第8話 「ハグ」
私に対して、今までメイリーが何かを強く要求してきたことがあっただろうか。
「就活しないで」「他の部屋で暮らさないで」とか、そういうことは何度か言われてきた。でもそれは考えてみれば当たり前の要求だ。私もメイリーも今まで仲のいい友達がいなかった。だから初めてできた友達に対して、軽い束縛みたいなものをしてしまうというのも少しはあったのかもしれない。でもそれ以前にメイリーからしたら私は何の準備もなく異世界から降ってきた向こう見ずで、そばで見ていないと危なっかしくて仕方ないのだろう。彼女は友達だが、保護者でもある。私が異世界にもっと慣れるまでは当然の処置といえる。そもそも私だってメイリーとずっと一緒にいられるのは嬉しいし、拒否する理由はどこにもなかった。
ともかくこれまでの私とメイリーの付き合いは乾いている……というと言葉のイメージが悪いが、爽やかというとそれもまた違うような、なんというかさらっとしたものだったように思う。
でもその日、私はメイリーの言葉に初めて「湿度」のようなものを感じた。
「シロナ、ハグしてほしい」
その要求に私はなぜか即答することができなかった。誰よりも自分自身が驚くことに。
そもそもなぜこのような状況に至ったか。話は数日前、怪鳥スフィーを見に動物園に連れて行ってもらった日にさかのぼる。
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異世界に降ってきてから二週間と少し。メイリーとの暮らしは既に日常になり始め、文字や言葉もほんの少しずつだが覚え始めていた。ずっと家の中で過ごすというのも心身に悪いということで、メイリーは一週間に一度は外に連れ出してくれる。今日は怪鳥スフィーがいる動物園だった。
独特の臭いが鼻をつく感じ、地球の動物園に来た子供のころを思い出す。あれは中学校のころだったか。周りの人は平然と買い食いしてたが、私はその匂いの中で何かを食べる気にはなれなかった。あの頃の私はちょっと繊細だったのかもしれない。いや、やっぱり今でも食べるのは嫌だ。
それでも今はメイリーと手をつないで歩いている幸福感と、見知らぬ動物が沢山いる楽しさのほうがずっと勝っていた。人が少ない時間帯を狙ってきたので、入園締め切りまであと20分ほど、閉園まであと一時間半もない。とりあえず今日は怪鳥スフィーが見られればいいし、楽しかったらまた来ればいいのだ。
とりあえず鳥類館までまっすぐ進む傍ら、色々な動物の前を横切っていく。地球の動物に似ているものも多いが、全く似てないものも多い。地球生物に特別詳しいわけではないので有識者が見たら全く違う感想を抱くのかもしれないけど、そもそも哺乳類や鳥類といった分類で何になるのかわからない動物もちらほらいる。
例えばメイリーのパジャマに描かれていた可愛らしい動物。あれは「めっふぃ」というらしいが、体のラインは魚類を思わせる。だがふわふわの体毛が生えていて、頭部はウサギのようにも見える。水場が用意されていないことから陸の生物のようだがあまり動かず、時折浮遊している。魔力を操る生物なんだろう。
メイリーはもちろん、今や私もそうだが、こちらの世界では人間も魔力を持つ生物だ。だがこの生物は体の形状からして魔力操作を前提としている。つまり明らかに魔力がある環境の中で進化してきた生物だということだ。多分だが、人間や、地球で見るのとあまり変わらない動物たちは、地球から来た外来種なのではないだろうか。いや、別に必要なければ魔力に依存しない進化を遂げることも普通に考えられるが。とりあえず人間が同じホモサピエンスであることはほぼ間違いないように思えた。もしもこの世界で誕生した、あるいは適応して姿形が大きく変わるほど長い年月進化を重ねてきた人類がいるとしたら、逆に八百屋のおじさんがチラッと言っていた「体に魔力を持たない人間」の方なのかもしれない。
「あー、確かシロナがいた地球って世界にもいるんだっけ。こっちの世界でも人気なんだよ、キリン」
メイリーが目立つ場所にある大型動物の檻の前で一度立ち止まった。
「え、キリンいるんだ」
この感じ、おそらくこの動物園の目玉の一つなのだろう。
逆光を浴びて、向こうのほうから何か大きなものが近寄ってくる。
「……キリン?」
四足歩行で、黄色っぽい体色。だがそれはどう見てもキリンじゃなかった。
「というより……麒麟?」
缶ビールに描かれているあの絵を思い出す。首の長い草食動物のキリンよりはそっちに似ている。顔が龍っぽい。
「あれ、なんか違った?」
「うん。でも名前が同じな理由はわかる」
ジャックジーと同じだ。間違いなく名前を付けた人は地球人だろう。これこそ本物の麒麟だと喜び勇んで名前を付けたに違いない。こういうたまに発見する地球由来の言葉も先ほどの仮説を私が持つに至った要因の一つだ。
時折空中を踏むような不思議なステップを踏むことはあるが、そのまま浮遊するようなこともなく、さっきのめっふぃよりは地球の動物と大差ない。体色が黄色いのも光の違いによるものかもしれないし、大型のシカの一種と言われればまぁ納得できる範囲の生物だった。たまに店先に剥製が飾ってあるヘラジカより多少大きいくらいか。野生の個体と出会ったら腰を抜かして死を覚悟するだろうけど。
「さて、次はいよいよ鳥類館だね」
そう、シカとかは大きいのが地球にもいるのだ。だからこういう地球にいない大型種を見ても、「わーこんなのいるんだー」ですむ。なんならゾウのほうが初見のインパクトは凄いかもしれない。
でもスフィーは鳥なのだ。地球最大の鳥はダチョウ、飛べない鳥。もしニュージーランドのどこかにモアが生きてたとしても、それも飛べない鳥。もしかしたら地球にもいたのかもしれないけど、見るからに人間より巨大な飛ぶ鳥っていうのを私は知らない。
なぜか子どものころから、人よりも大きい飛べる鳥に憧れがあった。ゲームの影響かもしれないし映画の影響かもしれない、きっかけは定かじゃない。もしかしたら子どものころシラサギを見て「乗って飛べそう」とか思った記憶が元なのかもしれない。
純粋な好奇心のワクワクとしては、ハバボー以来の高まりだった。
鳥類館は大きな建物で、一部中庭のようになっていて、怪鳥スフィーのコーナーは最奥の光を絞った場所にあった。どうやら夜行性らしい。
「さあシロナ、これがスフィーだよ」
ぬっ、とガラスの向こうからこちらを見る巨大な顔。恐竜のような前傾姿勢をとってなお、その巨躯は152センチの私を見下ろしていた。ドードー鳥のように先の膨らんだ大きな嘴は仮面のように顔半分を覆っていた。頭頂部の羽毛は逆立ち、ハシビロコウを思わせる。全体の体色はくすんだグリーンで、赤みがかった脚部は鳥らしく細いが、足先は丸みを帯びて力強く地についている。何より特徴的なのは、ビーグル犬の耳のように顔の横に垂れ下がった羽根。それがどんな機能ゆえのものかはわからないがその縞模様を見たらこう言わずにはいられなかった。
「スフィンクスだー!!」
怪鳥スフィー。そうか、そういうことだったのか。またしても地球由来としか思えない名前だった。
「え、もしかして元の世界にもいるの?」
「いないけど、麒麟と同じで多分、名前のもとになったものが地球にある」
「へー、やっぱ案外多いのかな、地球人」
それを踏まえたうえで見ると、額にまで広がる嘴は頭飾りの部分のようだ。
しかし本当に大きい。サイズ感でいえばサラブレッドが近いだろうか。ただし私がまだ120センチくらいの身長だったころのサラブレッドの印象だ。サイズ以外は地球の鳥と大きく離れていないが、とにかくサイズが圧倒的だ。これで翼を広げたらどうなってしまうのだろう。
「最大のものになると、これよりもさらにずっと大きいらしい。ボクも見たことはないけど」
そこまで行くともうフェニックスとかそういう領域だ。地球でそれに匹敵するのはとっくに絶滅した翼竜くらいのものだろう。
サイズ的には楽々乗れる。馬より大きいんだから当然だ。しかし脚の細さを見る限りそれは無理そうだ。よしんば魔力をどうこうして乗れたとしても鳥の体は華奢だ。落ちないようにしがみついたらきっと骨が砕けたりしてしまう。
でもそれでもうれしかった。乗って飛んだりはできなくても、乗って飛べるだけの大きさの鳥が実際に目の前にいて、ずっと高い位置から私を見下ろしているというこの光景がそれだけで。純粋に巨大なものに見られていることによる本能的な恐怖が、何よりもこれがリアルだと私に教えてくれる。
テレビ番組で再現されたお菓子の家に飛びつく子供が、もうその時点で満面の笑みを浮かべているように。かなわないはずの幼い夢がかなった瞬間は少しだけ物悲しいような、でも胸の奥が嗚咽で詰まるような、強い感慨を私にもたらした。
「ありがと、メイリー。連れてきてくれて。それからありがと、怪鳥スフィー」
分厚いガラス越しに、聞こえないであろう小さな声をスフィーに向かって投げかけた。
そしてその場を後にしようと後ろを向きかけた瞬間。
クエーっというけたたましい声がガラスの向こうから響き渡った。
ばっと振り返ると、怪鳥スフィーが直立し、その両翼を広げていた。
もはや壁かと思うほどの圧倒的な高さと幅、そして広げたことによりくすんだグリーンに見えていた翼は照明の光を透過し、エメラルドのように美しく輝いていた。
私はぽかんと口を開けたまま、スフィーが展示ゾーンの奥のほうへ飛んで行ってしまうまで立ち尽くしていた。
ようやく体に力を取り戻し、ゆっくりと振り返ると、穏やかな笑みを浮かべてメイリーがこちらを見守っていた。なんだか少し気恥しくなりながらも、私はそれこそ本物の子供のようにぼそっと言った。
「また連れてきてもらってもいい?」
「うん」
メイリーは優しい声音で短く答えてくれた。
帰り道にまた飲み会用の買い物をして帰る。あの日以来、週に一度は決まって飲み会をすることになっていた。メイリーは動物園から帰る前に何やら手続きをしていたが、それが何かは帰ったらすぐわかった。
巨大な箱がアパートの階下に置かれていた。
「今日の記念にお土産」
なんだろう。以前お風呂を買った日に開け忘れたお土産は、魔術師ミーメイシステム以前の時代の家庭用小型アーケード筐体で、翌日そのままレトロゲームパーティーになったけど。箱の大きさだけでいえばあの時のものよりも大きい。
部屋に戻って開封すると、それは怪鳥スフィーのぬいぐるみだった。しかも巨大だ。もちろん実寸大とはいかないが、一メートルはある。翼を広げた幅は私の身長よりも広い。
なんだか感極まって私はそのままヘッドロックをかけるようにスフィーぬいぐるみに抱きついた。もふもふだ。実物より大分可愛い感じのデザインになってるけど、なんだかもう一段階叶わないはずの夢がかなったようで、なんだかとっても嬉しかった。
「ありがとうメイリー! もふもふだー!」
「よかった。なんだかシロナ、この世界に来てから見たことないほど興味持ってたように見えたから。前から気にしてたし、おっきい鳥のこと」
「うん。夢だったの。おっきい鳥」
遠慮なくぎゅーっと抱きしめる。羽毛を模した布は肌触りがとてもいい。
大きいぬいぐるみは良い。大げさな言い方をすれば、家族やペットが増えたような感覚がある。思えば私の部屋にも沢山のぬいぐるみをおいてきてしまった。あの子たちは元気だろうか。ずきっと傷んだ胸の痛みを押さえつけるようにさらにスフィーを力強く抱きしめる。なんて素敵なプレゼントだろう。私から返せるものなんて何もないのに。メイリー大好き。
その日は飲み会を楽しんだ後、めっふぃ柄のパジャマに着替えてスフィーを抱えて眠った。
その日から私はスフィーを抱きかかえて眠るようになった。元々ぬいぐるみを抱いて眠るのが好きだったし、何よりメイリーからもらったプレゼントだ。嬉しくてしょうがなかった。
私の生活にそんな新しい習慣が加わって数日が経ったある朝。
珍しく私より先に起きていたメイリーが、これまた珍しく真顔でぽつりと言った。
「実はボク、今日誕生日なんだ」
「え、おめでとう」
反射的に祝いの言葉を言いながら、背筋に冷たいものが駆け抜けていくのを感じた。
どうしよう。スフィーぬいぐるみをもらった時にも思ったけど、本当に私には何も返せるものがない。メイリーの誕生日だっていうのに、何の用意もすることができない。
「え、あっ、えっと」
「あー、落ち着いてシロナ。シロナに仕事しないでって言ってるのはボクなんだし、言わなかったのわざとだから」
その言葉で少しだけ落ち着きを取り戻す。
そう、メイリーは親切で人を自宅に住ませるようなことはしない。私に一緒にいてほしくて同じ部屋で住むことになったんだ。そこに必要以上に負い目を感じるのは双方にとっていいことではない。
で、わざと今日まで伝えなかったというのはどういう意味だろう。当日に言えば準備しようと勝手に家を出てったりする心配がないからだろうか。確かに金色の帽子もあるし、やろうと思えば近くの商店街で一人買い物をするくらいできる。警戒する理由としては十分であるように思えた。でもメイリーの顔はいつもより少しまじめで、何かほかに理由があるような気もした。
「決めてたから、欲しいもののリクエスト」
メイリーの口から語られたのは真逆に近い理由だった。欲しいものがあったから当日に言った。事前に誕生日を知った私が勝手に準備をしないで、確実にメイリーの欲しいものを渡せるようにってことだろうか。といっても私に渡せるものは物理的にはほぼ存在しない。これからどこかに一緒に出掛けて、誕生日ディナーを楽しむとかそういうことしか想像できなかった。
「シロナ。ハグしてほしい」
その瞬間私の頭は真っ白になった。
なんでだろう。
スキンシップという意味でいうなら。私たちは普段から外に出る時は手をつないで歩いているし、ハバボー号に乗る時は密着している。パンツ一枚に剥かれたこともあるし、お腹をじかにくすぐられたり、お風呂で裸で肩を寄せたりもしている。今更ハグ程度なんてことはないはずだ。というか、私はメイリーが大好きだし、むしろハグなんて望むところじゃないか。何を私はこんなに動揺しているんだろう。
「スフィーにしてるみたいに、ぎゅってしてほしい。だめかな?」
その顔は今まで見たこともないほど不安げだった。
そしてそれが私が動揺している理由そのものであることに気が付いた。
メイリーは私といる時、子どもっぽく振舞う。表情もころころ変わって、拗ねたり照れたり、私にはいろんな表情を見せてくれる。でも今までにこんな余裕のない表情は見たことがなかった。
私もメイリーも、お互い気に入ってることを知っている。心からそう思っていることは見ればわかる。それくらい初めての友達との毎日を心の底から楽しんでいた。服を脱がしたりくすぐったりもお互い楽しいことがわかってのことだ。メイリーの身体が綺麗でつい凝視してしまうのだって一目惚れして異世界ダイブした私にとっては当然のことだ。
でもこのハグの要求は違う。スキンシップがどうのこうのとか、はたから見たらもっとエッチなことをしてるとかそういう話じゃない。メイリーは私に対して、初めて私が受け入れるかわからないレベルのことを要求しているのだ。無条件に信じられる友情の範囲を、多分メイリー的には超えているのだ。
友達とはいえ、メイリーは保護者でもある。この世界に来て頼りっきりで、そうさせてくれるだけの余裕を彼女はいつもまとっていた。少し暴走することはあっても常に自然体で飄々としていた。
それが今、少女のような顔をしている。もしかしたら飛び込む直前に見た、一人ぼっちのあの時以上に。だからきっと私は動揺したんだ。
空白はメイリーの表情からそんな計算をはじき出して埋まり、私は言葉を紡げないまま腕を広げ、そこでもう一度止まった。
私はどうなんだ。
もしメイリーの気持ちがそんな感じだったとして、私のほうはどうなのか。
今私はメイリーに求められている。私自身を。それを受け入れたら、私たちはどうなるんだろう。それは友情を知らなかった私にとってさらなる未知の領域になる。ハグぐらいで大げさだろうか。誕生日プレゼントにハグを求められただけで考えすぎだろうか。いいよーって言ってぎゅーってすればありがとーって返ってきて終わるだけの話なのではないか。
正直、抱きしめないという選択肢はすでに私の中にない。でももう少しだけ思案が必要なのは間違いなかった。
今メイリーを抱きしめて、私は大丈夫か? 何か戻れない領域に入り込んだりはしないか?
その時、私の体はメイリーに飛びつくように抱き着きながら、とんでもなくずるい答えをはじき出した。
大丈夫。だってメイリーのほうから求めてくれたんだから。
メイリーの細いだけじゃなく柔らかい身体は、スフィーを抱きしめた時とは全く違う種類の気持ちよさがあった。そしてワンテンポ遅れてメイリーの腕が私を抱き返す。その瞬間気持ちよさが瞬間的に何倍にも膨れ上がるのを感じた。
ああ。これはすごい。ハグってすごい。
「ありがと」
メイリーの声がかつてないほどダイレクトに聞こえる。少しいつもの調子に戻っていて、私はなんだかほっとした。
「おかしな話。スフィーボクがあげたのにね。あんな興味津々なシロナ初めてだったから喜ぶと思って、単純に」
きっとハバボー号の時とは何かが決定的に違ったんだろう。
「ちょっとずるいって思ったんだよね、スフィーが」
「じゃあさ」
知らぬ間に羨ましがられていたもふもふを一瞥し、ちょっとした提案をする。
「今日スフィー枕にするから、代わりにメイリー抱いて寝させて」
メイリーは少しだけ体を離して、きょとんとして見せたあと、
「いいけど。夜暑かったら逃げるかも、流石に」
そんなことを飄々と言ってのけるのだった。
基本的に重めの話を書かない、とあらすじで書いたときに想定していたよりは重めの話、というより踏み込むつもりのなかった部分に踏み込んだ話になりました。自分では意外なところですが、読んでくれた方がどう思うか気になるところです。
漫画版でずっとビジュアル化したかった怪鳥スフィーの話を描こうと思った時、シロナとメイリーの性格を考えたら、これはもっとちゃんと小説のほうで書くべき話だと思い、漫画版を一時中断し、先にこちらの続きを書くことにしました。なので漫画版でも似た内容の話をこのまま描くことになると思いますが、もっと軽いタッチの話になると思います。いよいよ本格的にパラレル感が強くなりそうです。
今更ですが「メイリー」の発音は「コーヒー」と同じです。「メアリー」とは違う感じです。