第40話 謀殺
織田信長の勢力が伸びるに従い、尾張周辺のパワーバランスは確実に変わりはじめました。
そのなかで、ある父子の身に最大の不幸が降りかかります。
今川義元は決断を迫られていた。
急激な織田信長の勢力拡大により、対尾張戦略の見直しを求められていたのだ。
こういう時に頼りになった、師であり宰相格の太原雪斎は、すでに5年前の弘治元年(1555年)閏10月10日に他界していた。
思えば、雪斎の死の前後から今川家の対外戦略は停滞しはじめていた。
相模の北条、甲斐の武田と三国同盟を結び、西に全力を注げる状況を作り上げたにも関わらず、三河支配は安定しなかった。
東三河では牧野家を服属させ、戸田家を叩くことで今橋城(吉田城)を拠点として支配を図った。
西三河では吉良家を傀儡化し、松平本家を事実上乗っ取る形で支配を進めた。
だが、足利将軍家ゆかりの地である三河は想像以上に治めにくい国だった。
今川家が検地を実施し、三河支配強化の動きを見せはじめると、反発した国衆たちが反旗を翻したのだ。
弘治元年(1555年)9月、足助鈴木家の反乱に始まった争乱は、ほぼ三河全域を巻き込んで拡大していった。
西条吉良家、幾つかの松平分家が今川家に背き、作手奥平家や田峯菅沼家では家中が親今川派と反今川派に分かれて内乱を始める始末だった。
足助鈴木家には美濃遠山家、西条吉良家には信長の同盟者・水野信元が援軍を出すなど、外国勢力の介入も招いた。
結局、「三河忿劇」と呼ばれるこの動乱は、今川軍により各個撃破され、今川家の支配は何とか揺るがなかった。
しかし、乱の鎮圧に丸4年を要し、その間には西の尾張に手を伸ばす余裕はまったくなかった。
そして、気がつけば信長による尾張統一が進展していたのだった。
目下のところ、今川義元が頭を悩ませているのは、尾張のある父子の処遇だった。
(やはり、他国の国衆は信用ならぬ。山口左馬助に九郎次郎。 彼奴らもいつ裏切るやもしれぬ。どうしてくれよう。)
4年にわたる三河国衆との戦いは、義元に疑心暗鬼を生じさせていた。
信長の力が強まったいま、山口左馬助教継・九郎次郎教吉が裏切る可能性は十分にあった。
実際、父子が頻繁に会っているとの報告も岡部元信から上がってきており、疑わしい要素も認められた。
ただ、確証はない。
教継はいち早く今川家に味方して笠寺を明け渡し、沓掛城や大高城を味方に引き込むなど、抜群の働きをした男だ。
切り捨てるにはいかにも惜しい。
1ヶ月近い逡巡のすえ、義元はようやく心を決めた。
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永禄3年(1560年)正月、山口教継・教吉父子は今川家の本拠・駿府にいた。
今川義元に年賀と三河平定の祝いを述べるため、はるばる尾張からやって来たのだ。
今回の駿河行きは今川家からの要請に応じたものだった。
父子で来るようにとの要望に対し、教継は素直に従った。
駿府では、連日下へもおかぬ丁重なもてなしを受けた。
これには当初多少の用心をしていた教継たちも、すっかり警戒心を解いた。
(上総介殿との戦がいつ起きるやも知れぬ。それだけ、我が家の重みが増したということじゃ!!)
教継は自分たちの存在価値が高まっているととらえ、大いに気を良くしていた。
そんななか、主君・今川義元への拝謁がかなうとの知らせがもたらされた。
当主である教継だけでなく、嫡男の教吉が今川義元に拝謁できるという。
主君に後継者のお披露目をするということは、次代についても主従の「契約」を結ぶことを意味していた。
今川家は最盛期を迎えており、山口家の安泰が約束されるというわけだ。
山口父子はわずかな供を連れ、駿府館に入った。
そして、ついに帰ることがなかった。
父子を待ち受けていたのは晴れの舞台ではなく、荒くれ者たちの無数の剣戟だったのだ。
山口父子を討ち果たすと、父子が駿河に連れて来ていた手勢や鳴海城や中村砦の城兵たちは、みな逃げ散ってしまった。
当主と後継者が一度に殺され、周囲が敵ばかりとなったのだから、無理もない。
山口家が瓦解し、空き城となった鳴海城には岡部元信が入り、城代となった。
本国から増援が送られ、大高城や沓掛城にも今川軍の将兵が入城した。
尾張南部の広い地域が今川家の直轄領に塗り替えられ、今川領は過去最大にふくれ上がった。
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山口父子の粛清により、その旧領が今川家の直轄領となったことは、間もなく清洲にも聞こえてきた。
「そうか、九郎次郎が死んだか。」
信長は一言つぶやくと、黙りこんでしまった。
(そう言えば、信長は山口九郎次郎教吉と同じタイミングで初陣を迎え、気心の知れた友人のような間柄だったと聞いたことがある。さすがにそんな親しい人間の死に、信長も悲しみを覚えているんやろうな。)
呆然としたような信長の姿を見て、俺はそんな風に感じた。
だが、そんな感傷は一時のことだったらしい。
間もなく発せられた信長の言葉に、今度は俺が呆気にとられる番だった。
「またとない好機ぞ!宿老(重臣のこと)どもを呼べ!」
(友人の死を悼むより、勢力拡大の好機ととらえる。やっぱ、戦国大名ってヤツは因果な存在やな。)
間もなく集まってきた重臣たちに対し、信長は性急に指示を出した。
「鳴海・大高の両城を取る好機ぞ!付城(敵城を攻撃するために築かれる、攻撃用の城砦)を取り立て、締め上げるのじゃ。ただちに普請にかかれ!!」
信長の命により、5つの砦が急造された。
鳴海城は台地の突端に築かれた城であり、北から東にかけては低い山となっており、西には深い田が広がっていて、海岸まで続いていた。
南には黒末川(天白川)が流れているが、河口付近であるために入江のように川幅が広い。
織田軍が砦を築いたのは、海が迫っている西以外の三方だ。
鳴海城の北20町(約2.2km)の丹下の地にあった古い館を改造し、これを丹下砦とし、水野帯刀、山口守孝、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉らを入れた。
いずれも数十人ほどの手勢しか持たない小領主であり、合わせて数百人の守兵を確保した形だ。
城の東に善照寺という廃寺があったが、その建物跡を善照寺砦に改造して佐久間信盛・信直兄弟に守らせた。
南の中洲のような地に中島という小さな村があったが、これを要塞化して中島砦とし、梶川高秀を置いた。
また、黒末川の南、鳴海城と大高城の連絡線を遮断する位置に2つの砦が設けられた。
大高城の東の丸根山に丸根砦を築いて佐久間盛重に任せ、北東の鷲津山に鷲津砦を置いて織田秀敏と飯尾定宗・尚清を配置した。
織田軍の動きに対し、尾張に駐屯する今川軍はなす術がなかった。
増強されたとは言え、尾張の今川軍単独では織田軍に戦いを挑むだけの兵力がなかったのだ。
結局のところ、山口父子の粛清は鳴海・大高周辺の地侍たちが今川家から離反するきっかけとなっていた。
あれだけ今川家のために働いた山口父子がよく分からないうちに殺されたことは、今川家への不信感を植えつけただけだった。
地元の支持を失った今川軍は、兵力不足だけでなく支配領域の縮小による物資不足にも悩まされはじめていた。
そして、織田軍による封鎖が始まったことで、完全に補給が断ち切られ、落城は時間の問題となった。
鳴海城や大高城の窮状を知った今川義元は、ついに重い腰を上げた。
もはや、武力による解決しか手は残っていなかった。
桶狭間への道が開けようとしていた。
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※鳴海・大高両城の封鎖状況を図解しました。
☆鳴海・大高両城封鎖図
ついに今川義元が尾張に向かって出陣します。
いよいよ次話は桶狭間の戦い(前編)をお届けします。




