第19話 村木の戦い(前編)
尾張国内の敵と戦い、舅の斎藤利政の支持を取り付け、少しずつ地位を固めつつある信長にとって、一番の大敵・今川家が間近に迫ってきていました。
決断を迫られた信長がとった作戦は、常人離れしたものでした。
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長くなるため、今回も2話に分け、第19話は前編となります。
信長が尾張国内の敵を退け、斎藤利政との会見を成功させるなど、どうにか勢力の保持に成功していた間、今川家は岡崎城を拠点として西三河での勢力を強めていた。
天文22年(1553年)には、三河国の最も西にある城のひとつ重原城が今川家の手に落ち、尾張への道が大きく開けていた。
この重原城を拠点として今川軍が次の攻撃目標に定めたのは、信長の同盟者・水野一族だった。
重原城から西へ約1里(約4km)の位置には水野家の三河における最重要拠点・刈屋城があり、そこから水野本家の居城・小河城は1里(約4km)と離れていなかった。
攻撃対象とされた水野本家の当主・水野信元は、同盟者信長に助けを求めたが、信長は尾張国内の敵に足を取られて動けず、有効な救援ができなかった。
そのうち、今川軍の圧力はさらに強まり、小河城の北25町(約3km)の村木に堅固な砦を築いた。
今川家の勢力伸張を目の当たりにした尾張国南部の国衆の動揺は激しく、村木砦の西2里(約8km)あまり離れた寺本城が今川家についた。
また、鳴海や笠寺の領主・山口教継が今川家への忠義を見せようと暗躍し、大高城や沓掛城を今川家へと寝返らせてしまった。
これにより、尾張国南部のうち、北は山口教継が籠もる中村砦から沓掛城、南は寺本城から村木砦に至るまでの南北5里(約20km)、東西2里半(約10km)に及ぶ広大な地域が今川方の勢力範囲に組み込まれた。
水野一族は知多半島と三河国碧海郡の一部に押し込められ、北の織田弾正忠家の勢力と完全に切り離されてしまったのだった。
ここまで状況が悪化した以上、信長は水野一族を助けるために何らかの手立てを考えなければならなかった。
放っておけば、水野一族は今川家へ屈服し、やがては今川軍のすべてが自分に向かってくることになる。
水野を助け、何とか自分の同盟者としてつなぎとめる必要があったのだ。
そして、信長が考えた作戦は、誰もが予想しない驚くべきものだった。
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「婿殿から使者が参ったとな。すぐに通せ!」
斎藤利政は信長から使者がやって来たと聞き、早速会うことにした。
挨拶が終わり、信長の使者の口上を聞くと、援軍の要請であった。
「ふむ・・・千人ばかり兵を貸してほしいとな。して、どこの誰を攻められるのじゃ?」
「それが・・・それがしも承っておりませぬ。」
援軍を求めておきながら、味方に攻撃目標を教えないとはどういうことだろう。
利政は思わず苦笑した。
(上総介殿は用心深いお人じゃの。舅のわしをも信じておらぬか、それともどこかから敵に漏れることを恐れたか。いずれにせよ、これはいよいよ大した男じゃ。)
「さてさて、奇妙な婿殿じゃ。・・・まあ良い、婿殿の戦ぶりを見るまたとない好機じゃ。承知した、とお伝え願いたい。」
利政は安藤守就を大将として1千人の軍を編成し、那古野城へ援軍としてやることにした。
また、腹心の田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五の5人を従軍させ、彼らには「毎日見聞きしたことを報告せよ。」と言い含めた。
利政は信長の作戦や戦術の癖などを知るため、彼らを「特派員」として派遣し、詳しく信長をレポートさせようとしたのだ。
安藤ら美濃勢は天文23年(1554年)1月18日に稲葉山城を出発し、20日には那古野城下へ到着した。
信長は那古野城からほど近い志賀・田幡の両郷に美濃勢の陣地となる場所を用意し、提供した。
そして、美濃勢が着いたその日のうちに陣中見舞いに訪れ、安藤守就らに挨拶した。
「遠路はるばる、ご苦労に存じまする。」
守就は義父の代理であるため、信長の言葉遣いもいつになく丁寧だ。
「ご挨拶、痛み入りまする。早速でございますが、此度は何処を攻めるのでございましょう?」
「明日出陣し、小河へ向かいまする。」
「小河?水野家の小河城にございますか?」
「敵は村木の砦にござる。」
守就は信長の攻撃目標を聞き、仰天した。
小河城はこの那古野からは南に8里(約32km)以上離れている。
村木の砦は小河よりは近いが、それでも7里(約28km)以上離れているだろう。
しかも、道中には山口父子や今川軍がひしめいていて、無事にたどり着けるとは思えない。
もし突破できたとしても、損害の多さはどれくらいになるか想像もつかない。
「無謀にございましょう。鳴海や大高を抜けるとは、とても思えませぬ。」
「いや、鳴海などは通りませぬ。」
「では、いかにして!?」
「熱田より船を使い、小河へと向かいまする。」
「船で!?」
守就はまたもや仰天した。
海のない美濃出身の守就には、思いもつかない発想だった。
何と、信長は熱田から船出して知多半島をグルリと回りこみ、水野信元の居城・小河城へ直接乗り込むと言う。
そのための船を、すでに熱田で多数用意させているとのことだった。
(この殿はまことのうつけか?狂気の沙汰にしか思えぬが・・・致し方あるまい・・・。)
守就は信長のプランに呆気にとられながらも、覚悟を決めた。
想像もつかぬ移動となるが、援軍として来た以上、ついて行かねばなるまい。
「では、我らも明日熱田へ向かいまする。」
「いや、美濃の衆には那古野の留守を願いたい。」
信長の返答は意外なものだった。
何と、清洲の織田大和守家の侵攻に備えて守就ら美濃勢には那古野城の留守をまかせ、信長は叔父の信光らとともに遠征すると言う。
信長の動員計画を聞くと、那古野城に織田勢はいくらも残らない。
守就はますますわからなくなった。
(これは・・・まるで我らに城を奪ってくれと言わんばかりではないか。わからぬ、この殿の考えがまったくわからぬ。)
守就は策謀を好み、なかなかの野心家だ。
一瞬、那古野城を奪い、自立してやろうかとの考えが頭をよぎった。
空き家同然の那古野城なら、簡単に奪れるだろう。
だが、本領から遠く離れた地での自立など、後が続かない。
結局は身を滅ぼすだけだ。
結局、守就は信長の要請を受け入れ、那古野城の留守番役を承知した。
この時、那古野城ではちょっとした事件が起きていた。
家老の林秀貞、美作守兄弟が、自分たちの与力である前田与十郎長定の居城・荒子城へ引き移ってしまったのだった。
信長の作戦計画が家臣や叔父の信光らに知らされたのは、つい先ほどのことだった。
林兄弟は信長の大胆な作戦を無謀と断じ、勝手に出て行ったのだった。
林兄弟の退去に城内は騒然となった。
「殿、いかがいたしましょう!?」
そんななか帰城した信長に対し、ほかの家臣たちは狼狽した様子で詰め寄った。
「それならそれで構わぬ!」
それに対し、信長は落ち着き払い、まるで対照的だった。
翌1月21日、信長は「ものかは」と言う名の馬に乗り、那古野城を出発し、この日は熱田で泊まった。
熱田は那古野の南、わずかに2里(約8km)と離れていない。
信長にしては、いつになくゆったりとした行軍だった。
この遅い行軍は、山口教継・教吉父子や笠寺の今川軍に対し、陸路を南下していることを印象づけ、本当の作戦行動を隠すためだった。
翌日の作戦開始を前に、信長の意気は大いに上がっていた。
字を追うだけではピンと来ない村木砦の戦いですが、地図と見比べながら記事を読んでみると信長の大胆さ、決断力など非凡さに驚かされます。
読者の皆様も、ぜひ地図を眺めながら読むことをオススメします。
後編(第20話)で地図を掲載しますので、そちらをご覧ください。




