第32話 稲生の戦い
いよいよ兄弟対決が避けられなくなり、信長も名塚に砦を築いて備えました。
早くもその翌日、達成方の動きがありました。
弘治2年(1556年)8月23日。
この日は雨が降り続き、庄内川の水かさがいつもよりもかなり増えていた。
清洲から川を渡って来ることは不可能に思われた。
また、昨日始まったばかりの名塚砦の築城は、まだ完了していない可能性が濃厚だ。
攻撃するには名塚砦が孤立している今しかない。
達成方はそう考えたのだろう。
末森城から柴田勝家率いる兵1千あまり、那古野城から林美作守率いる7百あまりが示し合わせて名塚目指して出撃した。
翌24日、知らせを受けた信長は清洲城を出て、庄内川を渡り、名塚砦の佐久間盛重と合流した。
俺たち信長軍は盛重の兵を合わせても7百に満たず、達成方の半分以下の劣勢だった。
だが、戦いは単純な兵数の差によって全てが決まるわけではない。
時には兵の質、将の質によって劣勢をひっくり返すことも珍しくない。
その点、信長軍は信長とともに数年間転戦し、経験と結束力を積み重ねた精鋭揃いだった。
そして、大将の信長は若年ながら素質と経験に恵まれた指揮官だった。
番狂わせを起こすのに、十分な条件は揃っていた。
信長は物見の知らせにより、達成軍が大きく二手に分かれ、合流していないことを知った。
すかさず、信長は開戦を決意し、名塚砦を出た。
俺たちは稲生村の村はずれから東に6〜7段(約65〜76m)のところにある薮の辺りまで進み、陣取った。
馬は村にまとめてつなぎ、みな歩兵となっていた。
「まずは、東南より寄せてくる勝家を迎え撃つ。」
午の刻(正午頃)、信長は半数以上の兵を投入し、街道を西向きに攻め寄せてきた勝家軍前衛の足軽衆を攻撃した。
勝家軍はこちらの倍以上の兵力だ。
たちまち激戦となったが、野外での接近戦となれば槍の長いこちらに分がある。
敵の足軽衆を蹴散らし、勝家の本隊と槍を交えた。
だが、勝家の旗本衆は強く、容易に崩れそうにない。
「ここはよい。そちらも参れ!」
勝家軍との戦いに時間を取られすぎると、いつ南の林軍が戦場にあらわれるかもしれない。
信長の命により、俺たち親衛隊も戦場に投入されることになった。
戦闘は熾烈さを増した。
揉み合いのなか、真っ先に進み勝家に切りかかったのは山田治部左衛門だ。
彼は信長の側近だが、先年の守山城への進軍の際、馬が途中で倒れ、信長について行くことができないという失態を犯していた。
名誉挽回のため、武功を立てようと意気込んでいたのだ。
「そちらにおわすは、柴田権六郎様とお見受けいたす。いざ、勝負!」
「おう!」
ついに治部左衛門は敵の総大将・柴田勝家を発見し、戦いを挑んだ。
治部左衛門は武芸に秀でていた。
槍をつけることができれば、勝家を討ち取る自信があった。
実際、治部左衛門の槍筋は鋭く、勝家に手傷を負わせた。
しかし、勝家も腕一本で今の地位にのし上がった男だ。
出血や痛みに怯むことなく、治部左衛門に反撃し、ついにこれを討ち取ってしまった。
また、数の多少は如何ともし難く、佐々孫介ら信長軍の屈強な者たちが幾人も討たれ、しだいに押され始めた。
俺も後方から矢を射て支援していたが、味方の混乱に巻き込まれ、ついに本陣へ後退を余儀なくされた。
親衛隊を投入した結果、本陣には織田勝左衛門、織田信房、森可成らとともに槍持ちの中間衆40人ほどしか残されていなかった。
「ぬうっ、ここは耐えよ。まだ美作守の兵は攻めて来ぬ。勝家を退ければ、勝機はある!!」
信長は逃げ崩れてきた兵たちを叱咤激励し、勝家軍の反撃に備えさせた。
やがて、土田の大原という剛の者を先頭に勝家軍が押し寄せてきた。
これに対し、信房と可成が二人掛かりで立ち向かい、大原を突き伏せた。
出鼻はくじいた。
だが、勝家軍はこちらより大勢でなおも迫って来る。
「下郎ども、下がれ!!」
突然、大声が鳴り響いた。
信長が目を怒らせ、勝家軍の兵たちを怒鳴りつけたのだった。
敵とは言え、信長は主筋にあたる。
その威光は絶大だった。
勝家軍の歩みがピタリと止まり、ついには誰ともなく逃げ出しはじめ、総崩れとなった。
攻守がたちまち逆転し、踏みとどまった河辺平四郎という勝家軍の名のある武士が、禅門という信房の下人に討たれた。
「殿、かの首をお取り召され。」
「禅門、今はさような暇はない。捨ておけ、捨ておけ。」
禅門は信房に河辺の首を献じようとしたが、信房は先を急ぐからと断り、なおも逃げる勝家軍を追った。
(信長のオーラがすごいのか、それとも勝家軍がだらしないのか・・・。)
はたから見ていると、突然の攻守の転換は、やや拍子抜けする光景だった。
後から知ったことだが、治部左衛門が負わせた勝家の傷は意外に深く、後退を余儀なくされていたらしい。
指揮官がいなくなり、部隊の取りまとめができる者がいなかったことも、突然の敗走に大きく響いたようだ。
山田治部左衛門の命をかけた奮戦のおかげだが、やはり信長という男はすこぶる運が強い。
「みな、良くやった。我らの勝利ぞ!」
「おうっ!!」
信長の声に、周囲の兵たちが大声で応える。
傷ついた者も多いが、その士気はまだまだ高い。
「次は南の林美作守らを血祭りにあげようぞ!みな、奮え!!」
「おうっー!!」
信長の檄に、さらに大きな声がこだまする。
そこには傷だらけのみすぼらしさはなく、勇猛果敢な戦士だけが存在していた。
俺たち信長軍はその勢いのまま、林軍に攻めかかった。
一戦交え、傷つき疲れのたまったこちらに対し、向こうはフレッシュな状態だ。
俺は苦戦を覚悟したが、意外にも林軍はもろかった。
勝家軍が敗退したことで、林軍内部には動揺が広がっていたらしい。
それに、那古野城はつい先頃まで信長の勢力下にあり、信長とゆかりのある者も多い。
元々戦意に欠ける者も多かったのだろう。
多くの敵兵が逃げ崩れ、元々の林美作守の手勢だけが残された。
こうなると、俄然こちらが優勢となった。
信長近臣の黒田半平がついに林美作守に迫り、長時間に渡って切り結んだ。
美作守は手強く、半平は左手を切り落とされる重傷を負った。
互いに死力を尽くして戦い、大きく肩で息をしていた。
「謀叛人めが、覚悟いたせ!!」
そこへ横合いから槍を構えて突っ込んで来たのは、総大将の信長だった。
疲労困憊の美作守をたちまち突き伏せ、トドメを刺した。
主を討たせまいとして撃ちかかってきた美作守の家来を、たまたま近くにいた織田勝左衛門の下人、口中杉若という者が討ち果たし、信長を守った。
信長はこれを賞し、のちに取り立てて杉左衛門尉と名乗らせた。
美作守の死により、戦の勝敗は決した。
信長軍の面々は馬をつないであるところまで駆け戻り、馬上の人となると、速力を活かして追撃に移った。
この追撃戦で勝家軍や林軍の名だたる武士の多くを討ち取った。
その日は清洲に帰還し、翌日首実験が行われた。
戦果は驚くべきもので、得られた首級は450を超えた。
その中には名のある者も多数含まれていた。
信長が討ち取った林美作守をはじめ、津田左馬丞が討ち取った鎌田助丞、高畠三右衛門が討ち取った富野左京進、木全六郎三郎が討ち取った山口又次郎、佐久間盛重が討ち取った橋本十蔵、松浦亀介が討ち取った角田新五、そのほかに大脇虎蔵、河辺平四郎など。
誰の目にも明らかな「稲生の戦い」の圧勝により、信長を取り巻く環境は一変した。
実力者・角田新五の戦死により、守山城主・織田信次は呪縛から解き放たれ、信長勢力に復帰した。
大打撃を受けた織田達成軍は末盛城と那古野城への逼塞を強いられ、信長軍がたびたび攻め寄せて町を焼き払うなどしても、迎撃に出ることができなくなった。
もはや達成方の劣勢は覆うべくもなかった。
この状況で動いたのが、末盛城で達成と同居する信長・達成兄弟の実母・土田御前だ。
彼女は清洲城から旧知の村井貞勝と島田秀満を呼び寄せ、彼らを仲立ちにして信長に詫びを入れた。
実母に頭を下げられては、信長も許さざるを得ない。
だが、達成は改悛を示すために改名せざるを得なくなり、弾正忠の受領名も捨てて、「織田勘十郎信成」と名乗ることになった。
その上で信成は重臣の柴田勝家と津々木蔵人を連れ、各々墨染めの衣を身にまとい、土田御前とともに清洲城に礼を述べに来た。
また、那古野城の林秀貞も屈服した。
信長にとっては、最も許し難い男である。
何しろ自分の家老だったのに、裏切って弟側に走ったのだ。
秀貞は己の罪を詫びたのち、先日那古野城に信長が異母兄の信時とともに訪れた際、林美作守に詰め腹を切らせるよう迫られたが、断ったことを覚悟を決めて打ち明けた。
信長は当時の状況を思い出し、秀貞に信長を害する気持ちがなかったことに思い至り、罪を許した。
これにより、表だって織田弾正忠家のなかで信長に敵対する者はいなくなった。
しかし、まだまだその地位は安泰ではなかった。




