欠落
「私は一の砦を下り、他の動ける兵士を集めてきます。間違っても、やられたりしないでくださいよ!」
「ええ。姫様も御無事で」
「当たり前です!」
夕影が返す言葉が徐々に短く、急かすようになっているのがわかる。きっと、来るのだ。先程私に向けて槍を投げたであろう兵が。
「では」
そう言うと、夕影の姿が掻き消える。残された土煙に咳き込みつつ、私はまず自分がどこに居るかを確かめた。
夕影によって移動させられてしまったため、そもそも一の砦からすら離れているようだ。少しばかり砦より奥地にいるようで、戦場の剣戟の音は遠くになっている。
非力な体を動かして、荒れた山道を進む。
少しずつ、一歩ずつ近づいていくと、噎せ返るほどに強い血の匂いが漂ってきた。
口を手で押さえつつ、さらに進めば、六櫻の国の旗が掲げられた場所へと出る。一の砦から少し下った場所のようで、攻め込んできた須璃の国の本陣営に近い位置だろうか。
………失敗した、此処まで深く来るつもりはなかったというのに。土地勘のなさが私を不利な方へと導いている。
「姫様?なぜこんな場所に」
「………不測の事態が発生しまして」
六櫻の国の濃紅の鎧が目に入る。とはいっても所々その鎧は凝り固まった血で赤黒くなっていたのだが。
「ふむ。夕影は?」
「その事態に対処中です。彼女の援護が欲しい、兵を貸していただけますか?」
「………問題はありませんが、貴女に使えるかどうか」
「使えるに決まっているでしょう!?あなたたち、私を馬鹿にし過ぎではないですか!?」
「人を使うとは、簡単な事ではないと言いたいだけです。私たちはこのまま敵本陣を討ちに行きます、三名の兵を貸しますので、どうぞお好きなように」
尤も、隠れていた方が良いとは思いますが、と。
名も知らないその侍は私にそう言うと、槍を手に敵陣へと駆けていく。その途中に声を張り上げたのは、私の元へと付くようにと声かけしたのだろう。暫くすると三名の濃紅の兵が現れる。
「遅い!行きますよ!」
「………」
兜の奥で瞳が細められるのが見えたが、しかし一応は私の言葉に従ってくれるらしい。返事は帰ってこなかったが。
まったく思うようにいかない。先導するために先を走るものの、歩幅の足りていない私の足は遅く、時間がどんどん過ぎていく。
暫くすると背後の三人の兵の内の一人が口を開いた。
「姫様、どちらに向かわれているので?」
「一の砦の上階です!そこから見渡さなければ何も見えませんから―――」
「戦場はもう既に砦付近から離れている様子です。今更高台の砦に登ったところで、何も見えますまい」
「………それでも、夕影はその付近で戦っている筈です。相手方に明らかに実力の高いものがいます、夕影に匹敵する実力者が………あれ」
先程こちらへ向けられた敵兵の槍。その衝撃によって一時中断していた思考が、再び繋がる。
この会話によって元々抱いていた違和感がさらに刺激されたのだろう。つまりは、どうして本来一騎当千の兵を持っていなかった筈の須璃の国が、このタイミングでその兵を手に入れたのか、と。
付近に実力者がいればそれは華樂に付いていた筈だ。人間ダイソンとでもいうべき、人誑しのあの父には才能ある者こそが惹きつけられる。ならば、須璃の国とも六櫻の国とも離れた外部から、その兵はやってきた。
しかし須璃の国そのものが動いたのであれば、六櫻の国の者が気が付くはずである。夕影が呟いていた言葉、そのような情報は聞いていないという言―――この国は当然ながら、情報収集の手段を持っている訳だ。
その”手段”を以てしても、今回いきなり現れた兵について一切情報が無いのであれば、意識の埒外からその戦力はやってきたという事になる。
走りながらそう考えて、頬に当たる冷たい気配に空を見た。ようやく夕影と最初にいた場所へと戻れようかという安堵は、その気配によって鬱屈とした考えに変わった。
「………雨、ですか。嫌な事の前兆のようで、どうにも」
樹々の隙間から覗く空は曇天模様で、墨を溶かした様な真っ黒な雨雲が覆いつくす。
ふとその空の色に、想いたる所があって―――直後に私は大きく吹き飛ばされた。
「っ、あ?!」
視界に入ったのは濃紅の兵の腕。私はその腕に突き飛ばされたらしく、地面を強く転がっていく。
「伏兵!!」
「こいつ、腕が立つぞ」
「白から桃に変わる髪色―――あれだ、あの餓鬼を殺せ!!」
「華樂様の最後の血、亡くさせるものか!!」
刀が抜かれ、血が飛び散る。
一の砦にはいつの間にか、水が浸透するように敵兵が集まり、隠れていたのだろう。
土色の鎧を纏った兵士の動きの殆どは遅く、私が連れていた三人の兵にあっという間に首を落とされ、或いは腕を切られて戦力外となっていく。
だが、戦いの一団から離れていた私の目にはしっかりと見えていた。土色の鎧を纏った兵の中に、明らかに動きの異なるものが数名紛れ込んでいることに。
兵としての質が須璃の国の一段と乖離しすぎている。戦い方や心構えは身体に現れ、振るわれる刃の太刀捌きは質においては凄まじい六櫻の国の兵にも劣らない………いや、優ってすら、いる。
「神瀬の兵が、なぜ須璃の国に!」
ギロリと、紛い物の鎧に身を包んだ兵の視線が向いた。
そして直観的に理解する。このままでは私は今、この場で死んでしまうと。
本能的に体が動き、その場から逃げようと足を上げた。護身用に持たされた短剣に手を当てつつ。背後で、悲鳴が響いた。それは三つの、男の声。私を守る最後の壁は消えてしまったのだろう。
恐怖と理性が、背後を振り返る事なく逃げろと叫び、私は私を守るために戦ってくれたであろう三人の死に顔をすら視界に収めずに、前へと進む。
逃げなければ、逃げなければ―――でも、一体どこに逃げればいい?
「あ」
足がもつれたのか、地面に転がる。荒くなった息はしかし、どれほど息を吸っても足りるとは思えなかった。
立ち上がろうとして、上手く行かないことに違和感を覚える。身体が動かない、否。
「あ………れ………?」
手をついて、私の足元を見れば、二本の色白の肌をした足が、私から離れて転がっていた。
視線を、太腿の方へと移す。血が噴き出ているのが見えて、暫くしてそれが収まれば、私の足は―――。
「な、い。足が、私の足………っ!い、いたい、いたい痛い痛い痛い!?!」
斬られたのだ、だから立てない。逃げられない、痛い、どうすればいい、痛い、ただ痛い痛い痛い!!
股下に暖かい液体が零れたのがわかる。痛みに耐えられず、失禁したのだろう。だけど、そんなことに羞恥を覚えられるような状況ではなかった。
「………憐れな娘だ。生まれてこなければ、苦しまずに済んだのにな」
「神瀬の国を敵に回すとは、こう言うことだ」
両足が切り落とされ、動くことのできなくなった私にそんな声が掛けられる。あの動きが異なる兵、神瀬の国の兵が私を見降ろしていた。
その後ろから、傷を負った土色の鎧の兵がやってきて、私を見て笑う、哂う、嗤う。
「なんだ、餓鬼だけど顔は美形じゃねえか。このまま放っとけば死んじまうだろうけど、その前に楽しんでもいいよな?」
「………」
神瀬の国の兵は顔を顰め、舌打ちをする。
「な、なんだよ、勿論一番最初はアンタらに譲るぜ?なんせ、六櫻の餓鬼をこうしてくれたのはアンタらなんだからよ!」
「そういう問題ではない、この、武士の誇りすら持たぬ農民上がりの蛮族め」
「んだよ、敵国の畑は焼くもんだし、食料は奪うもんだし、女は犯すもんだろ?神瀬の国だって同じことをしてるはずだ」
「………そう言う戦術であればする。だが、好んでするものか。そも、このような」
視線が、私を向いた。
「生まれたこと自体が憐れな存在には特にな。だが、貴様らの行動を止める権利は我らには無い。勝手にするが良い、役目は終えた、これにて戻らせて貰おう」
「ああ、いいのかい?そいじゃ、ここから先は好きにさせてもらうぜ」
溜息を吐きつつ、土色の鎧を脱いだ神瀬の国の兵が去っていく。彼らは、私だけを殺すために須璃の国に紛れ込んだのだろう。
………武器だけではなく、兵士を貸与する。さながら傭兵のように。神瀬の国の魔王は、それほどまでに私を嫌っている。
生まれたことを、憐れまれた?苦しむことを、慰められた?
涙で歪む視界の中、ふざけるなと呟いた。
「ひっ?!」
殆ど感覚のなくなった足がしかし、無理やりに開かれたことを理解する。視線を向ければ、男の一団が私の股を開いて、汚いものを取り出そうとしているのが見える。
―――これもまた、本能であった。女の身体で生まれてしまったという事がそうさせたのか、男であったはずの魂による静止もままならず。
私は、握っていた短剣を右手で抜き放ち、今にも私を犯そうとするその兵士の首元に突き立てた。
「がぁっ?!」
「来るな、来るな変態!!」
荒事が不慣れな私でも分かる。この刃は、浅い!
刃先が少し食い込んだ程度で命を奪うには全く足りていないのだ。いや、そもそも私を取り囲む男たちは何人もいる。この一人が死んだところで、どうなるというのか。
「ふざ、けんなこの餓鬼!!」
腕が捻られ、骨が砕ける音がした。痛みが身体を貫き、しかし瞬きをする頃にはさらに強い痛みが私の腕を襲う。
ぼたり、と。今度は私の右腕が地面に落ちたのをしっかりと見て。そして、私の頭は思いっきり地面に叩きつけられた。
ぐちゃりと響いてはいけない音が頭蓋の中に反響する。視界が揺れて、右の眼と地面の距離が随分近いと、消えそうな思考の中で思った。
髪を掴まれたのか頭が無理やり引っ張られて、もう一度地面に叩きつけられる。今度は肉が潰れる音と共に、硬い石によって削られる感触も一緒にやってきた。そして、右目の視界が完全に消滅する。
「………ぁ………」
私は今、どうなっている?生きているのだろうか、それとも既に死ぬ寸前なのか。
走馬燈は、流れない。流れるだけの人生をこの身体で送っていないからだろうか。せめて、前世の記憶でもいいから最期になにか、見せてくれればいいのに。視界の中に広がるのは黒と赤だけだった。
「た、す」
―――助けて。
そう言おうとして、口を噤む。いや、そもそも声を発することなどもう出来もしないのだが、助けてという言葉は相応しくないと、そう思ったのだ。
「こ………ろ」
殺して。もう、自由にして。
この地獄に、生きていたくない。世界全てが私を憎んでいるような、こんな場所から離れられるなら。それこそが、私にとっての救いなのだ。
だから、そうだ。どうか殺してほしい。終わらせてほしい。
そうか。じゃあこのまま、意識を手放せばいいんだ。
私はよく見ることも出来ない視界に向ける意識を薄れさせていく。五月蠅く響く耳鳴りの奥に、何かの悲鳴が混じっているのが分かったけれど、もはやそんなこともどうでも良い。
昏く静かな安寧の中に、融けて行こう―――そう、眠りに堕ちようとして。
「姫様………姫様!」
誰かが、私の名を呼んだ。薄く開かれた片方の瞳の中に黒い髪の影を遺して。
最後の景色はそんなものだった。そして私は、黒色の中に、夢の中に沈んでいった。
眠る前の記憶はこんなもの。喪う前の時間は、そんなもの。片目と片手と両足を失って、なおも私は生きている。生かされている。役目を果たせと、生まれてきた責任から逃げるなと、罵声を浴びせられながら。
そうして、私の追憶は終わりを告げるのだ。ゆっくりと片目を開き、意識が浮上していく。
夢の中で語り掛けていた父の声は遠くなって………私は再び地獄の中を生きることとなる。
さあ、目覚めの時だ。痛みと絶望を抱きながら、私は世界に歩き出していく。




