第140話 手取川の戦い(後編)
不協和音を奏でつつも、何とか進軍を続けた織田軍。
しかし、手取川を越えたところで決定的な対立が生じます。
その台風の目は羽柴秀吉でした。
手取川北岸の水島へと進んで数日。
朝から開かれた軍議は、柴田勝家の一方的な「伝達」で幕を開けた。
「明朝、金沢へと進軍いたす。おのおの、手ぬかりなきよう。」
これに反発したのが羽柴秀吉だ。
いくら主将とは言え、同僚たちに向けて頭ごなしに命令するとは何事か。
「修理(柴田修理亮勝家のこと。)殿にお聞きしたい。物見の報告はあったんですか?敵はどこにいるんです?」
「いや、物見は金沢へも近づけず、戻っておる。金沢まではこれという敵は見えぬ。」
金沢とは加賀国北部、現在の金沢市のあるところだ。
この時代、加賀を事実上統治していた一向宗の中心地は金沢にある「金沢御坊」であった。
一向宗側は、織田軍が大軍であるのを見て、本拠地周辺を固める作戦に出たということだろう。
あるいは、能登を攻撃中の上杉軍が来援するのを待っているのかもしれない。
「いやいや、俺が言っている敵とは上杉軍のことです。上杉軍はどこにいるんです?」
「それは皆目わからぬ。何の便りもないゆえ、七尾城は持ちこたえておるのであろう。一刻も早く救わねばならぬ!」
「話が違うやないか!ここ水島ならば、敵の情報もつかみやすいし、手取川の状況もよくわかる。だから、ここで敵の動きを探ろうって話やったはず。それやのに、敵がどこにいるかもわからん、後ろの川はいつあふれるかもわからん、そんな状況でまだ進もうってのか?頭おかしいんちゃうか!?もしすでに七尾城が落ちていたらどうなさる?のこのこ金沢まで出て行って、わざわざ一向宗と上杉にやられに行くようなもんや!!」
「筑州(羽柴筑前守秀吉のこと。)、さては億したな!?」
「何やと!?」
「ひとたび出陣いたさば、臆さず敵に向かうが武士というもの。たとえ敵が上杉だろうが主君の命を奉じて戦うにしかず。それを・・・ああのこうのと戦わぬ口実を言い募るは、臆病風に吹かれたからであろう!!」
「アホらしい。やっとれんわ!!敵の居場所や数もわからんのに、ただただ前へ行こうとしか考えん。そんなもん、猪武者ってやつや。まともな武将がするもんやない!!」
「しれ者めが!!敵の影も見ぬうちからひるみ、無用に臆病な言を並べ立てるような者とは戦えぬ。・・・帰れ!近江でもどこでも、勝手に去れ!!」
「ああ分かった。帰る、帰るわ!こんなアホと一緒にやっとれるか!」
柴田勝家と羽柴秀吉はひとしきり口論し、興奮を抑えきれず、ついにケンカ別れの様相を呈した。
荒々しく席を蹴飛ばしながら立ちあがった秀吉は、そのままずかずかと退出していった。
勝家はそんな秀吉を仇でも見るかのようににらみつけている。
困ったのはハラハラしながら見守っていた諸将である。
信長がいるときには考えられないような展開に、どう仲裁したものかオロオロするうち、決裂を迎えてしまったのだ。
こうなると、仕切り直しをするくらいしか方法はなかった。
「いかがでござろう。改めて軍議を開くというのは?」
「確かに。羽柴殿も時が経てば頭も冷え、考えも変わるやもしれませぬ。」
敵と戦う前に味方同士でケンカなどしていては、到底勝利はおぼつかない。
いったん軍議を解散し、いくらか時間をおき、その間に秀吉をなだめて軍議を再開しようというのが諸将のハラだった。
ところが・・・。
「おい、羽柴殿が陣払いを始めておるぞ!!」
何と、有言実行とばかりに秀吉の陣では慌ただしく陣地の撤去作業が始まり、みるみる帰り支度が整っていく。
単なる「売り言葉に買い言葉」ではなく、秀吉は本当に帰るつもりらしい。
仰天した諸将は秀吉の意志が固いのを知り、慌てて勝家に通報した。
秀吉の撤退を止められるとしたら、総大将である勝家しかいないのだ。
しかし、怒り心頭の勝家の答えはにべもなかった。
「臆病者など、足手まといにしかならぬ。よい、勝手にさせい!」
もはやどうにもならない。
諸将はさっさと帰路に着く羽柴勢を静かに見送ることしかできなかった。
「上様のお怒りはいかばかりであろうか・・・。」
誰かがポツリとつぶやいた。
どんな理由にせよ、秀吉の行動は敵前逃亡であり、軍規違反だ。
主君の信長の代理である柴田勝家と口論に及んだばかりか、その命令に背いて勝手に戦線離脱したのだから、無事ではすむまい。
だが、諸将の心のうちには別の不安要素が影を差していた。
(こんな体たらくで、敵にかなうのか・・・。)
有力な味方部隊が離脱し、残された部隊は不安と猜疑心で団結力に欠けている。
とても戦えるような状態にないのだった。
羽柴勢が離脱したあと、織田軍はさらに北東へ3里(約12km)ほど移動し、富樫へと至った。
ここはかつての加賀国守護・富樫家の本拠があったところだ。
今も街道沿いの町としてそれなりに栄えてはいるが、もはや国の中心というような特別な地位にはない。
織田軍は、ここまで通ってきた小松、本折、阿多賀(安宅)といった町と同様、富樫を焼き払ってしまった。
富樫から目指す金沢までは1里(約4km)強であり、織田軍は目と鼻の先と言ってよいところまで来た。
しかし、ここで重大な情報に接することになった。
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「織田軍はまっすぐ北へ進んでおると?」
「さよう、金沢御坊より後詰めを求めて参っておりまする。」
「おもしろい。敵はわれらが能登を得たことに気づいておらぬと見える。よし、金沢へ後詰めに参るといたそうか。」
天正5年(1577年)9月15日、2ヶ月近く上杉軍の包囲に耐えていた能登七尾城が陥落した。
城内に疫病(伝染病)が流行り、大勢の将兵がバタバタと倒れただけでなく、ついには城主の畠山春王丸までが病死するという危機的状況に陥っていた。
事実上の城の支配者であった畠山家重臣の長続連は、子の長連龍を織田信長のもとへ派遣して援軍を求めていた。
ところが、援軍がとどく前に七尾城は内部崩壊を起こした。
遊佐続光や温井景隆といった他の畠山家重臣たちによって長続連と長一族の大半が討ち取られ、上杉軍へ降伏して城を開いたのだ。
その2日後、南の末盛城も上杉軍に降伏し、能登国は完全に上杉家の支配下に入っていた。
織田軍が富樫へ至った時点では、上杉軍の南下を妨げる障害は何もなくなっていたのだ。
上杉謙信は、長陣の疲れも見せず加賀への進軍を号令した。
上杉軍南下の報は、一向宗の金沢御坊だけでなく、数日後には織田軍へも伝わった。
織田軍にとって一大事だ。
この遠征の策源地(作戦の根拠地)である大聖寺城から10里(約40km)以上北上し、敵地に深く入り込んでいる。
しかも、ここまでの道中では諸所を焼き討ちしながら進んできており、周辺からの支持は期待できない。
およそ戦える状態にないというのが実状だった。
早速開かれた軍議は、数日前までのことを思えば嘘のようにあっさりと意見の一致をみた。
ここに至って、さすがの柴田勝家も撤退を決意したからだ。
織田軍は慌てて南下を開始したが、その決断は遅きに失していた。
前途を増水した手取川がふさぎつつあった。
渡河に手間取り、足がパタッと止まった織田軍はたちまち上杉軍に追いつかれた。
そこから起こった戦闘は通常のものとは明らかに異なるものだった。
ただひたすら対岸を目指す織田軍の背を、かさにかかった上杉軍が襲うという一方的な構図だったからだ。
手取川の渡河は危険な状況にはなっていたが、グズグズしていては命に関わるのだから織田の将兵にも迷いはなかった。
勝家麾下の軍勢が殿軍をつとめるなか、命からがら多くの将兵が何とか渡河に成功した。
しかし、殿軍を中心に数百以上の兵と鯰江貞利など名のある武将の犠牲と引き換えだった。
(羽柴殿の進言に従っておれば・・・!)
逃げる織田の将兵がひそかに思ったのはそのことだ。
上杉軍は手取川の線で停止し、それ以上の追撃がなかった。
にもかかわらず、織田軍がこうむった敗北感は大きなものがあった。
手取川を越えて進撃さえしなければ、このような思いをしなくてもすんだのだ。
ところが、織田の敗兵たちが打ちひしがれて南下している頃、その羽柴秀吉はもっと大きな危機を迎えていた。




