六櫻華燐という姫
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「姫様、おはようございます」
「………ええ、おはようございます」
布団の上で、女中の言葉に挨拶を返す。襖が開け放たれて、そこから覗く朝日に目を細めた。
こうして挨拶を交わすのも何度目だろうか。そっと溜息を吐きつつ、俺は………いや。私は、着物に袖を通した。
―――私は前世の記憶を持っている。地球という星で生きた記憶を。その時は男の身体であったが、今は女の、それも少女の身体だ。前世の話などしても意味がないため、この生においては体に合った私という一人称で固定している。
「華樂様が早くお戻りになられると良いですね。城造りもそろそろ終わる頃でしょうから。姫様も、久しぶりに華樂様に会えてうれしいのでは?」
「そうですね。父様とはこうして健康になれてからはあまり会えていませんから」
「今まで姫様に割いていた時間を外交に向けているのでしょう。国を背負う殿であれば致し方ない事かと。ですがご安心ください、殿様の埋め合わせを、そして姫様の警護をするのは華樂様に仕えるわたくしどもの使命でございます」
「………助かります、お願いします」
少しばかり勢いの強い女中の言葉に頷きつつも、改めて私は前世の記憶を持ったまま生まれ落ちたこの世界について、意識を向けた。
………この世界は、私の知る日本の戦国時代、それにとても近い世界だ。けれど、近いだけであって決定的に違う場所も存在している。また、その違いから文化や文明に私の知らない新たな要素が加わってもいる。
まず一つ。この戦国時代に近い時代背景と文明を持つこの国は、天唯と呼ばれる国だ。ただし、当然戦国時代ということからその内部は天下統一、巨大なこの国を盗ろうと英傑たちが立ち上がる群雄割拠の様相を呈しており、天唯は既に一つの国家としては機能していない。
この辺りはまあ、通常の戦国乱世と言っていいのだが………第二の、そして最も大きな私の知る差として、この国は―――大陸に存在している巨大な国である、という事が挙げられる。
かつて作られたという天唯の地図を見てみるに、大陸の構造は私の前世の知識が全く通用しない未知なる形状をしており、巨大な大陸の東側に天唯は存在しているという程度の事しか分からない。だが、大陸での群雄割拠という事で、戦国時代ではあるものの三国志にも近い立地条件や土地の問題を抱えているというのは事実であった。
何せ、天唯は大陸国家であるという性質上、鎖国は不可能だ。この時点でどう転んでも私の知る歴史は当てにならないと理解が出来る。
さて。では大きな違いの二つ目。それはこの世界の人間は、どうにも身体能力が高いという事だ。
これについては過去の戦国時代の本当の現実を知らないため、昔の人間の方が身体能力が高かっただけという可能性もあるが、兎も角………この世界の人間は戦闘能力がずば抜けて高いのである。
人により差はあるにせよ、鍛えた兵士の能力は現代人では及びもつかないほど。この世界に生まれ落ちてずっと体調を崩しており、何ならこうして意識をしっかりと保って起きれるようになったのが最近の事である私からすれば羨ましい限りである。
とはいえ、禄に鍛えていない俗にいう平民は、私の知る普通の人間の動きの範疇だ。なのでやはり、過去の人間の方が身体能力が優れていた説を私は推したい。
「あとは、大陸国家という事で他の文明とも接しており、生活水準が思っていたよりも高い、といった程度でしょうかね………」
「なにかおっしゃいましたか、姫様?」
「いえ、なんでもありません」
女中の問いかけを誤魔化すように微笑む。
この世界、戦国乱世でありながら史実の戦国時代よりも文明は進んでおり、その恩恵は特に生活環境に現れている。火縄銃などはまだほとんど普及していないが、街の構造等に割と先進的なモノが使われているのだ。まあ当然ながら、現代の先進科学文明には遠く及ばないが、便所はきちんと整備されているし、食品加工技術なども優れており、ご飯に関してはこの時代にしてはなかなかにおいしい。
と、そんな訳で。この世界はどうにも、私が知っているようで知らない異世界戦国乱世、といった様相なのであった。
そう言った前提が多々覆っている事情から、この世界には私の良く知る有名武将の名前なども見当たらない。まあ同じようなことをしている者はいるけれど。
そこまで思考を廻したところで、襖の奥から刀を左手に持った女性が、私に声をかけてくるのを認識した。
「姫様、朝餉の準備が出来ております。どうぞ、起き上がってください」
「………今、行きます」
姫様、姫様か。未だにその呼び名は慣れない。
私のこの世界での名前は華燐―――この天唯の覇を盗ろうと群雄割拠した国々の一つ、六櫻の国を治める六櫻華樂の一人娘である六櫻華燐だ。
だが、実のところ私がこうしてしっかりと意識を保てるようになったのはごく最近の事なのである。
具体的に言うと一年ほど前からだろうか。それまでの私は病のせいで基本的に常に死にかけており、意識が浮上することの方が珍しい始末。父親である華樂が手をかけてくれたためこうして生き延びれたが、それでもまだ私の身体は貧弱そのものだったりする。
………病に倒れているとき、ずっと、夢を見ているような感じだった気がする。生者の肉体に、死者の魂が入ってしまったから因果が歪んだのか、あるいは逆なのか。それは分からないが、華樂が幾つもの伝手を辿り、貸しをつくったり、それを返して貰ったりをしつつ私はようやく健康になったのである。
そんな訳で、家臣や城下からの私の評判というのは病弱で甘やかされた姫様というものなのだが、それに関してはやや不本意ではある。
正直、病の中で生き永らえるというのは苦しいのだ。華樂は私が死ぬことを許さなかったため、医師やら薬やらをどこからか手に入れては私を看護したが、私自身がそれを望んだことは一度もないのだから。
「姫様、早くなさってくださいませ」
「分かりましたよ、もう暫く待ってください………よい、しょ」
眼を閉じた、刀を持った女性が私を急かす。先程声をかけてきたこの女性の名は夕影という。父の華樂が私に付けた護衛である。
豊満な身体つきのせいか着物は緩く纏っており、長い黒髪は終わりの方で一つに留められている。黒い髪はこの世界では一般的なモノである。なお、私の髪色は基本は白で、毛先に近づくと薄らと桃色になるという不思議な性質の髪だ。このせいで割と不気味がられることも多い。まあそれはさておき………護衛役である彼女は、一見すると心優しい美女に思えるが、多分この人は私に一切の興味がない。
あくまでも華樂によって命じられて私を守っているだけで、本来は父の護衛なのだからそれは当然なのかもしれないが。
………そもそもだ、この六櫻の国は華樂のカリスマ性で成り立っている国である。
大陸の南東に存在し、背後を海に囲まれ、その他の土地の殆どを山岳が占める小さな六櫻の国は守りこそは硬いものの、他家の治める国から見れば分類としては弱小国に当たる国家である。そんな弱小国が戦国乱世になってからも存続できているのは、偏に天才的な築城センスとカリスマ性、そして指揮能力を持った華樂という殿がいたからであった。
家臣も民も、護国の将である華樂に心酔しており彼の血に強くこだわっている。
そもそもだ。私のような姫ならば、他家との政略結婚に回されてもおかしくはないこの時代に於いてこうして城で丁寧に守られているのは、華樂の血を引くものが私しかいないからである。
私の母は他家から嫁いできた女だったが、私が幼いころに失踪した。理由は不明だが、そのお腹には私の弟か妹にあたる存在がいたというので、領内の不穏分子か或いは他家の策略によって連れ去られたのかもしれない。ともかく、最愛の妻を喪った華樂は私も喪うような事態になることを恐れ、そのように華樂に囲われている私は民や配下の武将からこの国の血を守る存在として扱われているのである。
元男だというのに、子を産みたいとは思えないが………まあ、一応は姫という身分に生まれつき、私自身の願いではないにせよその恩恵を授かっている身だ。ある程度は我慢するしかないだろう。
溜息を吐きつつ護身用の短刀を帯に突っ込んで自室を出る。
向かう場所は城内の生活拠点である御殿のなかの執務室だ。御殿には客人をもてなすための表と生活スペースである奥が存在し、執務室は表である。わざわざ移動するのは、他の武将たちが食事に同席するためだ。実に面倒である。
「皆さん、おはようございます」
「………姫様、ご機嫌いかがでございましょうか」
「よく寝れました。あの、頭をあげてください」
私の言葉で家臣たちが下げていた頭を上げる。私の年齢はこの世界では十三歳だが、立場上は華樂の娘という事で彼らの上司となる。私が膳の前に座り、食事に手を付けなければ彼らも食事をとることが出来ないのだ。
箸を取り、食事に手を付ける。鋭い視線が私の一挙一動を見聞し、暫くしてから彼らも食事をとり始めた。
私は満足に動けるようになってから初めて彼らの前に出た存在だ。家臣と積み重ねた絆は殆ど存在せず、私は華樂の娘として相応しいかを常にチェックされている。食事の時間というのは非常に苦痛なのだ。ご飯くらい、一人で静かに、心安らかに食べたいものだけれど。
「報告をお願いします。領内、或いは他国で変わったことはありましたか?」
「隣国の須璃の国が我が国に攻め込む準備をしております。既に兵は動かされ、六櫻の国境に近づいている、と」
「え。え?」
ただの報告として伝えられたことに、目を見開く。そんな簡単に伝えられることではないのでは?もっと慌てるべきでは?
「どうなされますか、姫様」
「どう、と言われましても………ええと、敵の軍の規模は?」
「おおよそ三千程度と」
「三千………」
六櫻の国が抱えている兵は凡そ四千だ。隣国須璃もまた弱小国なので今回動員できた兵数が三千程度になったのは理解できる。
いや、待て。事前の情報で知っていた須璃の兵力は最大で三千程度だった筈だ、まさか国の防衛をすべて無視して兵力を六櫻の国に放り込んだ?そんなことをするはずないだろう。
戦いについての知識や知恵など私はそうは持っていないが、それでもと頭をまわしていると静かに声が掛けられた。
「―――姫様、先日届いた文によればそろそろ華樂様が戻られます。姫様が考える事ではありませんので、答えずとも結構です」
「とは言いますが、夕影。何か案くらいは出しておきませんと」
「そのようなことは最初から望んでおりません故、大丈夫でございます」
「………あ、え。そう、ですか」
眼を閉じたまま首を傾げる夕影。私は、報告をした家臣に視線を向けるが、家臣は夕影の言葉に頷くと、静かに食事に戻った。
そりゃあ、まあ。華樂がいれば私の意見など要らないだろうけれど。
最初から望んでいないなんて、そんな言い方をしなくてもいいのではないだろうか。私は一般人で才能なんてないのは事実だが、お飾りのお人形でもないのだ。
………けれど、家臣に言葉を求められていないなら、私がこれ以上なにかを言うことは出来ない。私は将ではなく、姫である。戦は本分ではないのだ。
「他には、何かありますか?」
「いえ、特には」
「………分かりました」
それを最後に、家臣たちは口を閉ざす。小食の私がご飯を食べ終わったタイミングで、彼らもまた箸を置いた。
「我らは仕事を始めまする。姫様はどうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
「いえ、手伝えることがあれば手伝います」
「結構です。不用意に触れられても仕事が増えるだけですので」
本当に、私はこの国の人たちに認められていないらしい。
忠義を是とする世界において、殆ど彼らの前に姿を現せなかったことと、彼らの主である華樂が損を被ってまでも私に強く構っていたためにこのような事態になっている訳だが、これほど邪険にされ続けていては私だって気分が悪くなる。少しだけムッとしつつ、家臣の男の言葉に頷くと私は居間を去った。
これでも、元現代人だ。戦う力はないにせよ、頭をまわしたり事務仕事をしたりといったことにはある程度なら力になれる。それでも、彼らが要らないといったのだから私が手を貸す必要はない。
本来の戦国時代では武士たちは朝早くに仕事を始め、十四時程度には仕事を終えていたというが、この世界は本来の戦国よりも国土が広く、故に民が多く、処理すべき仕事が増えているために慢性的な文官不足となっている。そもそも武官や文官といった括り自体がなく、武士がデスクワークをしているのだがそれはさておき。
事務仕事が追い付いていない中で私をあえて遠ざけるのだ、勝手にやっていろという話である。
「姫様、これからの予定はどうなされますか?」
「勉強です。字や茶、軍略や兵法、経済学―――知っていて損はありません」
「分かりました、先生を呼んでおきましょう。武芸の訓練は?」
「………この身体では刀の一本も持てませんよ」
何度も言うが私の身体は長年の病からの病み上がりでどうにも貧弱だ。護身用に持たされた短刀ですら重く感じるほどなのである。
武芸の鍛錬など、まともに行うことは出来ない。
「私は私のやり方でこの国の力になりますよ」
「分かりました、ご自由になさってくださいませ」
数歩後ろを歩く夕影にそう言うと、私は自室へと戻る。
執務机の前で筆を取ると、改めてこの国を取り巻く現状について意識を向けた。