第48話 森辺・十四条・軽海の戦い(後編)
墨俣砦を拠点とし、織田信長は西美濃一帯に放火して回った。
緒戦の勝利を見せつけて、周辺の地侍らが寝返ってくるのを期待するとともに、挑発して敵軍の出撃をうながし、さらなる合戦で撃破しようと考えたのだ。
また、一部の兵を墨俣砦の北にやり、いくつかの村や砦を固め、北の稲葉山城から来る敵軍に備えた。
永禄4年(1561年)5月23日早朝、墨俣砦へ次々と敵軍出撃の報が入ってきた。
稲葉山城下の井口の町を出た敵が十四条村というところに集結していると言う。
「出陣!」
信長の号令のもと、俺たち信長軍も墨俣砦を出て北西2里半(約6km)ほどに位置する十四条村へ向かった。
1刻(2時間)ばかりの行軍の後に目的地へたどり着くと、明らかにこちらよりも多い軍勢が待ち受けていた。
敵軍はこちらの姿を認めると、たちまち応戦のかまえを見せ、足軽部隊を前進させてきた。
遠目にもその士気の高さがうかがえ、俺は苦戦を覚悟した。
矢戦もそこそこに始まった戦いは、すぐ乱戦状態となった。
いくら信長軍が精強とは言え、作戦が始まって10日以上経ち、さすがに目に見えない疲労がたまっていた。
そんななかで倍近い敵と戦うのだ。
案の定、両軍が入り乱れて戦ううち、押されていた信長軍の一部が突き崩され、そこから形勢が不利となった。
「勘解由左衛門様がお討ち死に遊ばしました!」
本陣に飛び込んできた伝令により、織田勘解由左衛門広良が戦死したことが明らかとなった。
広良は犬山城主・織田信清(瑞雲庵)の弟であり、犬山衆の大将として今回の戦に参戦していた。
彼が討たれたとなると、統制を失った犬山衆は総崩れとなるだろう。
実際、敵に突き崩された軍勢こそ、犬山衆だった。
「であるか。是非もなし。全軍、軽海へ退くよう伝えよ!」
ついに信長の命令が発せられ、信長軍は敵の意表をついて南ではなく西へ向かってゆっくりと後退し始めた。
十四条村から西へ半里(約2km)離れた西軽海村は織田軍の手中に確保されているため、一旦そちらへ退却して軍を立て直そうというのだ。
信長は自ら戦場を駆け回って状況を把握しつつ撤退を指揮し、何とか西軽海村までたどり着いて兵をまとめた。
古い神社の建物を後ろにあてて東向きに陣取り、敵を迎え撃つ姿勢を示した。
信長の戦意はまったく衰えていなかった。
一方、追ってきた敵軍は北軽海に進出し、西向きに陣を取った。
今川軍をも打ち破った織田軍を退けたことに自信を得たか、ますます意気軒昂な様子に見えた。
両軍とも戦意は衰えない以上、戦闘がやむわけがなかった。
夕闇が徐々に辺りを包み始める頃、真木村牛介という者を先頭に押し寄せてきた一色軍に対し、信長軍も果敢に応戦した。
ウンカのように押し寄せる敵軍は俺がいる信長本陣の間近にまで迫り、俺も戦いに参加して矢を立て続けに射た。
だが、辺りがしだいに暗くなるにつれ、味方に当たるかも知れないため、矢を放てなくなった。
かわって信長の馬廻りや小姓たちが突撃し、敵の稲葉又右衛門という名の知れた武士を池田恒興と佐々成政が2人がかりで討ち取った。
完全に真っ暗になると、乱戦の度合いは増し、片や負けて逃げ去る者がいれば、槍を突き立てて向かって来る者もおり、同士討ちの危険も出てきた。
先に闇を嫌ったのは一色軍だった。
次第に駆け回る美濃兵の数が減じていき、やがて夜のうちに撤退してしまった。
それに対して、信長軍による追い討ちは行われなかった。
暗闇のなかでの戦闘継続は、同士討ちなど思わぬリスクがある。
それに何より、朝から繰り返された戦いで誰もが疲れ切り、とても追撃を行う余力などなかったのだ。
信長は兵をまとめ、夜明けまで戦場に陣をかまえた。
敵が逃げ去った以上、信長軍の勝利だった。
しかし、信長は勝ちはしたものの、得られたものは乏しかった。
自軍が負った傷は深く、得られた戦果は長良川西岸に南北に細長く伸びた、回廊状の守りにくい土地だった。
西には敵の大垣城が健在で、いつこの細い柱をへし折られるかわからない。
そして、その危惧を排除するために大垣城攻めをする余力など、もはや残されていなかった。
望んだ合戦で敵を撃破したのに、これではまるで「ピュロスの勝利」だ。
さらに悪いことには、作戦を始めて十数日で兵糧など補給も苦しくなり始めていた。
結局、信長は墨俣以北の占領地を放棄し、墨俣砦に引き上げた。
さらに砦に戻って数日後、信長にもたらされた悪い知らせは、作戦の中止を決断させるのに十分なものだった。
「犬山が背いたか。」
つい先日まで肩を並べて戦った犬山衆が美濃と通じ、信長の敵に回ったと言う。
尾張国北東部に大きな勢力を持つ犬山城主・織田信清が離反したとなると、美濃を攻めるどころではなくなる。
信長は墨俣砦や勝村の陣営などをすべて捨て、西美濃から完全に撤収した。
とても守りきれないと判断したのだ。
来たときと同じようにいくつかの大河を舟で渡り、味方の軍兵とともに帰途に着いた俺は、時折北を振り返りながら、西美濃攻めの困難さを思った。
(この大小の河川と湿地を越えて美濃へ攻め込む苦労は、並大抵のものじゃない。兵だけでなく槍や鉄砲を運ぶのにたくさんの舟が要るし、長引けば兵糧とか物資の欠乏に苦しむことになる。占領地を維持するのも大変だ。墨俣などを捨てるのは惜しいけど、信長の判断は正しいよな。ただ・・・これから、どうやって美濃を攻めていくのか・・・。)
その頃、美濃の稲葉山城では、信長の撤退が報告されていた。
野戦ではあまり振るわなかったが、信長を撤退に追い込んだのだから、美濃勢の勝利と言えた。
だが、重臣たちから報告を聞いていたのは、国主の一色義龍ではなかった。
義龍が座るべき場所には、その嫡男・龍興のまだあどけなさが残る姿があった。
義龍は病床で報告を受けた。
もはや、自力では身体を起こせないほど弱り、頬がこけた顔からは何の感情も読み取れなかった。
窪んだ目の奥の光は、以前とは比べものにならない程か細くなり、誰の目にも死病に襲われていることが明らかだった。
6月23日、一色義龍はこの世を去った。
まだ35歳でしかなかった。
後を継いだのは、わずか14歳の嫡男・龍興だ。
実父との内乱を勝ち抜き、少しずつ地盤を固めつつあった青年国主の死は、美濃国内に目に見えぬ動揺をもたらさずにはいられなかった。
そして、それは信長を利する結果につながっていくのだった。
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※森辺・十四条・軽海の戦いの経過を図解しました。
☆森辺・十四条・軽海の戦い経過図




