第11話 退潮
尾張国内がしばらくの平穏を取り戻していた頃、東の三河国ではキナ臭い情勢になりつつあった。
「小豆坂の戦い」で敗れた今川軍だったが、決して大きな損害を受けたわけではなかった。
反抗してきた渥美半島の戸田康光を攻め、その居城・田原城を落として東三河を制圧していた。
今川義元は東三河の支配を固め、しだいに西三河への圧力を強めていたのだ。
今川家の勢いを見て、西三河・岡崎城の松平広忠も動きを活発化させていた。
嫡子の竹千代(後の徳川家康)を人質に取られているためか、直接織田の領地へ軍を向けることはなかったが、織田信秀に味方する松平の分家との小競り合いが続いていた。
天文17年(1548年)4月、広忠は攻め寄せた山崎城主・松平信孝を「耳取縄手の戦い」で破り、信孝を討ち取った。
それより以前に上和田の松平忠倫も死去していて、これで西三河で織田家に味方する勢力はガタガタになってしまった。
広忠は北の梅坪城を取り戻すなど、復活しつつあった。
これらに対して、織田信秀は有効な手が打てなかった。
やはり、「加納口の戦い」の敗戦が痛かった。
大敗したことで信秀の「常勝」のイメージは崩れ落ち、今まで信秀の武威を恐れていた周囲の勢力は態度を変えはじめていた。
三河へ兵を出そうものなら、いつ留守を襲われるか、わかったものではなかった。
美濃斎藤家や織田大和守家との戦闘状態が続いているうちは、信秀は尾張を離れることができなかったのだ。
信秀が美濃斎藤家との婚儀をまとめ、織田大和守家との和平にこぎつけた頃には、三河の織田家の勢力圏は安祥城周辺にまで縮小してしまっていた。
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天文17年(1548年)11月、ようやく織田大和守家との和平が成り、織田信秀は三河方面での反撃を計画し始めていた。
岡崎松平家はともかく、今川軍と戦うには大規模な軍隊を出す必要がある。
信秀は弟たちをはじめとする味方の武将に書状を送り、秘かに近々の三河出兵の意思を伝えていた。
また、三河方面への出兵を見越して本拠地の移転を進めていた。
古渡の東2里(約8km)の末盛に新たな城を築き、翌天文18年(1549年)早々に移転を完了していた。
だが、そんな矢先に信秀の戦略をひっくり返すような事件が起きた。
1月17日、信秀は末盛の新城でくつろいでいた。
作ったばかりの城は、ヒノキの匂い立つような香りに包まれ、信秀の心を浮き立たせた。
(もうすぐじゃ・・・。もうすぐ三河へ兵を出せる・・・!さすれば、西三河の失地を奪いかえすこともできよう!!)
このところ対外的に押されっぱなしだった信秀にとって、ようやく挽回する機会がやってこようとしていたのだった。
慌ただしく廊下を渡ってくる足音が響いてきたのは、ちょうどそんな時だった。
「殿。守山の孫三郎様より急使が参りました!」
「信光から!?何の知らせじゃ?」
守山城主・織田孫三郎信光は信秀の実弟だ。
剛勇で知られ、「加納口の戦い」で信康を失った後、信秀にとって最も歳が近く、信頼を寄せる存在になっていた。
「それが・・・犬山衆が楽田衆とともに守山へ押し寄せて来たとのことでございまする!!」
「何じゃと!?・・・わかった。すぐ後詰めの兵(援軍のこと)を出す。それまで持ちこたえよ、と信光に伝えるのじゃ!」
「承って候!」
突如犬山城主・織田信清が兵を挙げ、楽田城の兵と合わせて侵攻してきたのだ。
犬山軍は春日井原を抜け、庄内川の北、竜泉寺の眼下の柏井口にまで押し寄せた。
これに対し、織田信光は守山城から竜泉寺の線の防備を固め、兄の援軍を待っていた。
いくら勇猛な信光でも、倍近い敵勢に正面から挑むのは、ためらわれた。
しかし、彼は時をムダにはしなかった。
兄の援軍を待ちわびながら、高台にある竜泉寺から敵勢の様子を観察していた。
敵はしきりに付近の家などに火を放って気勢をあげているが、積極的に攻めてくる様子は見られない。
しかも、バラバラに動いているように見え、あまり組織的ではないようだ。
これなら、援軍さえ届けば、たやすく打ち破れる。
信光はそう確信していた。
「殿。参りました、末盛からの加勢にございます。」
「来たか!さすが兄上じゃ。早速、打って出るぞ!我らが先駆けをいたすゆえ、末盛衆には一息入れてから続いていただきたいと伝えよ!!」
信秀はすぐに動かせる足軽衆を寄越し、彼らは通報から2時間足らずで2里(約8km)を駆け、到着したのだった。
信光は戦のことをよく知る兄の判断の良さを褒めたたえながら、テキパキと指示を出した。
戦は信光の予想通り、あっけなくかたがついた。
いきなり雄叫びをあげて突っ込んできた信光勢により、犬山軍はたちまち劣勢となった。
そこに信秀の兵も加わると、数十人の死者を残し、犬山軍は北を目指して逃げていった。
信光は深追いはせず、焼き払われた建物などの消火につとめた。
犬山軍を簡単に蹴散らしたものの、信秀に与えた衝撃は大きかった。
犬山城主・織田信清は「加納口の戦い」で戦死した信秀の弟・信康の子にあたり、信秀から見れば実の甥だった。
これまで弟たちの協力を得て勢力を広げてきた信秀にとって、身内が裏切ったことはショックだったのだ。
しかも、犬山城と楽田城は織田総本家である織田伊勢守家の勢力下にあった。
単なる叔父と甥のケンカではなく、織田伊勢守家が信秀の敵に回ったことを意味した。
信秀は国内に新たな敵を抱えることになり、せっかく計画した三河出兵は不可能になってしまった。
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同じ頃、三河国岡崎城主・松平広忠は死の床にあった。
まだ24歳である。
周囲は回復への希望を忘れないようにと励まし続けたが、広忠は冷静に自分の死を見つめていた。
やはり気になるのは、自分の死後の岡崎松平家の行く末だ。
嫡男である竹千代は織田家の人質となっているし、東からは今川軍の足音が近くまで迫っていた。
どちらに味方するか、早く決めなければならない。
広忠は決心し、自分の想いを書き取らせて書状にし、使者に持たせた。
使者が足を向けたのは・・・東であった。
天文18年(1549年)3月6日、松平広忠は岡崎城で病死した。
間もなく、今川義元の命令を受けた太原雪斎が率いる今川軍1万が、主のいなくなった岡崎城に入城した。
今川家は広忠の最後の願いを受け入れ、松平家の保護に乗り出したのだった。
もちろん、単なる善意ではない。
今川家はこれを機会に松平家を属国にし、岡崎城を西三河の支配を固める拠点にするつもりだったのだ。
岡崎城は今川家の最前線基地となり、今川軍が松平軍とともに守りについた。
そして、今川義元は織田領への攻撃計画を練りはじめた。
次の狙いは安祥城だった。
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※柏井口の戦いの見取り図を追記しました。




