帰還
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「戻って………きましたか」
そう言葉か唇から零れるのは、きっと仕方のないことなのだろう。
六櫻の城下を出て三日後、秋の気配の濃い道中を進み、私はこの眼や手足を失った一の砦へとついに辿り着いた。
未だにこの砦の中には血の匂いがこびり付いている気がする。気のせいであることは分かっているが、それでもそう思ってしまうのだ。
「一の砦。須璃の国への対策として作られたこの砦は最悪占拠されたとしても、攻めるに容易いように作られています」
「………父の築城の腕前は流石というべきなのでしょうね」
こちらが使う分には良いが、使われれば困る。そうはならないように、設計段階から内側から崩すのは容易いように作られているのだろう。
塹壕の作り方に似ているような気もした。勿論、この砦そのものを時間と手間をかけて改修すればその限りではないのだろうが、あの華樂がそんな時間を許すわけもない。
そもそも、この砦を落とすこと自体、今までは不可能だったはずだが。
「この砦の中に糧秣を一時的に保管します。しかし、全ての荷を解かないように。すぐに持って進軍することになるでしょうから」
「………」
私の指示に答える声はない。だが、霧墨から作戦を聞いている以上、勝手なことはしないだろう。
ここで私の指示だけではなく軍師である霧墨の作戦すら無視するようであれば、それは反逆を超えてただの戦犯である。
私の人望のなさに関わらず、そんな兵士は切って捨てられる。だから、返事がないことに頓着する必要は何もない。それよりも先に確認するべきことがあった。
「夕影、相手の斥候は私たちに気が付いていますか」
「いいえ。砦の付近に斥候はいないようです。まあ、矢で狙い撃ちにされることは分かり切っていますから、本陣近くの警戒に留めているのでしょう」
「………ふむ。以前に砦近くに現れた斥候を射抜いたという事実でもありそうな言い方ですが」
「その通りです、姫様」
砦というからには当然、防衛に優れているのは当たり前だ。
矢窓があり、生半可に近づいたものは矢を射られて死に至る。その苦い経験から生まれた警戒が、千人に及ぶ六櫻側の兵士の砦への参入を露呈させずに済んだ、という事なのだろう。
人が動けばそれなりに伝わるのもので、砦への到着の際に奇襲が露呈しないかが心配だったが、まああの霧墨の事だ。
恐らくは、過去にそう言うことがあったことを知った上で、千人に及ぶ兵を近くまで動かしても良いと判断したのだろう。
如何に夕闇の中とはいえ、人の眼の中で大人数が紛れるには限界がある。監視をしている眼がないという確信がなければ、こうはなるまい。
「毒姫、作戦通り今夜、子の刻には奇襲をかける。逃げ出すんじゃねえぞ」
「元より逃げ場などないでしょうに。それよりも霧墨、子の刻と言いますがその判別は日や月を見て判断しているという事で良いですか」
「あ?そりゃそうだろう」
指先で狐の半面を叩く。
戦国時代の時刻制度は日の出と日没をその判断の基準とする不定時法だ。故に季節ごとに時間の感覚が異なる。
夏至と冬至で太陽が照っている時間が違うのだから、一刻の長さが異なるのは当然なのだが、これより先に何度も戦争を行う、それもきっと季節を問わずにともなれば………日の出などに左右されず、正確な時間を測り、知らせることのできる新しい時刻制度と、基準となる道具が欲しかった。
つまりは現代と同じ24時間という概念を、時計という道具を持って知らしめるのだ。
しかし、時計は非常に高度な発明品だ。素人の私が一から作ることはまず不可能であるし、そもそもこの時代の時計など精度が悪く、すぐにずれて行ってしまう。
少しばかり知恵を絞らねばならないだろう。一旦思考の隅に追いやると、私は短刀を小袖の帯の中へと仕込んだ。
「………おい、聞いておいて勝手に話を辞めるんじゃ」
「今の時点で貴方に話すようなことではありません。さて、こちら側から斥候は?」
「もう指示を出しております、姫様」
答えたのは霧墨ではなく、背後の夕影だった。
恐らくは彼女の指揮する隊から斥候を送り出したのだろう。私は今回の作戦で突撃部隊と共に動く。実際のところは囮を兼ねつつ、夕影という戦力を無駄遣いさせないための方策だが、かといって私が簡単に命を落としては元も子もない。
霧墨は私に苦しんで死ぬことを期待しているが、自らの失態で殺してしまうことはそのプライドから嫌っている―――面倒な精神性であると思うが―――という前提であるため、突撃部隊とは別に私を守護する護衛が数人付くことは許容した。
それこそが夕影が選定し、指揮を執る護衛隊という訳だ………一応は、将の周囲で護衛を行う馬廻衆という扱いになるのだろうか。
たった数人の馬廻衆、それも私の指示ではなく夕影の指示で動くとはまあ、なんともこの国らしいのではないだろうか。
「見つかるような下手を打たなければいいのですが」
「ご安心を、腕の立つものを集めてまいりました。如何に格下の敵兵とはいえ、戦場では何が起こるか分かりません。もしも再び、魔王の兵が現れても私の元まで送り届けられるだけの武を持つものどもです」
「ふん。それが本当ならいいのですが」
皮肉気に唇の端を歪めると、眼を閉じたままの夕影が一瞬だけ空を見る。
いや、ただ顔を上げただけか。この女の表情や仕草はどうにも分かりにくい。華樂を貶した時や私が自死をしようとする時だけは分かりやすく怒るのだが。それ以外だと呆れや非難など、敢えて感情を伝えるときだけだろうか。
「………丁度帰ってきたようです。霧墨、一緒に報告を聞きますか」
「ッチ。ああ、そうしてくれ」
顔を上げたのは音か気配を察知したためであったらしい。
武の才のない私には全く分からないが、どうやら斥候が戻ってきたようだ。私の方を見て大きく舌打ちをした霧墨が砦の中にある小さな建屋の扉を開け、その中へと土足で入っていった。
私もその後に続くと、上座に置かれている床几に腰を掛ける。部屋の真ん中に一つだけ置かれている大きな机の上には既に、この一の砦周辺の地図や将棋の駒が広げられていた。
体感で数秒ほど待つと、刀を腰に佩いた細い身体つきの武士が建屋の中へと足を踏み入れる。
そして私たちの前で一度跪き、顔を伏せる。私は、その武士の姿を見て少しだけ驚いた。
「女武者?」
「ええ。男にも腕前は劣りません」
私と同じように、愛想はありませんが、と続けた夕影の言葉は聞き流す。当人に自覚はないのだろうが、夕影よりも愛想のない私に対する皮肉にしか聞こえない。
とはいえ、だ。男も女も、対して代わりなどないと思い直し、すぐに表情に少しだけ滲んだ驚きという感情を消す。
「上がりなさい。使えるのなら何でもいい」
頷いた女武者の顔には、花の当たりから横一文字に深い切り傷が付けられていた。口は布を巻いて隠されている。武士というよりも、どこか忍びに近い風貌だ。
「………霧墨様の想定の通りに、一の砦から北方、二里ほどの場所にて須璃の国の陣営を確認いたしました。戦力は凡そ二千程度かと」
喉が焼かれているのだろうか。掠れた声でそう告げる女武者。
「士気を上げるため、宴を開いているようです。糧秣の配置などは、こちらに纏めてあります」
懐から取り出したのは粗末な紙だ。ぼろ布を再利用したものと思われるそれに、墨を用いてしっかりとした情報が書き記されていた。
「大体想定通り、か。斥候の数は?」
「人の周囲に常時十人程度。一刻ごとに交代しているようです」
「………本陣の周囲の草木は刈られていますか」
「いいえ。山間の広間に本陣を構えたようで、周囲を整備する手間を惜しんだものと」
「なら丁度良いですね」
須璃の国は安定よりも時間を取ることを選択したのだろう。兵は神速を貴ぶの通り、速度は安定性よりも重要視される。
………攻めに回っている間は、という注釈が付くだろうが。
自ら足元に不安を抱えてくれたのであれば、こちらもやりやすい。霧墨に視線を向けた。
「これなら計画に変更を加える必要はないな。毒姫以外は黒塗りの革鎧を纏い、須璃の本陣の周囲に集まらせる。後は突撃部隊と毒姫の護衛隊を突っ込ませ、撹乱しているうちに火を放つ」
頑丈な鎧は敢えて纏わず、消音性と闇に紛れる事を重要視した霧墨の作戦。防御を捨て、隠密性を取る………六櫻の国の勢力の練度の高さに裏打ちされたある意味、傲慢ともいえる戦い方であった。
鎧など纏わずとも彼らには容易に勝てるという、そんな考え。それはまあ、事実なのだろう。
それほどまでに、須璃の国と六櫻の国の兵士の質は違っているのだ。
自らの義足に隻腕を置くと、手にした情報を全ていい終えた女武者に声をかける。
「ご苦労。下がりなさい」
「………は」
彼女もまた、私に恨みや憎しみを抱いているのだろうか。ふと、感情の一切読めないその表情の奥底を想像した。
まあ、どうでもいい事だ。名前すらも知らない女武者である、どう思われていようとも、違いなど生まれない。邪魔さえしてくれなければ、それでいいのだ。
地図の上に置かれた玉将を手に取る。それを指先で弄んで、そして放り投げた。
「攻勢と、行きましょう」
地図に冷たく視線をやり、そして。須璃の国の本陣を表す印の上に落下した玉将を、睨み付けた。




