第29話 骨肉
不穏な空気に包まれる織田弾正忠家。
だが、導火線に先に火がついたのは、隣国の美濃・斎藤家の方でした。
弘治2年(1556年)4月18日、斎藤道三は鶴山に陣を取り、稲葉山城を視野に収められるところまで兵を進めた。
鶴山はそれほど高い山ではないが、一色義龍の稲葉山城の北1里半(約6km)に位置し、稲葉山城や美濃国中央の平野部を一望することができた。
表面上活発に見える道三軍だが、内情はそれに比して相当苦しいものだった。
ここ5ヶ月あまり、道三は必死に檄を飛ばして味方をかき集めようとしたが、その人気のなさが災いして、思うように兵が集まらなかった。
何とか動員できたのは2千をようやく越える程度であり、かつて美濃国主として絶大な権力を振るった面影はなく、せいぜい有力国衆レベルの兵力でしかない。
また、鶴山は南に鳥羽川が流れていて防衛に使えるとは言え、所詮は小さな山だ。
多数をたのんで取り囲まれれば、とても持ちこたえられるものではない。
結局のところ、道三はジリ貧になることを恐れ、秘かに娘婿の織田信長に密使を送って援軍を求め、義龍軍を挟み撃ちにする作戦を立てたのだ。
その上で大いに気勢をあげ、自軍の優勢を演出して敵陣営の切り崩しや日和見的な国衆の取り込みを狙った。
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「又介、これを見よ。」
「は・・・?よろしいので!?」
信長が俺に渡してきたのは、斎藤道三から届いた書状だった。
「史官」という俺の立場を考えてか、信長は機密文書にあたるものをたまに見せてくれる。
俺の意見を求められることもあるし、多少は信頼を得つつあるようだ。
信長の実像を探るという俺の目的から見れば、これは好都合な展開だ。
美濃国と言えば、国内に戦雲が漂いはじめ、このところ清洲へ北からやって来る旅人や商人などがめっきり減っていた。
道三陣営も義龍陣営もしきりに兵を集めているとの風聞が流れていた。
(何の手紙かわからんけど・・・たぶん、援軍を求める内容やろうな。どれどれ・・・えっ!?)
確かに援軍を求めてはいたが、それ以上に目を奪われた箇所があった。
(婿殿に美濃一国進上!?これって有名な「国譲り状」やんか!!けど・・・援軍の見返りに国を丸ごと差し出したりしたら、道三は領国なくなるやん!!自分の領地すべて差し出して、他国の軍隊を導入してでも、息子を倒したいんか・・・。骨肉の争いってのはホンマに恐ろしいな。)
「美濃をくれると言うぞ!義父殿を助けねばなるまい。」
(現金なもんやな。ま、経営者としては当たり前か。見返りもなしに兵隊動かせんわな。)
信長はただちに陣触れを行い、7,8百の兵と数百の小者(非戦闘員)から成る1千数百の軍を率い、木曽川や飛騨川の本流や支流をいくつも舟で渡って美濃国へ侵入した。
そして、木曽川の西岸、清洲の北西4里半(約18km)のところにある、大良の戸島・東蔵坊という寺に本陣を据えた。
ここは一色義龍の居城・稲葉山城の南3里半(約14km)に位置し、半日たらずで稲葉山城に迫ることができる。
もちろん、敵の妨害がなければ、であるが。
大河・木曽川を渡ったことで、退却には苦労することになるが、信長はリスクを取って進撃することを選んだ。
そして、大良を要塞化したうえで拠点とし、情報を集めてから、更なる進撃を狙っていた。
この点、信長は大胆さと細心さを程良く持ち合わせた指揮官だった。
だが、義龍の将才は道三と信長の共闘を許さなかった。
4月20日辰の刻(午前8時ごろ)、義龍軍は稲葉山城を出て北西に向かい、長良川南岸を目指した。
万に迫る数にふくれあがった義龍軍は、二手に分かれて対処できるだけの戦力的ゆとりがあった。
信長軍に対する備えは残しつつ、道三軍の倍以上の兵を道三が陣を張る鶴山へと向けたのだった。
これに対し、道三も全軍を率いて長良川の北岸に押し出した。
明らかな数的不利にも関わらず、道三が積極的に打って出たのは、鶴山の防衛力に不安があったこと、守勢に立てば寄せ集めの味方に動揺が走る恐れがあったためだ。
戦を仕掛けたのは、義龍軍の先鋒・竹腰重直率いる6百だった。
ひとかたまりになって中の渡しと呼ばれる浅瀬を渡り、道三の旗本に切り込んだ。
たちまち乱戦となったが、道三の旗本は強く竹腰勢を蹴散らし、重直をも討ち取ってしまった。
「でかしたぞ!こうも幸先よく敵将を討ち取れるとはのう。」
幸先のよい勝利に道三は満足したようで、床几に腰掛け、母衣(矢や石を防ぐために風船のようにふくらませた衣)を揺すって哄笑した。
だが、戦いはまだ始まったばかりだった。
今度は新手を率いて義龍が直率する本軍が川を渡り、道三軍に迫った。
両軍が陣を整え、戦機をうかがっていると、義龍軍の中から一騎の騎馬武者が進み出た。
長屋甚右衛門という者で、豪胆にも一騎討ちを挑んだのだ。
これに対し、道三軍からは柴田角内という者が応じ、両軍の真ん中で戦いが始まった。
激しい取っ組み合いの末に勝ったのは、柴田角内だった。
味方の勇姿に道三軍は雄叫びをあげ、義龍軍の矢に怯むことなく、突撃を敢行した。
義龍軍も受けて立ち、そこかしこで接近戦が繰り広げられた。
だが、開けた河原では兵の数が物をいう。
いくら道三軍が精強を誇っても、兵力は義龍軍の半数以下でしかない。
しだいに道三軍の兵は討ち減らされていき、やがて道三の本陣にも義龍軍が押し寄せた。
遂に道三の周囲を守る旗本もほとんど討たれ、道三は自ら太刀をとって戦った。
真っ先に迫ってきた長井忠左衛門に太刀を打ち下ろしたが、忠左衛門はこれを受け止め、押し上げて組みついた。
忠左衛門は道三を討ち取るのではなく、生け捕りを狙ったのだ。
しかし、そこへ走り寄ってきた小真木源太という荒武者が道三の脛を切り払い、体勢を崩した道三を押し倒し、首級を挙げた。
怒ったのは長井忠左衛門だ。
自分の獲物を横から掻っ攫われたのだから、無理もない。
せめて自分の手柄を主張しようと、道三の鼻を切って証拠とした。
勝った義龍は道三をはじめとして首実験を済ませ、勝ち鬨をあげると、すぐさま南へと馬首を向けた。
かえす刀で信長軍の撃破に動いたのだった。
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義龍軍の南下の知らせは、物見(偵察)によってただちに信長にも伝えられた。
信長はただちに野戦による迎撃を決意した。
大良の本陣から出撃し、北へ30町(約3.3km)ほど離れたおよび河原という場所で義龍軍と遭遇した。
両軍とも戦意は高く、たちまち戦闘態勢を整えた。
ひとしきり矢や石つぶてによる応戦が続いたあと、足軽衆同士の激突となった。
近接戦ともなると、俺たち信長軍の槍の長さは有利に働く。
正面きってのぶつかり合いでは、相手を圧倒した。
しかし、義龍軍はこちらよりはるかに多く、側面に回り込んで攻撃してくる部隊があらわれ、苦戦を強いられた。
このため、こちらの被害もじわじわと増えていく。
山口取手介や土方彦三郎らが討ち死にし、騎馬で突撃を敢行した森可成は千石又一という者と馬上で切り結び、膝の辺りを斬られて引き下がった。
激戦のさなか、信長のもとにひとりの物見が駆け込んできた。
「斎藤山城入道(道三)様、討ち死に遊ばされた由にございまする!」
「・・・であるか。やむを得ぬ、退こう。」
援軍の立場である以上、道三が死んでしまうと、もはや戦う意味がなくなる。
信長は即座に撤退を決意し、一旦大良の本陣に引き上げた。
大良から尾張に撤退するためには、木曽川など川を船で渡らねばならない。
「殿(最後尾)は信長が引き受けた!」
信長は兵や牛馬などを先に後送させ、自分の舟一艘のみを残した。
撤退戦では、敵の追撃を食い止める最後尾の働きが重要だ。
ここが崩れなければ、被害を最小限に食い止められる。
その大事な役割を、信長は自ら務めようと言うのだった。
何とか信長軍の大良からの撤退が完了した直後、義龍軍の騎馬武者が数騎、河原へと姿を現した。
恐らく敵の先鋒だろう。
「放てっ!!」
信長の合図で数挺の鉄砲が火を噴き、敵は慌てて後退していく。
それを悠々と見ながら、信長は帰還の命令を告げた。
一方、信長軍の撤退成功の報告を受けた一色義龍は、わずかに悔しげな表情を見せた。
思いのほか信長軍は強く、どうも勝てたという気があまりしない。
だが、それも一瞬のことだった。
「まぁ良いわ。かの者の周囲は敵ばかりじゃ。せいぜい奔走させるとしようぞ!」
義龍は、不敵で自信に満ちた表情を浮かべた。
信長にとって、隣国に強力なライバルが出現した瞬間だった。
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※長良川の戦いの見取り図を追記しました。
☆長良川の戦い見取り図




