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第37話 動揺

浮野の戦いで岩倉城の織田伊勢守家を叩きのめし、織田信長は尾張国内で押しも押されもせぬ大勢力となりました。


その急激な膨張を見て、とある親子の間で激論が交わされようとしていました。

 稲生の戦いの勝利とその後の織田信成の没落、そして浮野の戦いの大勝利。

 織田信長の急激な膨張は、近隣の敵対勢力に脅威を与えずにはおかなかった。


 ここ鳴海城で、先ほどから唾を飛ばすようにして激論している山口左馬助教継・九郎次郎教吉父子も、信長の脅威をヒシヒシと感じはじめている勢力のひとつだった。


 もう何度目だろうか。

 戸外でシビシビと降り続く梅雨の長雨に安心してか、密談とは思えぬ声量での議論が交わされていた。


「父上、このところの上総介(織田信長のこと)様の勢いは目を見張るものがありまする。岩倉が落ちれば、次は我らの番にございましょう。今のうちに上総介様につき、我が家の安泰を図るべきでございまする。」


 子で鳴海城主の教吉は、初陣を共にした仲である信長に、元々親近感を持っていた。

 7年前の「三の山・赤塚の戦い」で槍を合わせて信長軍の強さはよくわかっていたし、戦いの後に捕虜や馬を交換しあったことで、信長を気心が知れた存在ととらえていた。


 その信長が尾張国第一の勢力にのし上がった今のタイミングで、弾正忠家に復帰しようというのが教吉の考えだった。

 グズグズしていると、信長がこちらへ兵を向けてくることになる。

 そうなってから信長についても、向こうの心証は良くないし、何よりなるべく早く味方する方が自分たちを高く「売りつける」ことができるのだ。


 信長軍は現在、岩倉城の包囲作戦を実行していた。

 永禄2年(1559年)3月に始まった岩倉城攻めは1ヶ月以上経った今も継続中だった。


 浮野の戦いで大打撃を受けた岩倉軍は城外で迎え撃つことができず、信長軍が鹿垣(柵)を二重三重に結い、包囲網を作り上げていくのを指をくわえて眺めるしかなかった。

 信長は城内へ向かって火矢や鉄砲を撃ち込ませつつ、総攻撃はかけずに兵を交替させながら気長に包囲を続けていた。


 どこからも岩倉城救援の兵が来ない以上、遠からず城は落ちるだろう。

 岩倉城が落ちれば、尾張国内で信長と敵対する勢力は山口父子や服部友定ら今川に与する者たちだけとなるのだ。


「いや、弾正忠(信長の父・信秀のこと)殿の亡き後、我らは弾正忠家を離れ、今川家に忠勤を励んで参った。少々上総介殿の旗色が良いとて、再び返り忠(裏切り)をいたせば、今度は今川から攻められるわ!」


 父の教継は教吉の意見に真っ向から反対した。


 この鳴海城や教継が居城する中村砦の近くの笠寺砦には、教継が引き入れた岡部元信ら今川軍の将兵が駐屯している。

 また、今や駿河・遠江・三河の3ヶ国を支配する今川家は、万を超える軍を尾張へ送り込むだけの作戦能力を有していた。


 今川家から離反するということは、それらの攻撃を受けることを覚悟せねばならない。

 教継はその脅威の方を重く見て、今川家から離れることの不利を主張したのだ。


「しかし、今川は強大と言えど、動きは鈍く一度も尾張へ大軍を寄越したことがございませぬ。我らが上総介様に攻められても、後詰めの兵(援軍)を出してくれるか、わかったものではござらぬ。それより、いまや日の出の勢いの上総介様につくべきと申し上げておるのでござる!!」


 しばしの沈黙が流れた。

 教継は目を閉じ、様々な可能性を頭の中で思いめぐらせていた。


(割るか。)


 教継の脳裏に最初に浮かんだのは、山口家を2つに割って、それぞれが思う勢力につくという方策だった。

 これならば、最終的に織田・今川のどちらが勝っても、山口家は生き残ることができる。

 大勢力に挟まれた中小勢力が生き残る術として、昔からメジャーなやり方であった。


 だが、山口家を2つに割るということは、山口家の勢力が半減するということだ。

 当然、他家から見た山口家の価値も半分になってしまう。

 例え片方が生き残っても、半分の力となってしまった山口家ははたして安泰なのか。

 ぞんざいに扱われ、いずれすり潰されるように滅ぼされてしまうのではないか。


(やはり、家を2つに割ることはできぬ。何としても九郎次郎を説き伏せねば・・・。)


 結局、教継がたどり着いた結論は、彼が当初から主張していた今川家に属し続けるという案だった。


「九郎次郎よ。今川と織田の戦はまだ始まっておらぬ。織田につくのは上総介殿が攻め寄せ、今川が後詰めを出さぬと見定めてからでも遅くはあるまい。じゃが、笠寺には岡部殿はじめ今川勢が詰めておる。今川が援兵を出さぬとは思えぬ!」


「・・・父上のお考えはよくわかりました。ここまで議論を尽くし、当主のご意思が揺るがぬとあらば、それがしも服さざるを得ませぬ。山口の家は、こぞって今川につきましょうぞ!」


 元々が仲の良い父子だ。

 息子の教吉も家を割ってまで自説にしがみつくつもりはないようだった。

 幾日も続いた議論の結果、山口家は今まで通り今川家に属し続けることを決定した。


 互いに心のうちを洗いざらい語り合い、父子の結束は前にも増して高まった。

 だが、数度にわたる2人の密談は、思わぬ余波をもたらした。


 ……………………………………………………………


 笠寺砦の守将のひとり、岡部丹波守元信は密書を前にして腕組みをしながら考え込んでいた。


「近頃、山口父子の往来が頻繁である、か・・・。」


 ようやく梅雨が明け、広がった初夏の青空を睨むようにしながら、元信は独り言をつぶやいた。


 元信は気骨があり、才智に溢れた有能な人物で、笠寺砦の5人の守将のなかで今川義元が最も信頼する男だった。

 そのため、笠寺砦の事実上の総責任者となっていた。


 元信の眼前にある密書は、鳴海城に潜入させた細作(さいさく)(スパイ)からのものだった。

 今川家では山口父子を全面的に信用しておらず、鳴海城や中村砦には幾人もの細作を送り込んでいたし、密かに今川家に通じて情報提供をしてくる山口家家臣も何人かいた。


 そういった者たちから山口父子の動向についての情報を得ていたのだが、最近山口父子が頻繁に会っているとの情報が寄せられたのだった。


(父子が会うても何ら不思議はない。じゃが、今は織田上総介が尾張一国を併呑せんばかりの勢い。あるいは返り忠の謀議やも知れぬ。)


 元信は山口父子への監視を強めることを決め、一応主君の今川義元に報告することにした。

 そのことが、山口父子の運命を暗転させていくのだった。


 ……………………………………………………………


 6月、3ヶ月にわたる包囲の末、岩倉城が落城した。

 城主・織田信賢は降伏し、尾張国外へ追放された。

 城兵たちは散り散りとなり、岩倉城は信長によって破壊された。

 ここに織田の総本家、織田伊勢守家は滅亡した。


 尾張北部の敵を一掃し、信長はようやく南へと目を向けることができるようになった。

 それは、今川家との対決のときが近づいていることを意味していた。

史実では、山口教継・教吉父子が織田につくか今川につくかで相談した形跡はありません。


ただ、当時の大勢力に挟まれた中小勢力の実状を描きやすい立ち位置なので、あえて「教継=親今川」「教吉=親織田」として今話を創作しました。


今話のような話が実際に交わされたかはわかりませんが、彼らは知恵を絞り、何とか生き残りを図ろうとしていたはずですので。


次回は信長の初上洛です。

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