第145話 予兆
播磨出兵を大成功で終え、織田家では新しい年を盛大に祝うことができました。
かつてないピンチを切り抜けた秀吉も、その地位を守り通したばかりか誰の目にも明らかな成果をあげ、意気揚々と安土での年賀に参加していました。
しかし、その頃ひそかに新たな反織田の陰謀が企てられようとしていました。
明けて天正6年(1578年)正月、安土は織田家の勢威を見せつけるかのような盛況ぶりを呈していた。
五畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉の五ヶ国)、若狭、越前、尾張、美濃、近江、伊勢といった織田家の直接支配地域とその近隣諸国の有力者たちが続々と訪れ、信長へ年賀の礼を行ったのだ。
このため、正月の信長は会わねばならぬ対象が多すぎ、とても個別の面談を行えないほどで、一堂に多数の面会希望者を集めて年賀を受ける形となった。
それでも、信長は家中で特に重要な者には気を遣い、別にイベントを用意してねぎらった。
元日に行われた「一般年賀」の前に嫡男・織田信忠をはじめとする12人をわざわざ招いて茶会を行い、茶を振る舞った。
また、4日には織田信忠邸において、年末に信長から信忠へ譲られた「初花肩衝」など13点の名器や名画がお披露目され、こちらにも武井夕庵など9人が同席の名誉に預かった。
この2つのイベントに参加を許されたのは重臣や側近中の側近だけだったが、両方とも参加した者のひとりに羽柴秀吉がいた。
北陸での「敵前逃亡」があったにも関わらず、その後播磨進軍の大将となったばかりか、今度のこの「待遇」で信長から変わらぬ信任を得ていることが明らかとなった。
但馬国への無断侵攻についても、不問に付されたことを意味したからだ。
秀吉にとっては得意の絶頂を迎えた正月だった。
しかし、「好事魔多し」とはよく言ったもので、秀吉の思いもつかぬところで反織田・反秀吉の機運が高まっていた。
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「殿。それがしはもう我慢ならぬ。公方様からはたびたび御内書を賜り、播磨では有り難くも別所だけが頼みじゃとのお言葉も頂戴いたしておる。一刻も早く織田と手を切り、公方様を奉じ、毛利や本願寺に与するべきじゃ。」
「そうじゃ、兄上。公方様におかれては、別所をこそ播磨の守護職に、とのご意向ありとも聞き及びまする。それに、上月や福岡野での振る舞い、到底許し難い。このまま織田の下におれば、いつ我らとて取り殺されるやもしれませぬぞ!」
三木城の奥まった一室で、別所長治は叔父の別所吉親、弟の別所友之と密談を続けていた。
密談とは言うものの、叔父と弟は興奮して膝がくっつかんばかりの勢いでにじり寄り、いつしか声をひそめることすら忘れている。
(これでは、もはや密談とは言えぬな・・・。)
まだ20代半ばと若い長治は、その細面で秀麗な顔をわずかにゆがめ、苦笑していた。
それを煮え切らぬ態度とみて、2人はさらに声を励まして説得にかかろうとする。
播磨国美嚢郡にある三木城は東播磨随一の大族・別所家の本城だ。
別所家はその位置関係から東隣の摂津国の動向に関心が深く、織田家の勢力が摂津国内で強まるに従い、いち早くこれと通じて勢力の保全に努めてきた。
天正3年(1575年)7月には当主・別所長治が上洛して信長に謁見したのを皮切りに、定期的に使者を派遣して友好的な関係を築いていた。
また、昨年2月に行われた織田軍の雑賀攻めにはわざわざ紀伊国へ援軍を派遣しており、播磨における親織田勢力の代表格と言ってよい存在だった。
ところが、昨年11月に織田家の重臣・羽柴秀吉が播磨へ乗り込んで来てから、別所家中の雰囲気に変化が生じた。
これまで親織田で統一されてきた対外政策に対し、少しずつ反発する者が増えてきたのだ。
遠くの主家であったからこそ特に意識することも少なかったが、目と鼻の先に出張って来られては色々と協力せねばならぬことも増え、織田家の存在を息苦しく感じる者が出てくることはありうることだ。
問題なのは、その急先鋒が長治の後見役を務める叔父の吉親であることだった。
(困ったことだ・・・。)
長治には問題の根っこがわかっているだけに、問題解決の困難さに苦悩していた。
対処を間違えれば、家が2つに割れかねない。
要は、別所家中の主導権争いなのだ。
亡父で前当主の安治がまだ幼い長治を残して死去した後、亡き安治の2人の弟である重宗と吉親が長治の後見役となった。
この2人が仲良く協調して長治を後見してくれれば良かったのだが、現実はそういかなかった。
特に外交を担当し、親織田を貫いて今日まで別所家を大過なく導いた重宗への輿望が高まるにつれ、嫉妬した吉親と重宗の仲は険悪化する一方だった。
吉親がまだ年若く判断力も怪しい友之を味方に引き入れ、織田との手切れに力こぶを入れているのは、憎い弟・重宗を追い落として別所家の実権を独占したいという野心があるからだ。
そのためにもっともな理由を並べ立てて新たな対外政策を打ち出し、その賛同者を増やそうと躍起になっている。
その内実は、重宗が右と言えば左を向くといった具合の他愛もない言説であることに、長治は気づいていた。
「しかし・・・織田と手を切れば、たちまち我らは攻められよう。あの松永弾正殿すら、織田へ反旗を翻してわずか2月足らずで滅んだ。勝ち目はおありか?」
内心では織田との手切れに反対の長治だが、その拒絶の言葉は弱いものだ。
強く拒絶すれば、家中で紛争が起きかねない。
独裁とは無縁の戦国大名の悲哀を、別所長治も嫌と言うほど味わっていた。
信長のように勝手気ままに振る舞い、自分の命令を強制し続けられる存在の方が珍しいのだ。
「ある。我らが立てば、播磨国中の一向門徒が一揆を起こす。一揆に加わらぬ者は破門と言うぞ!?立たぬ者などおるまいて。」
「門徒どもがいくら寄り集まろうと、烏合の衆にござる。それに、石山本願寺は織田の付城に囲まれ、為す術もないと聞き及んでおりまする。さような者どもを味方につけて織田と戦っても、ひとたまりもございますまい。」
「いや、毛利がおる。毛利の海賊衆は強力じゃ。ひとたび船を出せば、織田の船など播磨へ近づくことすらできぬわ。それに、石山と同じく兵糧も武器もいくらでも運んで参るとの申し入れも来ておる。」
「されど、毛利の兵が播磨へ参らねば、我らは孤軍にござろう。ただ織田の兵に踏み潰されるだけ。それがしは毛利の捨て駒になどなりとうはございませぬ。」
長治にしてみれば、叔父の言う味方など雲や霞のような頼りなさで、本当に心強い戦力となってくれるか甚だ疑わしい。
毛利や本願寺にいいように操られ、織田家の猛攻を正面から引き受けて別所の領国や戦力がすり潰されてはかなわない。
一方、織田軍はつい先日まで播磨国内に万に迫る規模の兵を展開し、隣国の但馬へも攻め込む活発さを見せた。
今は主力が引きあげたとは言え、もし別所家が離反すれば、10日と経たずに大軍がやって来るかも知れない。
本当にやって来るか定かではない毛利軍と違い、織田軍は現実に存在する脅威なのだ。
「・・・毛利は、来る。」
「何か証がございまするか?」
「うむ、(安国寺)恵瓊殿に直に聞いた。」
「そこまで・・・」
長治は絶句した。
安国寺恵瓊は毛利家の使僧、つまり外交を担当し、時には自ら使いする僧だ。
本来は安芸国の安国寺という寺の住職なのだが、その鋭敏な頭脳とさわやかな弁舌を買われ、外交僧として重宝され、いまや毛利家の外交じたいへも多大な影響力を持つと噂される人物だった。
叔父が既に恵瓊とつながっているというのも衝撃的な話だが、恵瓊が出兵すると確言する以上、毛利軍が近々播磨へ遠征してくる計画はあるのだろう。
となれば、織田と条件としては変わらない。
「毛利はどこを攻めると?」
「上月じゃ。」
(なるほど。)
上月城には尼子旧臣の山中鹿介らと彼らが担ぐ尼子勝久が入っている。
長年の死闘を経て尼子家を滅ぼし、山陰地方を支配下に置いた毛利にとって、尼子の残存勢力など目障り以外の何物でもない。
大軍で攻めてくる可能性は大いにあった。
「織田も毛利も播磨へ兵を入れる。どちらかを捨て、どちらかに味方せねば、別所の家は残せぬ。織田は下賤の出、その名代の羽柴など、どこの馬の骨やら知れぬ。降った者すらあざむいて殺す、東夷の輩じゃ。それに比べて毛利は大江氏の流れを汲み、公方様を奉じておる。どちらに義があるか、明らかであろう!!」
(叔父御は名門好きだな。だが、大事はどちらが勝つかじゃ。はたして、毛利は勝てるのか・・・?)
吉親が毛利に味方すべきとする理由は何ともチグハグな感じが否めない。
毛利家は安芸の国衆のひとつに過ぎなかったが、元就という英主を得てにわかに興り、今日の大勢力となった。
ただ、織田家と違うところはその血統の良さだ。
鎌倉幕府創設の立役者のひとり大江広元の子孫であり、名家といって差し支えない。
それに比べ、織田家など先祖は越前国で神官をしていたとしか伝わっておらず、怪しげな出自だ。
信長の名代として播磨を任されている羽柴秀吉など、吉親から見れば同じ人間として認識されているかどうか。
だが、そんなことはどちらが勝つかということには本質的に関係のないことだ。
単なる感情論に過ぎない。
「叔父御の申されるとおりじゃ!いまや家中にも織田と手を切り、毛利と結ぶべしとする者が多うございまするぞ。兄上、決断を!!」
なおも悩む長治に対し、友之も決断を迫った。
2人のかつてないほど強硬な態度は、それだけ別所家中で親毛利に傾く者が増えているということだろう。
もはや変えようのない流れを、長治は感じていた。
「以後、我らは公方様を奉じ、毛利につく。よろしいな?」
「・・・」
とどめを刺すかのような吉親の念押しに対し、長治は答えに窮した。
当主とは言え、家臣の多数意見という「世論」を無視することは許されない。
極端なことを言えば、長治の意見などもはやどうでも良く、彼が承認したという形式さえあれば良いのだ。
長治の沈黙を承諾のしるしと見て、吉親と友之は目配せをした。
その顔には笑みが広がっていく。
意気揚々と部屋を出ていく2人の後ろ姿を、長治はただ静かに見守っていた。
彼の胸中には消し難い不安が残っていた。
それは杞憂か、それとも現実に起こる未来か。
いつまでも答えの出ない問いをやがて無理矢理打ち消し、長治は強引に前を向くことにした。
それが正しいかどうかなど、今は誰にもわからない。
(わたしにはそれしかない。もはや後戻りなどできぬ。)
別所家の離反の理由について、筆者は「権威(将軍からの勧誘)」、「嫌悪感(織田家の低い家格や上司となった羽柴秀吉の出自の卑しさ)」といった要素によるものが特に強いと考えており、そのことを軸に今話を描こうとしておりました。
もちろん、いくらプライドが大事とは言っても負ける戦をしたい者はいませんから、別所なりの勝算を立てたうえで離反しただろうことは間違いないでしょう。
それに加え、「独歩.」様から教示いただいた「秀吉の残虐性への嫌悪感」についても深く感じ入るところがございましたので、これを加えて今話を構成させていただきました。
別所家に限らず、この頃からいったんは織田家に降って大いに働きながら、反乱を企てる勢力が後を絶たなくなってきます。
なぜ織田信長は嫌われ、反抗されるようになっていくのか。
その面をクローズアップして今後も描いていきたいと筆者は考えております。




