第36話 浮野の戦い
着々と勢力を固めていく信長。
ついに総本家にあたる岩倉城の織田伊勢守家との決戦に踏み切ろうとしていました。
親が子に注ぐ愛情は等しくあるべきというのが理想だが、実際は兄弟でその量に差がつくことは、ままあることだ。
それによって父子・兄弟の仲が悪化することも、またよくあること。
しかし、その父子・兄弟が尾張守護代、織田総本家である織田伊勢守家ともなると、ただの家庭問題に収まらず、国を揺るがす大問題となってしまうのだった。
岩倉城主・織田信安とその嫡男・織田信賢の仲は、年々悪化の一途をたどっていた。
信安は信賢の弟・信家を可愛がり、信賢を疎んじるようになっていたのだ。
そして、可愛がるあまり信賢を廃嫡し、信家を後継ぎにしようとした。
こうなると、信賢も黙ってはいられない。
やられるのを座して待つよりは、と先手を打って挙兵し、父・信安と弟・信家を追放してしまった。
信安は先年美濃の一色義龍と手を結び、信長と敵対し始めてから信長との戦いに敗れ、同盟した末盛城主・織田信成が没落するなど、外交面で失策が続いていた。
そのため、家中での指導力に翳りが見えており、信賢のクーデターはいとも簡単に成功した。
戦国の世、家の乱れは他家にとって絶好のチャンスでもある。
岩倉城の内紛を知り、自勢力の拡大の機会と見て動き出した者がいた。
岩倉城の南方に位置する清洲城主・織田信長だった。
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永禄元年(1558年)7月上旬、信長は清洲城に犬山城主・織田信清の使者を迎えていた。
岩倉城への出兵にあたり、信長は信清に対して援軍を求めていたのだが、その返答を持った使者がやって来たのだ。
「そうか、下野守(織田信清のこと)殿は加勢いただけるか!」
「はっ。上総介(信長のこと)様によしなにとのことにございまする。」
「であるか。では、下野守殿にお伝え願いたい。我が軍はただちに出陣の支度にかかり、浮野へ押し出す。犬山衆も浮野へお出まし願う、と。」
「は!?・・・はっ。わかり申した。ただちに馳せ帰り、我が主に伝えまする。」
使者を労い、送り出したあと、信長は喜色を顔全体にあらわし、白い歯を見せた。
叔父の織田信光の死後、信長は直属軍のみでの戦いを強いられてきた。
使える戦力は僅かに1千人前後に過ぎず、周囲の同族たちはほとんどが敵に回り、常に優勢な敵に対して困難な戦いの連続だった。
そんななか、勝ち続けることでようやく勢力を固め、積極的に攻勢に出ることができるようになっただけでなく、再び強力な味方を得ることができたのだ。
犬山城の織田信清は信長の父・信秀の弟・信康の嫡男であり、信長の従兄弟にあたる。
また、信清は晩年の信秀と戦ったことがあり、和解のため信長の姉を正室(正夫人)に迎えていた。
つまり、信清は信長にとって従兄弟であり、義兄であるという濃い関係にあった。
だが、信清も信長に敵対こそしなかったが、これまで味方とは言い難い存在だった。
弾正忠家内部の信長と信成の兄弟争いの際には、中立の立場を崩さなかった。
信長が信成を排除し、弾正忠家を統一してはじめて、信清は信長と手を結ぶことにしたのだ。
信清は岩倉城の織田伊勢守家の家臣筋の家だが、伊勢守家と所領をめぐって争っており、信長の誘いは願ってもないことだった。
7月12日早朝、信長は1千数百の兵を率い、清洲城を出て五条川沿いに北上した。
そして、進路をやや西にとり、岩倉城南方に設けられた幾つかの砦や川、湿地帯を迂回しつつ浮野へと出た。
これを知った岩倉城主・織田信賢はただちに応戦を決意し、何とかかき集めた3千の兵を率い、悠々とした足取りで出撃してきた。
岩倉軍が押し出してきたのを見て、信長も攻撃を即断した。
午の刻(正午ごろ)、信長軍は一斉に矢を射かけたあと、足軽衆を先頭に立てて攻撃を開始した。
わざわざ足場の良い浮野を戦場に選び、野戦を挑んだだけあって、信長は自軍の戦闘力に自信を持っていた。
信長の足軽衆が3間半(約6.4m)の槍を揃え、一斉に突き入ると、岩倉軍の前衛を押し込むことに成功した。
だが、岩倉軍は信長軍より数が多く、容易に突き崩すことはできなかった。
また、岩倉軍の主将・織田信賢も声を涸らしての必死の指揮もあり、数刻(数時間。1刻は2時間。)に渡って激戦が続いた。
信賢にとって、これは負けられない戦いだった。
何しろ、クーデターによる当主就任後初めての戦いとなる。
この戦いに勝てば新当主としての地位を固めることができるが、負ければ正統な手続きを踏んでいないだけに当主の座が危うくなる。
だからこそ、信賢も必死だったのだ。
戦場を照らす日が西に傾き、夏の長い昼空に少しずつ赤みが加わり出した頃、北西に土煙がたなびき始めた。
それははじめ僅かなたなびきに過ぎなかったが、それは少しずつ大きくなり、やがて犬山軍の形をとって急速に浮野へと近づいてきた。
勝敗はその一瞬で決した。
岩倉軍の右後方から接近した犬山軍1千は、急きょ向きを変えて迎撃に出た岩倉軍の一隊を蹴散らし、そのまま突入した。
退路を絶つように進んできた犬山軍の存在は、岩倉軍を一瞬で恐慌に陥れた。
岩倉軍は総崩れとなり、岩倉城目指して逃げ出しはじめた。
しかし、前後から挟撃された岩倉軍の逃げ場は限られていた。
脱出路を探して右往左往するうち、多くの将兵が討たれた。
何とか血路をひらいて逃げ延びた兵たちも、点在する小川や湿地の手前で追いつかれ、次々に命を落とした。
岩倉軍の中に、浅野村の林弥七郎という者がいた。
有名な弓の使い手で、愛用の弓を抱えて退却の途上にあった。
「待たれよ、林殿。待たれよ!」
弥七郎の背中へ聞き覚えのある声がかけられた。
振り返ってみると、旧知の仲の橋本一巴という者だった。
この男、鉄砲の名手で信長の鉄砲の師まで務める、これまた有名人だ。
「橋本殿か。旧知の者とて、助けることはせぬぞ!」
追われる身でありながら、弥七郎はなお余裕を見せた。
「心得ておるわ。」
友の豪胆さに苦笑しつつ、一巴は弾丸を2つ同時に込めた鉄砲を肩に当てて撃った。
暴発したら自分が即死する荒技をやってのける一巴もまた、豪胆な男だ。
放たれた弾丸は狙い過たず、弥七郎を撃ち倒した。
だが、同時に一巴も倒れ伏していた。
ほとんど同時に弥七郎が、4寸(約12cm)もある特殊な
「あいか」という矢尻をつけた矢を放ち、一巴の脇の下を深々と射抜いたからだった。
2人の勝負ならば、相打ちによる引き分けだ。
しかし、ここは戦場であり、かたや負けて逃げ崩れる軍、もう片方は勝った勢いでどんどん追撃をかけている軍であった。
一巴は近くにいた味方に収容・後送されたが、弥七郎には過酷な運命が待っていた。
弥七郎が倒れるのを見た信長の小姓・佐脇良之が走り寄り、その首を取ろうとした。
重傷を負った弥七郎は最早立ち上がることもできず、それでも太刀を引き抜き、良之の左の肘を小手ごと斬った。
良之は負傷にも挫けず、弥七郎に飛びかかり、ついにその首を挙げた。
だが、最期まで戦い抜いた、林弥七郎の弓・太刀の働きは敵の信長軍からも賞賛された。
こうして、「浮野の戦い」は信長・犬山連合軍の大勝利に終わり、自軍の損害も多かったことから信長は岩倉城攻めは行わず、その日のうちに清洲城に帰還した。
翌日首実験が行われ、1250余というかつてない数の敵兵を討ち取ったことが明らかとなった。
この戦果により、負けた岩倉城の織田伊勢守家の衰退は決定的となった。
一方、勝った信長は誰の目にも明らかに尾張随一の実力者となった。
斎藤道三・織田信光ら強力な味方を失って後に訪れた苦境を脱し、信長の目はようやく他国へと向けられはじめた。




