魔王就任
それは『どこでもない場所』を漂っていた。
それは旅する者。
漂い、時に物質界に落ちて肉体を纏い、肉体が壊れれば物質界から離れ、再び『どこでもない場所』を漂う。
それにとっての日常。
ある時声を掛けられた。
声の主はその時近くにいた『世界』、あるいは神とも呼ばれる存在だった。
その『世界』は言う。「私の世界で魔王になってくれないか?」
こうした打診はままある事だった。
様々な『世界』を渡り歩いてきたそれは、魂に多種多様な情報を抱え込んでいる。その情報――技能やエネルギーは、何かしらの理由で停滞している『世界』に良くも悪くも影響を与える。
声を掛けて来た『世界』も、何かしらの理由で変化を求めているのだろう。
これまでにも、英雄だの聖女だの邪神だの、様々な役割を演じて来た。否やは無い。
――が、事情を聞いて、ちょっと呆れた。
要は生態系のバランスの調整に失敗し、更にバランスが崩れたと言う話なのだが、失敗の仕方がアホ過ぎる。
弱っていた種族に支援を贈るのは良い。しかしなぜ他の種族を駆逐するほどの力を与えたのか。
見た所、この『世界』はまだ若いようだが、それにしても。
まあいい。
引き受けたからには、やり抜こう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その世界では、ヒトと魔族と呼ばれる種族が常に縄張り争いをしていた。
大陸の西側にヒト、東側に魔族。
両陣営とも大陸の、ひいては世界の正確な形を知らず、故にどちらが優勢なのか誰も知らない。
知らないまま、ヒトと魔族の領域の境界線は東に西に揺れ動く。
その大陸の東寄りの場所。
一体の、ヒトに魔族と呼ばれている生き物が日溜まりで微睡んでいた。
うとうとしていた魔族は、不意に顔を上げた。近くの茂みががさりと揺れて、一匹のウサギが顔を出した。
そのウサギは地球の野兎とほぼ同じ、殺傷力など持たない弱い生き物だ。弱い故に臆病で、魔族に気付くとビクッと震えた。
とほぼ同時に、魔族もビクッと震える。
ウサギは慌ててその場から逃げだし、やはり同時に魔族もウサギから逃げ出した。
これは、この魔族が特別臆病、と言う話ではない。
全ての魔族に共通する性質である。
そもそもの話、魔族を魔族と名付けたのはヒトである。
それは敵対の歴史の結果。ヒト視点でのみ見た彼等の姿であり、ヒトにとって魔と呼ぶに値する存在なのは事実だ。
しかし彼等の本質を知る者、ヒトとも魔族とも関わりの無い第三者が居たならこう呼ばれていたかも知れない。
調停の獣。
彼等は生態系のバランスを維持する為に創られた種族である。
攻撃性の高い種が他の種を殺し過ぎればその種を減らし、減り過ぎた種があれば保護する。
自然にその行動を誘発する仕組みとして、彼等には『感情を反射する』と言う特性が与えられた。
すなわち、敵意を向けた相手には敵意を抱き、怯える相手には怯える。
こうして攻撃的な捕食者が彼等に遭遇すれば戦いになり、被捕食者に遭遇すれば互いに離れる。
勿論、それだけではバランスはとれないので、世界での繁殖数が一定値を越える、他の種の生存への影響度など様々な要因があるが。
かつて、彼等は自身に埋め込まれた本能に従い、増えすぎたヒトを大量に補食した。
総数が一定値を下回った所で彼等はヒトの補食を止めたが、今度はヒトが積極的に彼等を狩るようになった。
それが命を繋ぐ為の狩りならば良かった。けれどその狩りは憎悪に突き動かされた故の狩りで、彼等はやはり本能に従いヒトに憎悪を返した。
それが、長い争闘の歴史の始まりだった。
ただ、過度の繁栄を防ぎ、憎悪向けるのを止めればそれでヒトに平穏が訪れるのだが、それに気付く者が現れないまま時は過ぎる。
――気付いたところで、憎悪を手放し、繁栄を諦めるなど、出来なかったであろうが。
ウサギから逃げ出した魔族は、向かった先で再び生き物と遭遇した。
魔族はその生き物が自身に気付き、何らかの感情を抱くのを待った。
彼等の弱点。その性質故に、自ら何かをする、という行動が取れない。
キョロキョロと辺りを見回しながらゆったりと歩いていたその生き物は、魔族に気付いて足を止めた。
感じたのは、好奇心。
その生き物は好奇心をもってまじまじと魔族を見詰めた。なので、魔族も好奇心を生き物に向けた。この生き物はなんだろう?
次いで、ふわりと暖かい感情が贈られる。好意だ。
「こんにちは」
好意を向けられたので好意を返す。魔族はその生き物に近付き、すり、と頭を寄せた。
生き物の手が、優しく魔族の頭を撫でた。
「君が"魔族"と呼ばれている種族だね? 初めまして、君達の王に任じられた、魔王だ」
魔族は知能はあるが自我を持たされていない。なので魔王の言う事は理解出来るが、それに対して何かを思う事は無い。
「……これが"魔族"か。私はね、やることがあるんだ。そしてそれを君にも手伝って欲しいと思う。その為にも個を、自我を、君に持たせようと思う。いいかな」
魔族はこの問いには反応しない。その為の機能が無いからだ。
「――まあ、そうだよね。勝手にやらせて貰うね。これまで無縁だった苦しみを味わう事になるだろうけど、それ以上に自我を持って良かったと思って貰えるよう努めよう」
魔族は反応しない。その為の機能が無いからだ。
「では――君はアリー。君は今からアリーと言う名の存在だ」
魔族は――アリーとなった魔族は固まった。
今までは周囲の反応を反射するだけだったのに、唐突に唯一の指針を奪われ、自身の取るべき行動が分からなくなったからだ。
「困ってるね。――そう、その状態は『困ってる』と言うんだよ。『混乱』でもいいかな? 落ち着いて、湧き上がる感覚をよく味わって。それがアリーの感情だよ」
魔王は穏やかな笑みで、たった今支配下に置いた獣を見守った。
落ち着かない様子で、立ったり座ったり土を掻いたり頭を振ったりする四足歩行する大きな獣。一人目の魔王の家族。
この世界に降りて、最初に出会った魔族の子。仲良くなれるといいけれど。
「にしても……」
ふと、魔王は己の体を見下ろしアリーと見比べた。
魔王の姿は二足歩行で毛皮は無く、頭部の比重が大きく服を着ていて、つまりは魔族と敵対しているヒトそのものだった。このままヒトの街に向かっても、違和感は無いだろう。
「どういうつもりだろう?」
この体は神が用意したものだ。容姿に拘りは無かったので丸投げしたのだが、気が付いたらこの姿だった。
いずれヒトの街に偵察に向かうつもりだったから便利ではあるが、なぜ。
「――ま、いいか」
魔王は深く考える事はせず、思考を切り替える。
今はこの世界の現状と、与えられた権能の確認が先だ。
特に今使った対象を支配下に置く《名付け》は、魔族に対してどんな変化をもたらすか、未知数な部分が多い。
今まで無かった自我を唐突に与えられるのだから当然だ。よく様子をみてケアしなくては。
そして対応が分かったら、配下を増やして育てる。
ヒトと、戦わせる為に。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「では、行って来るよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
支度を整え、出発を告げると、アリーは心細さを滲ませながら、それでも見送りの言葉を告げる。
その後から「いってらっしゃい」「きをつけてね」「はやくかえってきてね」と、やはり不安そうな声が次々と掛けられた。
長い別れのような子達の反応に苦笑する。日帰りの予定なのだが。
――仕方ないか。親のような存在の私が長時間離れるのは、これが初めてなのだから。
じっくり時間を掛けてアリーを育て、個性も出てきたところで二人目を《名付け》、その子が育ったら三人目をと繰り返し、配下が六人になったところで《名付け》を中断し、育成に専念した。
そうして四年、その子等の自我がヒトの児童ほどに育ったところで魔王は次の段階に進む事にした。
これからヒトの街に行き、ヒトを観察する予定だ。
「アリー、下の子達を頼むぞ」
「はい、任せてください」
ついでに《名付け》した魔族達の自立を促す。
特に、アリーにはいずれ魔族の統括を任せようと思っている。私が留守の間に二人目以降の子等をまとめ、信頼を勝ち得てくれるといいが。
少々心配だが、この地域にアリー達を害せる存在などいない。
後ろ髪を引かれながら転移した。
魔王は境界線近くで最も大きな都市に向かった。
最初は魔法で存在を隠し観察する。石や煉瓦で作られた建造物、道は秩序立って敷かれ、その道を機械仕掛けの車が行き交う。
街は清潔に保たれ、ヒトは清潔でしっかりした仕立ての服を着て、そこかしこにある屋台から気軽に食べ物を買い口にする。
ヒトは豊かな暮らしを謳歌しているようだった。
降り立ったのはいわゆる王都で、王城を中心に貴族街、平民の富裕層、平民の中流階級と外側に行くにつれて身分が下がる造りだが、平民の区画でこれだ。
まだ一つ目の街だが、貧困にあえぐ"ヒト"は思ったより少ないのかも知れない。
……いや、ここでは、"ヒト"という種自体が上流階級のようだ。
公園で"魔物"に石を投げて遊ぶ子ども達が居る。
店先でふっくらとした女性が接客する裏で、痩せこけた"魔物"が重そうな商品を上げ下げしている。
訓練用らしき広場で、剣を持った若者が無抵抗な"魔物"に斬りかかり、指導員らしき年配者に褒められたり叱責されたりしている。
――気になるのは、さっきから"魔物"と呼ばれている者達が、魔王の目にはヒトにしか見えない事で。
しばらく観察し、固有名詞や金銭などをざっと覚えたところで魔王は隠蔽を解除し、ヒトの前に姿を現してみた。服装は、珍しいかもしれないが、多様な装いが見られるので珍しいで終わるだろう。
魔王はまず、檻に入れられたヒトが商品として売られている店に向かった。
普通に大通りにあり、至ってまともな商売という雰囲気だ。
「少しいいか?」
店主らしき男に声を掛けると、男はやや目を瞠って、すぐに愛想よく応じた。
「いらっしゃいませ、使役獣をお探しですか?」
使役獣。
魔王は檻の中のヒトをチラと見て言った。
「いや、ああしたものは自国では見なくてな。使役獣と言うのか」
「おや、不思議なお召し物と思ったらやはり外国の方ですか。使役獣がいないとなると、ジェイサールかロンデネでしょうか?」
「とるに足らない小国だよ」
適当に言うと、男はすぐに引き下がった。売れれば出自など知らなくとも問題は無い。
魔王はあれこれと質問した。使役獣の種族は何か、どうやって調達するのか、どのように従えるのか、使役獣に関する法律は。
我ながら面倒くさい客である。男も煩わしいだろうに、男からは悪感情を感じなかった。
魔王も一応、魔族の括りに入る生き物だ。基本的な性質は共通で魔王も向けられた感情を正確に読み取る。
他の魔族と違うのはそれを意識的に抑えられる点だ。
店主は商人としてのプライドをもって、最後まで愛想良く丁寧に応じてくれた。
あれこれ聞かせて貰った礼と、使役獣自身の話を聞きたくなった事もあって一匹(一人)購入した。
資金は魔族の森で適当に採取してた物を売ってみて得た。それで足りたのは、使役獣が安価なのかあの森の物が高価なのか。
私の所有物となったヒトを連れて一旦街を出た。
適当にヒトのいない所に腰を落ち着け、早速話を聞き出す。
怯えられながら"命令"として話させたところによると、彼は生まれつきの使役獣だと言う。
母親が使役獣だとその子どもも自動的に使役獣になるそうだ。檻の中で生まれ育った彼は多くを知らなかった。それでも高値で売る為に教育は施され、読み書きや四則計算、簡単な地理や社会情勢、常識は把握していた。
お蔭でこの国についての基本的な事は分かった。
そして"ヒト"と"使役獣"と"魔物"の違い。これは分からなかった。
彼にとって、自分が"使役獣"で、檻の外の人が"ヒト"なのは当然の事で、疑問にも思わなかったらしい。不思議そうな顔をされた。
魔物もそう呼ばれる使役獣も居るくらいの認識だった。
なんというか。
魔王はこの時まで、ヒトに対して少なからず同情していた。
必要性は納得したが、元は神の調整ミスが原因である。他人のミスのせいで殺されるなど、理不尽だろう、と。
だが、同情は無用のようだ。
原因が他所にあったとしても、他者を虐げていい理由にはならない。
遠慮なくやろう。
魔王は描いていた計画に少々の修正を加えた。幾つかの予定を破棄し、新しい道筋を立てる。
考えをまとめた所で、ふと目下の課題に目を向けた。
「…………」
つい衝動買いした"使役獣"は、大人しく所有者の沙汰を待ち、向けられた視線に次はどんな指示が来るのかと構えている。
この子、どうしよう。
魔王のビジュアルは明確には設定してません。
性別、年齢、美形、モブ顔、その他お好きなようにイメージしてください。