第17話 相対(前編)
平手政秀の死は多方面に影響を与えました。
織田信長の将来を悲観視し、動き出した人物がいました。
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長くなるので、2話に分け、第17話は前編となります。
織田弾正忠家の家老として、外交の担い手として近国にその名が聞こえた平手政秀の死は、様々な方面で大きな影響を与えずにおかなかった。
特に織田信長は有力な後見人を失い、弾正忠家内での求心力の低下が予想された。
このときの弾正忠家は大きく3つの勢力に分かれていた。
西部を治める信長、北部を支配下に置く叔父の守山城主・信光、東部を支配する弟の末盛城主・信勝だ。
彼らが微妙な均衡のもとで緩い連合を形成し、何とか弾正忠家としてのまとまりを保っているのが実情だった。
ところが、政秀が死に、もう1人の家老・林秀貞は露骨に信勝へ接近するようになったため、傍目には信長の勢力が大きく落ちたように見えた。
そして、相対的に浮上したのが信勝の勢力だった。
信勝は父・信秀存命中から父の後見のもと、信秀に似せた花押(サイン)を使って領国統治に関わっていた。
信秀が死ぬと末盛城を相続し、弾正忠家領国の東部への支配力を強めていた。
このあたり、信秀が生前に遺した体制が大きかった。
信秀の心は信長の後継で決まっていたのかもしれないが、信勝にも当主と同じくらいの威権を与えていたからだ。
最後に本拠とした末森城を信勝に譲り、柴田勝家や佐久間一族をつけたことで、信勝は信長と肩を並べられるくらいの勢力を持つに至っていたのだ。
この状況は、信勝の野心を大きく育てる方向に作用した。
こういった弾正忠家の現状を見て、行動を起こした人物がいた。
その人物は意外にも尾張国内ではなく、美濃の人だった。
信長の岳父(妻の父)、斎藤山城守利政その人だ。
彼は信長に使者を送り、富田の正徳寺での会見を申し入れた。
富田は尾張国に属するが、どの大名の支配下にもない特殊な地域だった。
信長の居城・那古野からは北西に約7里(約28km)、利政の居城・稲葉山からは南に約4里半(約18km)の位置にあった。
正徳寺は一向宗の寺であり、総本山である大坂の石山本願寺から住職を派遣してもらい、尾張・美濃両国の守護から税の免除などの特権を得ていた。
その人家は7百軒あまり、寺内町として栄え、豊かな別天地の観があった。
見方を変えれば中立地帯ということになり、それぞれの本拠地の真ん中付近にあり、外交における会見の場としてはふさわしかった。
利政も当然、娘が嫁いだ尾張の情勢には大きな興味を持っていた。
もちろん、最も大きな関心は信長の資質やその動向だった。
信長が自立し始めて1年近くになるが、今のところ大きな失敗はなかった。
裏切った山口軍と引き分け、親の代からの宿敵・織田大和守家との戦いに勝利し、尾張国内は小康状態を保っている。
しかし、うがった見方をすれば、その軍事的な成功に信長の存在感は薄かった。
信長が自ら兵を率いて挑んだ山口軍との赤塚の戦いは勝つことができなかった。
織田大和守家に対してあげた勝利は、信光の守山勢や柴田勝家ら末盛勢の助力があってのものだ。
そして、聞こえてくる信長の素行の悪さは耳を覆いたくなるようなヤンチャぶりで、およそ当主にふさわしい人間とは思えないものだった。
そのため、最近は利政の家臣が面と向かい、「恐れながら、尾張の婿殿は大うつけ(大馬鹿者)でございますぞ!」などと言ってくる始末。
利政はそのたびに「いや、かの殿はうつけにあらず。」と否定し続けてきたのだが、人間という生き物は何度も聞かされるうちに、いつしか疑いを抱くものだ。
利政もついに信長の資質に疑いを持ちはじめ、そんな中で平手政秀の死と林秀貞の離反を聞き、信長の人物のほどを会って確かめようと考えたのだった。
天文22年(1553年)4月下旬、信長は利政の申し入れを躊躇(ためらい)なく受け入れ、正徳寺での会見が決まった。
信長は兵を引き連れ、「木曽七流」と呼ばれる木曽川の大小いくつもの支流を舟で渡り、富田へと赴いた。
この会見を企画した利政は、信長の人物を見極めるだけでなく、無作法な信長を驚かせてやろうと趣向を凝らした。
謹厳な老臣たちを7,8百人動員し、折り目正しい肩衣や袴などの上品な装いをさせ、会見の場となる正徳寺の御堂の縁に並んで座らせた。
こうすれば、その前を信長が通ることになり、いつもの珍妙な信長の姿がより滑稽に映るだろう。
利政はその姿をみんなで笑いのめし、信長に対して「マウント」を取ろうと考えたのだった。
だが、信長は利政が会見に込めた意図をすでに知っていた。
利政が信長の賢愚を確かめるために会うのだという話が、信長の耳にも聞こえてきていたのだ。
だからこそ、自分が謀殺される可能性を疑うことなく、会見の申し入れを即座に受けたのだ。
この点、斎藤家の情報管理に疎漏(いい加減さ)があるとしか言いようがない。
信長が美濃へ人をやって確かめたのかも知れないが、それにしても主君の意図がこうも簡単に相手方に伝わるというのはどういうことだろう。
主君に面と向かって主君の婿の悪口を言う者の存在も含め、利政は良い家臣に恵まれていない。
恐らく、斎藤利政(斎藤道三)という人は自分に対する自信があまりにも強すぎ、トップダウン型の統制を繰り返すあまり、人を使う・育てるということがうまくできない男だったのではないだろうか。
美濃国がなかなかうまく治まっていかない事情の一端が、その辺りにもあったのかもしれない。
さて、富田へ向かう信長の格好はまるでいつもどおりだった。
髪は茶筅髷、これを萌黄色(黄色がかった緑)の平打ち紐で縛っていた。
上は湯帷子(浴衣)を袖脱ぎにして身に着け、下は4色に染め分けた虎皮と豹皮から作った半袴をはいていた。
金銀で飾り付けた太刀・脇差の長い柄の部分に荒縄を巻きつけ、太い麻縄で腰の周りに猿回しのように火打ち袋やひょうたんを7,8個もぶら下げていた。
この様子を斎藤利政は富田の町外れの小屋の中に隠れて見物していた。
周囲の家臣が信長のだらしない出で立ちに注目し、嘲笑するなか、利政は無言だった。
目の前を通過していく信長の軍勢の有様に、虚をつかれたのだ。
信長の手勢は7,8百の供回りの衆(親衛隊)と前衛を務める数百の足軽部隊からなる、総勢1千に及ぶ大部隊だった。
その武器は長さ3間半(6.4m)の柄を朱色に塗った槍が5百本、弓と鉄砲が合わせて5百挺という他に類を見ないものだったのだ。
特に2百挺はあると思われる鉄砲の多さが目を引いた。
利政もこの新兵器を入手していたが、眼前の信長の鉄砲数はケタ違いの多さだった。
殺傷能力や射程距離は弓よりも格段に優れるものの、速射性のなさや高価であることから、利政は数を揃えることに消極的だったのだ。
(うぅむ・・・あの極端に長い槍に、おびただしい数の鉄砲。かの殿は奇妙といえば奇妙、だがこれは単なるうつけではない。そもそも、鉄砲をどのように戦で使っておるのか?これは・・・侮れぬ将才を持っているやも知れぬな・・・。)
利政もひとかどの人物だ。
信長軍の軍装にただならぬものを見て取り、信長の統率力、軍備の一新に見せた決断力を肌で感じたのだった。
俄然、信長が長い槍や鉄砲をどのように実戦で使っているのか興味が湧いた。
自分が想像もできない戦法を編み出しているのかも知れなかった。
(型破りで無作法な若僧だが、案外語らってみれば面白いかも知れぬ。)
利政はそのようなことを考えながら小屋を後にし、正徳寺へと向かった。
歴史的な瞬間が間もなく訪れようとしていた。
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※今話時点の織田弾正忠家内部の勢力図と正徳寺の会見位置図を追記しました。
☆織田弾正忠家内部の勢力図(天文22年(1553年)閏1月ごろ)
☆正徳寺の会見位置図
何やら策を巡らす斎藤道三(利政)。
それに対し、信長はいつものヤンキースタイルで登場です。
歴史的な会見は、どうなってしまうのでしょうか?




