第28話 ある男の分析(その2)
主人公に春がやって来ます。
そして、史官としての仕事も順調に進んでいました。
弘治元年(1555年)12月、俺は兄・新介の未亡人、せつさんと結婚した。
前世では女性の影すらなかった俺の人生に、伴侶ができる。
キツネにつままれたような、フワフワした気持ちのまま、気づけば結婚していたような感覚だった。
28歳の新郎と29歳の新婦という取り合わせは、現代日本では別に珍しい組み合わせではない。
だが、戦国時代ではかなりの晩婚だ。
せつさんは再婚だし、関係者が少ないのもあって、式はささやかなものとなった。
太田家も山田家も昨年は多くの人が命を落とした。
特に山田家は一族が死に絶えたも同然の状態であり、この結婚により太田家に統合されていくことになる。
この慶事で、少しでも明るい雰囲気が家中に広がることを期待したいものだ。
翌弘治2年(1556年)春には、早くもせつさんの懐妊がわかり、久しぶりに明るい雰囲気が戻ってきた。
殺伐とした時代の中で、幸せな家庭をつくっていけることに、俺は奇跡を見るような思いがしていた。
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俺が信長に仕えるようになってから、1年半以上が経った。
俺は普段は「史官」として書記のような仕事を果たすとともに、軍隊では弓3人・槍3人から成る「六人衆」という役目に任じられて常に側に控えるようになっていた。
時には意見を求められることもあり、理想的なポジションを得たと思う。
おかげで俺は信長という人物をじっくりと観察する機会に恵まれた。
普段の信長は型破りな人物ではあるが、快活なところもあり、人情味溢れる性格だった。
意外に優しく、側近や馬廻衆など家臣たちに慕われている印象だ。
カッとなりやすい一面はあるが、忍耐強さを持ち合わせており、感情的になって判断を誤ることはあまりない。
俺が前世で持っていたイメージと大きく違ったのは、信長の秩序を重んじる性格だった。
型破りな行動とは裏腹に、権威や秩序を破壊しようとするような傾向はあまり見られない。
例えば、こんな事件があった。
清洲城の西1里(約4km)あまりのところに尾張国海東郡大屋村という村がある。
この村は織田一族の織田信房の領地であり、庄屋を務める甚兵衛は信房の家臣だった。
弘治元年(1555年)12月中旬、甚兵衛が清洲へ年貢を納めに行って留守の間に、甚兵衛宅に泥棒が入った。
物音に気づいた甚兵衛の妻は目を覚まし、豪胆にも泥棒に飛びかかり、組みついて刀の鞘を奪い取った。
泥棒は逃げ出したが、甚兵衛の妻は鞘に見覚えがあり、すぐに正体が知れた。
下手人は隣の一色村の左介という男で、日頃から甚兵衛と親しく付き合っている者だった。
甚兵衛は守護・斯波義銀(義親から改名。元の岩竜丸)に訴え出たが、双方の言い分が真っ向から対立し、いかにも中世的な「火起請」という方法で裁かれることになった。
これは熱く焼けた鉄を容疑者に持たせ、神棚まで運ぶことができれば無罪とするというものだ。
我慢できる、できないによって罪が決まるわけで、ハッキリ言ってムチャクチャだ。
現代なら考えられない裁判形式だが、この時代は神仏が裁くものとする考えがあり、こんな裁判が普通に行われていたのだ。
で、清洲城下の山王社において、奉行衆や双方の立会人の見守るなか、左介は火起請の熱した鉄を手に取ったが、あまりの熱さに落としてしまった。
つまり、左介は天によって有罪が宣告されたのだ。
しかし、左介の立会人たちは、証拠となる鉄を奪い取り、左介の処刑を妨げた。
実は、左介は信長の側近中の側近、乳兄弟の池田恒興の家来だった。
実質的な清洲城の主である信長の権勢を傘に着て、裁判の行方をねじ曲げようとしたのだ。
ちょうどその騒ぎのなか、当の信長が鷹狩りの帰りに通りかかった。
信長は騒ぎの状況について聞き取ると、顔色を変えた。
「左介のときと同様に鉄を焼け!どれほど焼いたものか、わしに見せよ!!」
そして鉄の斧を真っ赤になるまで焼かせると、とんでもないことを言い出した。
「わしは何の罪も犯しておらぬ。であれば、この鉄は必ず持てよう!もし無事に持てたなら、左介の罪は明らかじゃ。成敗(処刑)いたすゆえ、左様に心得よ!!」
そう言い放つと、鉄を掌で受け取り、3歩あるいて神棚の上に置いた。
「どうじゃ!みな、見ておったな!!」
言うや否や、左介を処刑させてしまった。
焼けた鉄を握って歩いた信長の精神力も凄まじいが、間近で見ていた俺が強く感じたのは、信長の守護や神仏の権威を重んじる精神と秩序の維持にかける執念だった。
わざわざ真っ赤に焼けた鉄を持つ姿を周囲に見せつけ、権威の保護や秩序の維持のために身を削って取り組む姿勢をアピールしたのだ。
また、信長の行動力は人並外れており、常に何か行動している男だった。
イメージとしては急発進する自動車みたいなもんで、俺たち家臣はボヤボヤしてはいられない。
その点、仕えにくい主だった。
「蛇替え(大蛇捕獲作戦)」の事件などはその典型だ。
弘治2年(1556年)1月中旬の雨の降る夕方、安食村福徳郷の又左衛門という者が、あまが池の東側にある堤を歩いていた。
あまが池は佐々成政の居城・比良城の東にあり、清洲城からは50町(約5.5km)あまり東に位置していた。
又左衛門がふと前方を見ると、太さが一抱えはありそうな黒い物体が目に入った。
それは生き物のようで、胴体は堤の上にあり、長い首は堤の上から伸びてあまが池にまで達するくらいだった。
次の瞬間、又左衛門の足音に気づき、それは首を持ち上げた。
顔は鹿のように細く、真っ赤な舌を出し、それはまるで人間の掌が開いたように枝分かれし、眼と舌が星のように光り輝いていた。
明らかに、見たこともない異形の化け物だ。
又左衛門は身の毛がよだつ思いがし、声なき声を上げながら、もと来た方へと逃げ出した。
そのまま比良から大野木まで半里(約2km)弱の道を走り通し、何とか宿に帰りつくと、又左衛門は周囲に目撃談を話して回ったので、噂がパッと広まり、遂には信長の耳にも達した。
(嘘クセェ・・・!そんなバケモン、いるわけないやんっ!!たぶん、その又左衛門って人がビビって何か別の物と見間違ったか、居もしない幻を見たか、そんなとこやろ。)
噂を聞いた俺はそんな風に感じたが、信長はとても興味を持った様子だった。
1月下旬、信長は又左衛門を呼び出し、事情聴取をした。
直接聞いてさらに興味を持ったらしく、面倒なお触れを出してしまった。
翌日、信長の命令であまが池周辺の比良郷、大野木村、高田五郷、安食村、味鏡村の農民が動員され、手に手に水替え桶、鋤、鍬などを持ってあまが池に集まって来た。
その数は数百を下らなかった。
すべて信長が言い出した「蛇替え」のために集められたのだ。
信長はあまが池の周囲は一面に芦原が30町(約3.3km)以上続いているため、化け物があまが池に潜んでいると当たりをつけ、池の水をすべてかき出して探すことにしたのだ。
数百の桶が池の周囲に並べられ、一斉に四方から水抜きが始まった。
冬場のため池の水はとても冷たく、なかなかの重労働で、じきに息のあがる者が続出し、俺も安食村の領民に混じって作業に加わった。
2刻(4時間)ほど経つと、池の水は7割程度に減った。
しかし、そこからは作業能率が落ちたこともあってか、なかなか減らなかった。
信長はジリジリとしてきて、遂に作業中止を命じた。
「もうよい。わしが池に入り、大蛇を探して参ろうぞ!」
言うなり脇差を口に加え、信長は周囲の制止も聞かず池に潜りはじめた。
池の水は相当に冷たい。
殿様ともあろう人がそんなことをする必要などまったくないのだが、一度火がついたら止められない性分らしい。
しばらく池の中をしきりに探っていたが、やがて上がってきた。
「何もおりはせぬ。どこへ失せたか。・・・鵜左衛門、次はそちが入ってみよ!」
信長は泳ぎの達者な鵜左衛門という者に言いつけ、さらに池の中を探索させた。
だが、やはり大蛇はいない。
「見たか、大蛇などもはやここにはおらぬ。みな、安んじて堤を通るが良い!!」
信長は集まった者たちに宣言すると、清洲へと帰った。
もちろん、大蛇の噂はピタリとやんだ。
(うーん・・・結果オーライやけど、わざわざ自分でここまでせんでも良かったんじゃ!?しかし、この人は怖いもんとかないのかね。行動力といい、尋常じゃないわ。)
そんなことを思いながら俺は清洲まで帰ってきたが、後で恐ろしい風説を耳にした。
何と、比良城主・佐々成政は重病のためと言って出てこなかったのだが、実は城の周囲に大勢が集まることを怪しみ、どうやら自分が攻められるのではないかと警戒していたらしい。
実は、成政が信長に対して謀叛を企んでいるとの噂が立っており、成政は疑心暗鬼に陥っていたのだ。
もし信長が比良城に来ようものなら、一族の長老である井口太郎左衛門と謀り、信長を殺してしまおうとしたのだった。
いかに織田弾正忠家内部がバラバラになりつつあるかを如実に示していて、俺は戦慄した。
それとともに、信長の運の強さにため息が出る思いがした。
成政の見舞いなどしに行っていれば、信長をはじめとして俺たちの命はなかったのだから。
信長の人物分析風にふたつのエピソードを書いてみました。
従来は「既存権威の破壊者」のイメージが強かった信長ですが、行動が突飛なだけで、意外と権威や秩序を重んじる様子が見てとれます。
今後も信長の実像に筆者なりに迫っていきたいと思います!
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次話から3日に1度の更新頻度に変更いたします。
何卒ご理解いただき、今後もよろしくお願いします。




