第149話 二兎
戦況が有利に傾いている(かなり話は盛ってるが)との報告を持たせ、腹心の竹中半兵衛を派遣したにも関わらず、織田信長の出馬はかなわなかった。
追い詰められた秀吉は、この苦境を自ら切り開くべく思い切った行動に出ます。
「ダメやったか・・・。」
天正6年(1578年)5月末、竹中半兵衛の復命を聞いた羽柴秀吉は落胆の色を隠せなかった。
膠着した現状を打破するためには、信長率いる本軍の加勢は欠かせない。
わずかに馬廻衆や小姓衆だけの千や2千程度でも来てもらいたかったのだ。
織田軍が苦戦を強いられているのは、何も敵に有利な地勢を占められているからだけではない。
織田軍の指揮系統のあいまいさもまた一因だった。
それを解決する妙策が主君・信長の参戦だ。
何しろ、敵の毛利軍は主将の毛利輝元が自ら播磨へ出陣してきており、しかも吉川元春・小早川隆景という毛利家の戦略を事実上動かしている2人の叔父が左右を固めている。
その指揮系統は明快で、とにかく上月城だけは攻め落とし、尼子家の残党の息の根を止めようという意思で全軍がまとまっていた。
苛立った織田軍が挑発しても熊見川(佐用川)を渡って攻撃を仕掛けてくる気配は一向にないし、撤退を感じさせる予兆すらない。
むしろ、撤退に追い込まれる恐れがあるのは、遠方に抱えている主戦場の状況がどうしても気になってしまう織田の援軍の方だ。
信長という絶対的なリーダーが不在の織田軍には、何としても敵を撃退するという気概に欠けていた。
そもそも、誰が総大将なのかもあやふやなのだ。
播磨国の担当者は秀吉なのだから、本来は秀吉が主将であるべきだ。
ところが、送られてきた援軍は織田一族や重臣からなる重厚な布陣と言えば聞こえはいいが、要は秀吉と同格かそれ以上の面々である。
秀吉が頭ごなしに命令できるような存在ではなく、逆に信長の嫡男である織田信忠をはじめとする織田一族の諸将などはこちらに命令を下す立場に当たるのではないかと秀吉も遠慮せざるをえない。
見方によっては、北陸で秀吉が勝手に戦線離脱をした時の柴田勝家の立場に今度は秀吉が立たされた格好だ。
現場責任者だけが焦るばかりで、周囲との温度差が有り過ぎる。
秀吉がしたように、勝手に帰る者も出かねない。
こんな体たらくでは、いくら数が多くても十分な戦力とは成り得ない。
自然とその軍事行動は鈍重となり、これといって敵の弱点が見えない現状ではいたずらに滞陣して日を送るだけとなっていたのだった。
(とりあえず、上様は播磨へ出陣するとは言ってたらしい。今は待つしかない。)
半兵衛の報告にあった、播磨出陣の確約に望みを託し、秀吉は首を長くして信長出馬の報を待った。
だが、5日経っても、10日が過ぎても、いっこうに陣触れが出たとの知らせすら届かない。
(いったい上様はいつ来てくれるんや!?このままいったら上月城は見捨てることになるし、播磨国衆からもっと裏切るヤツが出るかもしれん。ようし、こうなったら・・・!)
6月も半ば近くになって、ついに秀吉は東へ向けて旅立った。
信長に直談判し、播磨へ出兵してもらうよう願い出るつもりだった。
6月16日、入京して間もなく秀吉は信長への拝謁を許された。
重臣という秀吉の立場もあるが、すぐに会ってくれるということは信長も播磨情勢に大いに興味を持っているに違いない。
これならば、良い方向に話が進むかもしれん、と秀吉は意気込んだ。
だが・・・。
「ならぬ!」
「しかし、上様に来ていただければ、毛利に勝てます。その後、別所らも全部潰せます。ぜひご出陣を!!」
「ならぬと申したであろうが!先日、半兵衛が参った際、宇喜多へ返り忠をする者あり。いまに毛利も兵を退くであろうと申しておった。しかるにどうじゃ!?毛利も宇喜多も兵を退いたとの話はいまだにない。備前で騒ぎがあったとの噂すら聞かぬ。」
「それは・・・。」
「謀略武略もなしに長陣していても詮なきこと。陣を払い、軍勢を神吉・志方へ寄せて攻め破り、その上で別所の三木城を囲むのじゃ!」
「そうなれば、上月城を見捨てることになります。尼子衆は家の再興を願い、当家を頼ってきた者たち。見捨てれば、織田は頼りないと他にも寝返る者が出て参ります。」
「捨てよ!これで滅ぶとなれば、それまでの者ということよ。今は目先の戦の吉左右こそが肝要ぞ。毛利が寄せて参ったからとて、すぐに背く者など頼むに足らず!!」
信長の返事はにべもなかった。
秀吉ははっきりと希望が断たれたことを悟った。
神吉城攻めの検使(作戦の遂行状況を確認する役人)として菅屋長頼や万見重元らが派遣されることになり、作戦が確実に執行されるか監視されることになったからだ。
戦略的な観点から見れば、信長の判断は正しい。
現状では上月城も補給路も両方確保することが難しい。
となれば、戦略的により重要な補給路の確保が優先されるべきとの指摘はもっともなことだ。
それに、毛利軍との間で睨み合いが続いているのも、上月城を救援するために渓谷となっている川を渡り、対岸で守りを固めている毛利軍を打ち破る術がないためだ。
たとえ上月城を落とした毛利軍がさらに東進してきたとしても、織田軍は戦いやすい地を選んでこれを待ち受ければいい。
上月城を捨てるという苦渋の決断をすることで両軍の攻守は入れ替わり、織田にとってははるかに戦いやすい状況に変わるのだ。
また、織田家を取り巻く情勢を考えれば、援軍をポンポン出せる状況でもない。
すでに摂津国の石山本願寺周辺には包囲陣を築いて多くの兵を常時はりつけている。
惟任光秀が攻略を進める丹波へは最近出兵を果たし、攻撃を受ける懸念はないが、北陸の上杉軍や甲信の武田軍はいつ攻勢に出てくるやもしれず、これ以上その備えを手薄にして軍勢を組織しづらいのだ。
秀吉は信長への拝謁を終えると、すぐさま播磨へと取って返した。
この2ヶ月間待ち望んだ、信長自身が率いる新たな援軍の到着は諦めざるをえなかった。
てっきり悄然としているかと思いきや、むしろその表情はさっぱりしていた。
(ここまでやったんやから、上月城を捨てるのはもう仕方ない。尼子のヤツらを生かしておけば、毛利攻めのときにだいぶ役に立つはずやけどなあ・・・。まぁ、できんことをクヨクヨ考えてても何にもならん。)
秀吉としては、自分が最善と信じる作戦に対してできる限りの努力をしてきたとの自負がある。
今はやりきったという感情もまた秀吉の真意であった。
(尼子を切ったことで織田を頼りないって思うヤツが出てきても、そのときはそのときや。けど、なるべくそういうヤツが出んような工夫が要るな。織田を裏切ったら後が怖いでっていう工夫が、な。)
西へ向かって急ぎながら、秀吉の頭の中では今後の作戦をどうしていくかについてでいっぱいだった。
特に、今や憎い敵となった別所家に対し、どうすれば効率的に戦えるかという命題が主となっていた。
播磨国高倉山に置いた本営へ帰り着くと、秀吉は早速行動を開始した。
すぐさま撤収と神吉・志方両城攻めの準備を始めたのだ。
6月26日、織田軍は高倉山の陣地を撤収し、東へ向かった。
その撤退は整然としたもので、万が一の毛利軍の追撃に備えて高倉山の東約2里(約8km)の三日月山に滝川、惟任、丹羽の諸勢を登らせ、対処させる念の入れようだった。
さらに、そこからの織田軍の行動はこれまでの停滞が嘘のように活発だった。
翌27日には、羽柴勢を除く全軍が高倉山から約15里(約60km)離れた神吉城へ移動し、すぐさま攻撃を開始した。
また、秀吉も元々本陣を置いていた書写山や姫路城にゆっくり腰を落ち着けたわけではなかった。
毛利軍の追撃が一切なく、ただ上月城を囲んでいるだけなのを見て取ると、すぐさま手勢を率いて但馬へ向かい、但馬国衆を呼び出して忠誠を誓わせた。
引き続き竹田城に弟の羽柴秀長を置き、山陰方面から攻め込んでくる可能性がある毛利軍に対して但馬の防衛体制を整えてから書写山の本陣へと帰還した。
一方、織田軍の総退却は上月城兵にもすぐさま伝わった。
直接目にした者もいたが、何より城を囲む毛利軍から上がる歓声がすべてを物語っていた。
城内には諦めの色が満ち、急速に戦意が失われていった。
7月1日、抗戦の望みを失った上月城は毛利軍に対して降伏・開城した。
2日後、城主の尼子勝久が嫡男の豊若丸や一族の尼子通久らとともに自刃し、毛利家に反抗する尼子家の血縁者は一掃された。
また、城内の中心人物で尼子家再興のキーマンとして活躍し続けてきた山中鹿介も、安芸へと護送される途中でひそかに殺害され、ここに反毛利を掲げる尼子の残党は壊滅した。




