プロローグ
一瞬。でも確かに目が合った。
私の好きな映画にこんなセリフがある。
「恋ってのは雷に撃たれるのと同じさ!」
その映画は好きだったけど、恋どころか長く付き合っている友達すらいない自分には、へえそんな感じなんだとしか思えなかった。
でも今はわかる。これは雷だ。
雷に撃たれて、私はすべてがシンプルになるのを感じた。
そのまま私は橋の上から五メートル下に広がる大きな穴に躊躇なく飛び込んだ。
1.異世界への招待
質疑応答の最中、突然面接官の声が聞こえなくなって私は企業面接を早退した。
ショックのあまり、家に帰ろうという気にもなれなかった。それくらいには動揺していた。
電車にも乗らず、スーツ姿のまま家から大分遠いところにある見知らぬ町のオフィス街をふらふら歩きながら考えていた。
なぜ急に何も聞こえなくなったのか。
いや、聞こえなくなったと思い込んでいたのか。
不思議なことに、一歩企業ビルを出ると、車の音や、風の音が普通に耳に飛び込んできた。
それどころか、聞こえてなかったはずの面接官の言葉や、周りの就活生が心配してかけてくれた言葉が普通に思い出せた。実際にはちゃんと聞こえていたのだ。
私はそんなに追い詰められていたのか。最初に浮かんだのはそれだった。
耳に問題がないなら多分心因性の何かなのだろう。私の深層心理は強制的に聴覚に問題を起こすほど就活が嫌だったのか、あるいは偶然このタイミングで溜まっていた何かが弾けたのか。
自分がそんなことになってるなんて全然気づいていなかった。
客観的に見て自分は恵まれていると思う。両親は健在で、仲も悪くはない。経済的にも貧しくなく、高校大学と親に私立に通わせてもらい、これといっていじめられたこともなく学校生活もそれなりに上手くやっていたと思う。顔も悲観するほど悪くないし、小柄で貧相な体つきだが健康だった。
心当たりがあるとすれば、休日にまで会うほど仲のいい交友関係がないことくらいだろうか。
それが頭に浮かんだとたん、なぜかぴたりと足が止まった。
まさかそれなのか。
最近流行ってる孤独に趣味を謳歌する系コンテンツを見て、こういうのが流行るってことはやっぱり一定数こういう人はいて、多分私もそれなんだろうなと思っていた。実際読書や映画鑑賞はまあまあ好きだし、昨日だって珍しく一人で映画館に映画を見に行った。でもその帰り道で……
「道に迷っているのですが? お嬢さん」
後ろから声をかけられて我に返ると、オフィスビルに渡された歩道橋のような場所だった。眼下に広がる道路にはほとんど車も通っていない。面接会場からも駅からも大分離れた場所のようだ。周囲はもうすっかり暗い。
こんな時間までゾンビのようにさまよい続けていたのか。道行く人に心配されるのも当然だ。謝罪をしようと慌てて振り返る。
「――そう、貴女はまさに運命の迷い人! 違いますか?」
違った。怪しい人だった。
振り向いた先には筋骨隆々の男が立っていた。小柄な自分では仰け反るように見上げなければならないほどの長身に、サーファーのように日焼けした肌。彫像のように整った目鼻立ち。バーテンダーを彷彿とさせるぴっちりしたベストを着こなし、だが頭には異様に目立つ大きな金色のシルクハットをかぶっている。そんな男が、先ほどの胡散臭いセリフとは不似合いなほど爽やかな笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
やばい関わりたくない。
「すみませんご心配をおかけしました。もう大丈夫ですありがとうございます」
最低限失礼に聞こえないように言って踵を返した。
「よろしいのですか? 運命の相手への道が閉ざされても」
後ろからわけのわからないことを言ってくるが、さすがにこれ以上付き合う必要はないだろう。
「この世界にはないその運命を手放しても」
かんっ、と乾いた音がした。
足元を見ると、自分の足が再び止まっていた。
馬鹿げてる。こんなのカモだ。立ち止まった時点で負けだ。常識だ。ほんと馬鹿。
でもなぜだか無視できなかった。「この世界にはない」というその言葉が。
今思い返せば昨日の時点でもう私の中の何かは弾けていた。
これまで映画館に行くのは、どうしてもすぐに見たい映画がある時だけだった。たいていの映画は少し待ってから配信やレンタルで見る。なのに昨日私は、「映画館で映画が見たくて」映画館に行ったのだ。
あえて普段見るような映画とは少しジャンルの違う映画を選んで観てみた。人気があるだけあって夢中になるほどではないがそこそこ楽しめた。
帰り道、なんとなくもやもやして一人で流行りのカフェに寄った。そこに、なぜだか妙に気になる二人組がいた。
それは男子中学生二人組で、ただ単に少し値が張るそのカフェでは少々浮いて見えたせいかもしれない。騒いでいるというほどではなかったが、彼らは私と同じ映画の帰りのようで、興奮冷めやらぬ様子でとても楽しそうにしゃべっていた。その様子が妙に印象に残っている。
カップルらしき二人組や仲のよさそうな女子グループもたくさんいたけれど、印象には残らなかった。なぜあの二人組だけが気になったのか。今はそれがなんとなくわかる。簡単に言えば、あの二人が一番羨ましかったのだ。
どこかに自覚はあった。自分は一人での時間を心の底から謳歌できるタイプではない。趣味に没頭するタイプでもなければ何かに夢中になることもない。ただなんかそういう友達ができなかっただけで、一人になりたくて一人になってる人とは違うんだと。
あんな風に、何も知らない私から見ても心の底から楽しそうに話している二人が、自分の中のどこかにあった憧れの交友関係に近かったんだろう。そして学校生活というものがほぼすべて終わった私は確信めいて感じてしまったのだ。
私があんな風に話せる相手は、きっとこの世界のどこにもいないんだろうな、と。
「貴女の運命はこの世界のどこにもない」
その男は私が思ったことをぎょっとするほど正確に言い当てた。
「振り返りましたね。貴女も感じていたのでしょう。その予感を」
「……運命って、何のことですか?」
「貴女が真に欲するものです」
少しだけ頭が冷める。バーナム効果とかいうんだったか。結局この男もただそれっぽいことを言ってカモを呼び止めただけなのかもしれない。これから始まるのは占いだろうか。
だが男はそんな私の表情を見て、ここぞとばかりに笑みを深めた。
「では具体的に言いましょう。それはこの橋の下にあります」
「えっ」
急に具体的になった。というか物理的な指定だった。てっきり幸福とか白馬の王子様とかそういう答えが帰ってくるものとばかり思っていた。
「こういうのは実際見ていただくほうが早いでしょう」
男が指し示すままに橋の下を見下ろす。だが何もない。
いや待て。
「お気づきになりましたか?」
「なんなの、あれ」
暗くて見えないのではない。“何もない”場所が“ある”。
それはいうなれば闇そのもの。
直径3メートルほどの穴が、橋と道路の間の空間に浮かんでいた。
「種明かしをしてしまえば、僕は貴女の心などわからないし、占い師でもありません」
「えっ、じゃあ何で」
「逆なのです、お嬢さん。ここには来られるのは、貴女のような『この世界に運命を持たない者』だけなのです。気づきませんか? 誰もいない、何の音もしない。ここには僕と貴女しかいない」
いわれて気づく。男がしゃべっていたせいで気づかなかったが、見渡す限り車も人も見つからない。そんな寂れた場所ではないはずなのに。
ひょっとしたら面接中もこれに近いことが起きていたのだろうか。
その瞬間、夜空が急に金色に輝いた。雲を裂き、今まで見たことのない金色の月光が真っ黒な穴へと降り注ぐ。
「この『金色の時』は貴女をこの場、この時に招いたのです。この世界ではなく、向こう側の運命に導かれる者を!」
月光に照らされた穴の内側には、広大な景色が広がっていた。
色鮮やかな世界が。
「稀にしか開かぬゲート。それが開くとき、必ず僕は呼び出される。そして必ず誰かが居合わせる。見えますか。向こう側にあるもう一つの世界が!」
男が言う前に確信していた。向こう側は別の世界なのだと。何よりも「色」がそれを雄弁に語っていた。
草木の色。水の色。見知ったものと近い、しかし確実に違う色。特に目を奪われるのは空。少し金色がかって見える色。
「誰かを受け入れるために開いたゲートは、次の満月にもう一度『貴女のためにだけ』開きます。その間にじっくりとお考え下さい」
向こう側の風景は次々と移り変わっていった。
人間の何倍もある巨大な鳥。シロップのようにドロッとした川。意外と近代的なつくりの町。そしてそこに住む全く違う文化であることを感じさせる人々。
「決して強制は致しません。そう簡単に帰れる場所ではないのです。ですがもしご決心を固められたなら、僕はあらゆる協力を惜しまないでしょう」
そしてゲートのふちがゆっくりと中心に向かって閉じていく。恐らく金色の時とやらが終わるのだ。次の満月。私はまたここに来るのだろうか。
閉じ行く穴から見える町の人々を眺めながら、私はまったく未知の体験にどう反応していいのか全く分からずにいた。
ふと、こちらを向いている人影に気づいた。一人大きく上を向いている少女だ。向こう側からもこの穴は見えているのだろうか。空に突然穴が開いたように見えるのだろうか。
その視線が一瞬、でも確かに、穴の逆側にいる私と交差した。
空の色を映したような金色の瞳。
その瞬間、私の中の何かが吹っ飛んだ。
「突然こんな話をされて悩まれることでしょう。ですが貴女の運命は、――!?」
次の瞬間にはもう手すりを乗り越えて空中に身を躍らせていた。男が何かを言っていたが、そんなのはもう耳に入っていなかった。
私の好きな映画でこんなセリフがあった。「恋ってのは雷に撃たれるのと同じさ!」
今わかった。恋かどうかは知らない。でもこれは雷だ。
焼き尽くされて、何もかもがシンプルになる。
私は橋の上から五メートル下に広がる大きな穴に躊躇なく飛び込んだ。
頭にあるのはただあの金色の瞳のことだけ。
後先なんて、これっぽっちも考えなかった。