世界は安定していないし周りの人間は私に優しくない。
単純に夕影を始めとして周囲の人間が私をほとんど知らないが故に、監視状態にあるというのが正しい。
溜息を零しつつ、私は立ち上がった。もうそろそろ、昼食の時間だ。私は相変わらず少食だが、朝食時と同じように集まって食べるため、私が行かないと周りの人間が食事を始められない。
「そう、ですね」
少し考えて、執務室に向かう前に厨房に向かっておこうと決めた。
***
「そろそろ、父様が帰ってくる時間でしょうか」
「はい。向かわれますか、姫様」
「それが一番、労いになるのなら」
日も沈みかけた逢魔が時。
お土産として自分で握った梅入りのおにぎりを三つ、笹の葉の包みに収めて私は自室を出た。夕影が音もなく私の後をついて行く。
仕事をしている武士たちを横目に見つつ、城を出て大手門から城下街へ。踏みしめられた道を進み、城下街の中ほどまで歩いていく。
外勤に出る華樂は大体の場合、自身の馬で行き来する。それも護衛を連れず一人で、だ。自衛できるだけの強さは持っている上に、華樂を狙えば自動的に東方の魔王の逆鱗に触れるというのだから、この戦国乱世においてすらそのような行動が可能となったのだろう。
個人で動く分、広範囲に身軽で動けるというのは確かな利点だったのだろうが。
だから、華樂は外から戻るときには必ず城下の目抜き通りから戻ってくる。私は大体の場合、その目抜き通りの真ん中あたりで待っていて、そこで華樂に抱きしめられるのだ。
目覚めてから一年、六櫻の国の近辺から今回のような六櫻の国から遠く離れた東方の城の設計指示まで様々な仕事を行っている父様ではあるが、離れた分だけその愛情表現は凄まじい。少しばかり嫌な顔が出てしまうほどに。
無精ひげを擦りつけられるこっちの身にもなってほしいのだが。いや、決して本気で嫌っているわけではないのだが。そもそも剃刀で完全に髭を無に出来る人も珍しいだろう。髭剃りは一苦労なのは元々が男である私にも分かる事ではある。
「………?」
そんなことを考えて前を見て、そして首を傾げ違和感に目を細める。
六櫻の国に繋がる道、その山肌に異物が存在している。それは、見覚えはないものの、情報としては知っているそれ。
―――おかしい。何故、城下の外をこちらに向かって歩く、黒い鎧の兵の集団が私の目に映るのか。
「夕影、あれは」
「土織の国の武士でしょう。姫様、どうされますか」
黒を基調とした、どこか西洋風の騎士にも似た容貌を持つ特徴的なその鎧。それは東方の魔王、土織家が採用している鎧だ。
瞳を少しだけ開いた夕影が、私の問いに答え、そして問う。
「………考えたくない事態ですが、父様の身に何かあったのかもしれません。城下街の外へ向かい、そこで話を聞きましょう」
まさか開戦の合図もなしに急に土織家が、東方の魔王が攻め入るとも思えないが、だとすれば何故黒鎧の武士がここまでやってきたのか理由が分からない。
土織家の軍勢がやってきたのは、六櫻の国に無数に展開される砦を秘密裏に抜ける抜け道の一つであろう。一つ程度ならいつでもその道を封鎖し、新たに作ればいいだけであるため、華樂が土織家に教えた可能性は高い。
だとしてもだ。わざわざその道を辿って彼の国がこの国の城下までやってくるという理由位はならないのである。
「他の兵は」
「そう、ですね。………集めてください」
どうなるか分からない。戦力になるものは多いほうが良いと判断した。
その判断がどう転ぶかは分からないが。六櫻の国に血気盛んな人間が多いわけではないが、さりとて戦国の世だ。喧嘩っ早い連中が一定数いるのも事実なのである。
「悪い知らせでなければ良いのですが」
自分で言っていて、そんな筈はないと心のどこかで思いつつ、私は城下の外へと向かう。
―――地獄への道は、すぐ傍に。