第14話 三の山・赤塚の戦い
織田信秀の死は新たな戦乱の芽を生み出そうとしていました。
最初に信長に対して牙を向いたのは、意外な人物でした。
尾張、三河、美濃に覇をとなえた織田信秀の死は、国の内外に大きな影響を与えた。
後を継いだ信長はまだ19歳の若造、しかも「大うつけ」だ。
チャンス到来とばかりに、早速秘かに動き出した勢力があった。
それは信長にとって意外な者たちだった。
「父上、なぜ今川に与しようとなさるのです!?我らはこれまで弾正忠家のために働き、褒美としてこの鳴海の城まで与えられたではありませぬかっ!」
「九郎次郎よ、そのような情に流されては家を保つことはできぬ。三郎殿では弾正忠殿の衣鉢を継ぐことはできぬ。かのお方に与していては、ともに滅ぶだけぞ!」
「しかし・・・」
「今ならば、今川からより大きな利を得ることができよう。他の者たちに先んじなければ、我が家の栄えはない!!」
「・・・」
天文21年(1552年)4月、鳴海城主・山口左馬助教継は今川家に通じ、織田信長から離反した。
20歳の息子・九郎次郎教吉を鳴海城に置き、鳴海城の北西約半里(約2km)あまりの笠寺の砦には今川の5将(葛山長嘉、岡部元信、三浦義就、飯尾顕茲、浅井小四郎の5人)を招き入れた。
そして、自らはさらに北へ半里(約2km)に位置する中村に砦を築いて立て籠った。
那古野城では、すぐさま信長が山口父子討伐の軍を起こそうとしていた。
それに対して、家老の平手政秀が反対を述べた。
「山口父子を攻めれば、今川と手切れになりまする。今川と戦う備えはまだありませぬゆえ、今は自重なさるべきかと。」
「爺、それではわしが無力であると敵に教えるようなものじゃ。そんなことはできん!」
2人の意見は真っ向から対立したが、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというわけではない。
政秀は、今川についた山口父子と戦えば、今川家と戦争状態になることを危惧していた。
信秀が死んで間もない今、大国である今川と戦うのは圧倒的に不利だ。
織田家の外交を一手に引き受けてきた政秀にとって、その危険を何としても排除したかったのだ。
一方、信長は山口父子の裏切りを見過ごせば、山口父子や他の勢力に「舐められる」ことを重くみた。
無力とみなされれば、信長は周囲から袋叩きにされかねない。
静観は自身にとって最悪の事態につながると、信長は考えたのだった。
また、鳴海からは信長の重要な経済基盤のひとつである熱田を街道を使ってダイレクトに攻撃することができ、放置は危険だった。
さらに鳴海や笠寺一帯が敵に回ったことで、信長に心を寄せる水野一族の大高城との連絡線がさえぎられたことも、危機感をもたらしていた。
4月17日早朝、信長は8百の兵を率い、鳴海城に向けて進軍した。
信長は今川勢が籠る笠寺や山口教継が籠る中村を迂回し、鳴海城から北に約1里(約4km)あまりに位置する中根村を抜けて天白川を渡った。
さらに南下して小鳴海へ進み、三の山へ登って陣取った。
敵中深くまで進出し、明らかに信長は決戦を求めて敵を挑発していた。
笠寺や中村からは天白川を隔てる形となり、川を防衛に利用することが可能だ。
すぐに出撃してくることはないだろう。
その間に鳴海城兵を撃破し、もし城を奪えれば、大高との連絡を回復できる。
また、敵が出撃してこなくても、信長の武威を見せつけることはできるのだから、堂々と引きあげればいい。
素早く撤退できることを考え、信長軍は小者を連れず、戦闘部隊のみで構成されていた。
信長軍に対し、山口教吉は倍近い1千5百を率いて鳴海城を出て、赤塚へ進んだ。
赤塚は三の山から東に15町(約1.6km)、鳴海城からは北へ15,6町(約1.6〜1.7km)離れた場所に位置していた。
教吉は数的有利を活かし、信長軍と決戦を行おうとしたのだ。
こちらも城のすぐそばへの出陣とあって、小者は連れていなかった。
山口軍は足軽部隊を先頭に立て、清水又十郎、柘植宗十郎、中村与八郎、萩原助十郎、成田弥六、成田助四郎、芝山甚太郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、荒川又蔵らが先陣となった。
「来るかっ!九郎次郎!!」
信長は三の山から山口軍の進出を見て、赤塚へと進軍を開始した。
信長軍も足軽を先頭に立て、荒川与十郎、荒川喜右衛門、蜂屋般若介、長谷川橋介、内藤勝介、青山藤六、戸田宗二郎、賀藤助丞らが先陣をつとめた。
両軍は接近し、5,6間(約9〜11m)の距離まで近づくと、矢が放たれた。
優れた射手が放つ矢は、まだ馬上にあった者に襲いかかった。
信長軍の先陣のひとり、荒川与十郎も至近距離から矢を浴びせられた。
運の悪いことに、一本の矢は与十郎の兜の眉庇の下、額を深々と射抜いた。
たまらず与十郎は落馬し、そのまま動かなくなった。
即死だった。
それを見た山口軍の兵たちが与十郎の脛や太刀の柄などを引っ張り、自軍のほうに引きずっていこうとした。
その意図はよくわからない。
与十郎の太刀の鞘や柄は金銀で飾られていて、明らかに身分の高い者と知れたから、その死体を確保したかったのだろうか。
あるいは、純粋に刀の高価な飾りが欲しかったのか。
与十郎の太刀は長さ1間(約1.8m)、鞘の幅は5,6寸(約15〜18cm)もあり、一際目を引いた。
「与十郎を敵の手に渡すな!」
しかし、周囲の信長軍の兵たちがそれを許さなかった。
与十郎の頭や胴体を引っ張り、両軍が与十郎を奪い合う一幕となった。
しばしの引っ張り合いのすえ、仲間を想う信長軍の兵たちが引き勝ち、与十郎の体も太刀もすべて引き取った。
信長軍は「直接信長と雇用契約を結んだ足軽衆」や「直接信長がスカウトした親衛隊」で構成されていた。
そして、彼らはここ数年間、来るべきデビューに向けて同じ釜の飯を食った「仲間」としての意識を強く育んでいた。
荒川与十郎の遺体をめぐる信長軍の兵たちの動きは、そのあらわれのひとつだった。
また、信長にとっても、配下の兵たちは大事な手足であり、それを失うことは身体の一部を引きちぎられるような想いだった。
誰が敵に回るかわからない今の信長にとって、彼ら以上に頼りになる存在はいないと言っても過言ではなかった。
戦いは巳の刻(午前10時ごろ)から午の刻(正午ごろ)まで続いた。
信長軍は長い槍先を揃えて突き入り、萩原助十郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎らを討ちとった。
また、傷で身動きができなくなった荒川又蔵を生け捕った。
それに対して山口軍は上段に槍をかまえ、上から叩きつけるようにして攻撃した。
これにより負傷した赤川平七が山口軍に捕らえられた。
他に信長軍では30人ほどの死者を出した。
つい先日までは味方同士の身ではあったが、互いに遠慮は見られなかった。
両軍は4,5間の距離をへだてて戦い、近接し過ぎているために相手の首をとることができなかった。
そんなことをすれば、自分の命が危なかったのだ。
やがて、両軍は疲労の限界に達し、兵をひいた。
両軍痛み分けとなり、勝負はつかなかった。
山口教吉は引きあげてきた将兵たちをねぎらったあと、捕らえた信長軍の捕虜や自陣に駆け込んできた馬を一箇所に集めさせた。
両軍とも戦闘開始とともに馬を降りたが、小者を連れずに進軍してきたため、多数の馬が相手陣内に駆け込んでしまっていたのだった。
「これより三郎殿の陣に参り、捕らえた人や馬をお返し申せ!」
戦の終結とともに、教吉は側近たちに言いつけて捕らえた捕虜や馬を信長の陣に返しに行かせた。
教吉は一緒に初陣を迎えた信長に親近感を抱いており、今回やむなく戦ったものの、戦のあとは「ノーサイド」の精神を見せたのだった。
教吉が見せた爽やかさは、大事な家臣を数十人も死なせて沈む信長の心も溶かした。
「何!?九郎次郎が人や馬を返してきたと?・・・さすがは九郎次郎じゃな。よし、当方も捕らえた人や馬を返してまいれ!」
こうして、つい先刻まで命の奪い合いが行われた凄惨な戦場は、一転して和やかな雰囲気に包まれた。
そうしたなか、信長は引きあげを決意した。
山口軍を突破できなかった以上、長居は無用だった。
倍の敵に正面から戦って負けなかったのだから、信長軍の強さは存分に見せつけた。
とりあえずの戦果としては十分だと判断したのだ。
信長は自軍の強さに自信を深めていた。
来た道を引き返していく信長軍に対し、山口軍がその背中を攻撃することはなかった。
その日のうちに信長は那古野城に帰り着いた。
「あの馬鹿めが!敵に情けを見せるなど、やり方が手ぬるいわ。これが知れたら、痛くもない腹を探られかねぬ。」
一方、戦いのあとの息子の振る舞いを知り、大きなため息をつく者がいた。
教吉の父、山口教継だった。
息子が発揮した「騎士道精神」が今川家に知れたら、下手をすれば信長との間に密約でもあるのではと疑われるのではないか。
教継はそんな心配を募らせたのだった。
「せっかく、いち早く今川家についたというに、これでは台無しじゃ。もっと「忠義」を見せなければ・・・」
教継は、さらなる誠意を今川家に見せる必要を感じ、内心焦りを覚えはじめていた。
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※三の山・赤塚の戦いの見取り図を追記しました。
山口軍がとったされる「上槍」については詳細不明なのですが、上段にかまえ、上から叩きつけるやり方だったとしました。




