第144話 奔走
上杉謙信が軍を引きあげ、松永久秀の反乱も鎮圧し、織田家の支配圏はひとまずの安寧を取り戻しました。
これを受けて、かねて準備を進めていた羽柴秀吉がいよいよ播磨出兵へと動き出します。
天正5年(1577年)10月23日。
羽柴秀吉の居城・長浜城は騒然としていた。
おびただしい数の旗がはためき、ガチャガチャという武具が奏でる音が城内外に鳴り響いていた。
もちろん、何千もの将兵が交わす会話の声は辺りに満ち、まるで祭りか何かのような喧騒だった。
この日は、羽柴秀吉と羽柴家にとっては開運の一日となるはずだ。
いよいよ信長から命ぜられた播磨出兵を行う日なのだ。
それは北陸からの勝手な戦線離脱の罪がひとまず許された証でもあった。
めでたい門出を祝うため、俺は長浜まで見送りに来ていた。
信長へのとりなしが何とかうまくいったことを実感し、秀吉の安泰をともに喜ぼうと思ったのだ。
あらかじめ使いをやって来意を告げると、出陣前の忙しいときにも関わらず、秀吉は会ってくれた。
「ようやく播磨へ出陣やな。つい1ヶ月前には命もあるかどうかってとこまで追い詰められてたのに、今はもう織田軍西部戦線の責任者やもんなぁ・・・!」
「マタスケが動いてくれたおかげや。準備中に大和へ出兵しろって言われたのはびっくりしたけど、それも上様が許してくれたってことやもんな。ありがたかったわ。」
「それにしても、バタバタやな。大和から帰ってきてまだ間もないのに、もう今日は旅の空か。全然休めてへんやん!」
「いやいや、ハデに休んでたからな。その分仕事したくてウズウズしとんねん。それに、黒田官兵衛から早く来てくれってバンバン手紙やら使いやらが来るし。」
「官兵衛って姫路の?」
黒田官兵衛は播磨国姫路城の城主で、播磨の有力者である小寺家の家老職をつとめていた。
わざわざ織田信長へ謁見しに行ったり、周辺の他家に対して織田につくよう働きかけるなど、播磨きっての織田びいきだ。
「そう。播磨に進軍したら、官兵衛の姫路城へ入ることになってる。城をまるごと差し上げますってさ。」
「城をそっくりそのまま!?えらい思い切りのいい話やな。」
「そうなんよ。俺も今まで色々調略で味方増やしてきたけど、そこまで気前のいいやつは初めてや。」
「その官兵衛が何で出兵の催促してくんの?」
「どうやら、毛利の誘いに乗ろうとしてるやつが出始めてるらしいな・・・。」
「・・・公方様が一枚かんでそうやな。」
京を追われた将軍・足利義昭は西へと下り、現在は備後国鞆の浦に落ち着いていた。
ここは山陰・山陽をおさえる大大名・毛利家の勢力圏の港であり、義昭は毛利の庇護下にあったのだ。
播磨国内で毛利への鞍替えを考える者が増えているということは、その背後に足利義昭を意識している可能性が高い。
確証はないが、義昭から御内書(将軍が出す公文書)のたぐいがバラまかれていても不思議はないのだった。
「かもな。けど、今のところ毛利も大軍を播磨へ送ってくる気配はないらしい。それやったら、先にこっちが軍隊連れて乗り込んだら、一気に制圧できるやろって話や。」
「確かに。遠くの権威より近くの脅威の方がインパクトでかいわな。そうなると、早ければ早いほうがいいな。」
「そういうこと。俺が休んでる暇はないってこっちゃ!!」
そう言うと、秀吉はとっておきの笑顔を見せた。
仕事が楽しくてたまらない、といった様子だ。
俺の見送りに手を振ると、意気揚々と播磨へ向けて発って行った。
そこからの秀吉の働きはめざましかった。
わずか2日足らずで姫路までの道を踏破し、そこから自ら西播磨一帯を巡り、諸勢力に服属を迫った。
あらかじめ黒田官兵衛による調略がなされていたことも相まって、情勢は織田家にすこぶる有利となっていた。
もはや何の実権もないものの赤松本家当主である置塩城主・赤松則房をはじめとして多くの国衆が織田につく構えを見せていたからだ。
衰えたとは言え、この国の守護職につく赤松本家が味方となれば、播磨国内での影響力は馬鹿にならない。
秀吉の播磨出兵は早くも大きな成果を上げつつあった。
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「官兵衛。このたびの働き、感謝するぞ。」
播磨へ入ってから日夜駆けずり回っていた秀吉は、いったん姫路へと戻ると黒田官兵衛を呼び、労をねぎらった。
何と言っても水面下で織田家のために暗躍した官兵衛の働きがなければ、西播磨一帯がこれほど容易になびくことはなかったに違いない。
元々織田に味方していた三木城の別所長治など東播磨の国衆と合わせ、わずか数日で播磨の大部分が織田の支配下に入ろうとしていたのだ。
「過分なお言葉、恐悦至極にございまする。」
若さに似合わぬ落ち着きぶりで、官兵衛は静かに頭を下げた。
言葉は謙虚だが、その振る舞いには恐縮している素振りは微塵もない。
その双眸はギラギラと輝き、自信がみなぎっていた。
「おかげで播磨のほとんどは織田につこうとしてる。これも官兵衛のおかげと上様にも報告したところや。」
「痛み入りまする。ただ・・・上月殿など、少数なれども人質をこばみ、戦支度を始めておる者もおりまする。なお予断を許しませぬ。」
秀吉は最大限に官兵衛を持ち上げてみるが、当の官兵衛は何とも素っ気ない。
この程度の功績は大したことがないと思っているのか、それとも言葉通り十分な成果を上げたとは思っていないのか。
その胸中に何を隠し持っているのか、ちょっと見当がつかない。
(どっちが正解かはわからん。でも、今回のことでこの官兵衛という男が相当使えるやつってことはハッキリしたな。播磨国内で顔もきくし、大事に使っていかなアカンな。)
実を言うと、秀吉は10月28日付けで安土の信長宛に「11月の10日ごろまでには播磨を平定できそうだ」との景気の良い報告書を送っていたが、別にそのなかで官兵衛の働きを特別絶賛したりはしていない。
「嘘も方便」とばかりにリップ・サービスを繰り出したわけだ。
官兵衛の働きについては、また別に信長の耳に入るようにすればいい。
秀吉は秀吉で、腹に一物を隠し持っているのだった。
「そうやな。明日にでも出陣しようと思う。」
「では、上月へ?」
「いや、北へ向かう。」
「北!?」
織田に対して敵対の意思を見せ始めている上月城主・赤松政範を攻めるなら、姫路からは西へ進軍しなければならない。
さすがの官兵衛も、北へ向かう意図ははかりかねた。
「なに、但馬へ出陣するんよ。今回播磨への出兵を上様からせっかく認めていただいたのに、まだ十分な働きをしてない。播磨だけでなく隣国の但馬も攻め取って、上様に喜んで頂くんや。」
「すると、上月城は?」
「後回しや。上月を攻めるとなると、たぶん宇喜多が後詰めに出てくる。ひょっとしたら、毛利も来るかもしれん。どれだけ敵が増えそうか調べてから攻めても遅くはないやろ。」
「なるほど、感服仕りました。」
上月城のある佐用郡は、隣国の備前や美作と接している。
上月城を攻めれば、備前や美作を領する宇喜多直家は身の危険を感じて上月へ援軍を送るかもしれない。
佐用郡が完全に織田の手に落ちれば、宇喜多家は直接織田と国境を接することになり、防衛上の重大な脅威を感じるようになるのだ。
また、宇喜多の背後に控える毛利家が援軍を派遣してくる可能性もある。
宇喜多・毛利両家を中心に山陽諸国の情報収集をしつつ、その間に手薄な但馬国へ攻め込むのが良策だと秀吉は判断したのだった。
なお、秀吉は信長に喜んでもらうためと言ったが、実は信長からは播磨攻めの命令しか受けておらず、但馬攻めを行えば厳密にはまたしても独断専行となる。
そんなことはおくびにも出さず、味方の官兵衛すらあざむいて、秀吉は自分に与えられた権限を実態以上に大きなものに見せようとしていた。
(なあに、但馬攻めの言い訳なんか、後からどうとでもなる。播磨を安定させるためとか惟任の丹波攻めの支援のためとか、何とでも言えるやろ。)
拡大主義の織田信長を主君に持つ以上、ただ命令だけを忠実に聞いているだけでは重臣は務まらない。
すきあらば取れるものは取ってしまい、地図を少しでも多く織田の色に塗りつぶしていく。
それが秀吉が体得した織田家重臣としての極意だった。
それに但馬をおさえれば、ライバルの惟任光秀を妨害することにもつながる。
但馬は光秀が現在攻略に取り組んでいる丹波の西に位置しているから、ここを先におさえておけば光秀が丹波を平定した後に攻める場所がなくなる。
そうなれば、山陰・山陽方面は秀吉の独壇場とすることも夢ではないのだ。
こうして羽柴軍は周囲の虚を突き、急速に北上して但馬攻めを開始した。
まず姫路の北約12里(約48km)にある岩州城を攻め、これをたちまち陥落させた。
次いでそこからさらに北へ約4里(約16km)に位置する但馬の有力国衆・太田垣家の竹田城を攻め、これも簡単に落城させた。
これによって但馬国の朝来郡は羽柴軍の実効支配下に入った。
秀吉は竹田城に弟の羽柴秀長を入れ、但馬攻略の最前線基地にすることにした。
現状ではこれ以上の但馬侵攻は困難だったが、周囲にはいつでも攻め込める様子を見せつけ、戦わずに降ってくることを期待していた。
そうしておいて、秀吉は播磨へ舞い戻り、佐用郡攻めに着手した。
約1ヶ月の情報収集の結果、宇喜多家が上月城などの支援に動くことは確実だったが、毛利の援軍がすぐには来ないことを見極めたのだ。
まず、上月城の支城である福岡野の城へ竹中半兵衛重治と黒田官兵衛の軍勢を差し向け、これを攻略させた。
次いで11月27日には秀吉自ら上月城の包囲戦を開始し、城の周囲に三重の垣をもうけて取り囲んだ。
これは城の包囲とともに援軍に来る宇喜多軍に備えたものだった。
案の定、宇喜多軍はすぐさま出動してきたが、案に相違して堅固な羽柴軍の陣を攻めあぐね、逆襲を受けて敗走した。
頼みの宇喜多軍の敗退を見て上月城内ではにわかに戦意が衰え、一部の城兵が寝返って城主・赤松政範を自殺に追い込み、その首を持って降伏してきた。
こうしてあっけなく佐用郡を手に入れた秀吉だったが、上月城兵の降参を内心喜んだものの、手放しで喜ぶことはしなかった。
「最初が肝心や。織田に逆らったらどうなるか、見せつけてやれ!」
秀吉は降伏してきた上月・福岡野両城の城兵を皆殺しにし、周辺の諸勢力に恐怖を植え付けようとした。
恐れをなしたのか宇喜多軍は再度攻めてくる気配はなく、佐用郡内も静かになった。
奪い取った上月城には毛利によって主家を滅ぼされ、故郷を追われた尼子旧臣の山中鹿介を入れ、鹿介は尼子当主として擁立した尼子勝久とともに対毛利最前線を担うことになった。
年末、播磨支配がひとまず成ったのを見届け、秀吉は居城の長浜城へと帰った。




