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第138話 薄氷

支配圏全域から軍勢を動員し、かつてない大軍で紀伊へ侵攻した織田軍。


しかし、半数以下の軍勢しか動員できなかったはずの雑賀衆に思わぬ苦戦を強いられることになります。

(勝利と言えば、勝利。けど、実際のところ遠征は失敗だな。)


 織田本陣の末席で目の前の光景を見ながら、俺はそのような感想を持った。

 もちろん、口に出して言うことはしない。

 だが、この本陣に詰めかけている織田方の武将の多くが、何よりも主将の織田信長自身もそのように感じているに違いない。


 なるほど、雑賀衆は確かに誓紙を差し出し、「降伏」を求めてきた。

 誓紙に署名しているのは土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗村二郎大夫といった面々であり、敵のリーダー格ばかりだ。

 きちんとした形式を踏んで相手が負けを認めてきたのだから、織田軍の勝利には違いない。


 ただ、勝利と言うわりには、内容がまったく伴わない。

 勝ったにも関わらず、なんと条件をつけられたのは織田軍の方だった。

「信長が大坂方面での事態(石山本願寺攻撃など大坂周辺での織田軍の軍事行動をさす)に配慮すること」を条件に、雑賀衆は降伏したのだ。


(負けた側が勝った側に条件をつけるなんて、聞いた事がないわ。あくまで織田軍が勝ったという形にしただけで、ほんまもんの勝利やない。何とか織田のメンツを保てただけなんやから、実質は良くて引き分け、厳しい目で見れば負けに等しい。)


 しかし、織田軍はもはや形振(なりふ)りをかまっていられる状態ではなかった。

 少なくとも敵が「降伏」し、「勝利をおさめた」という形さえ整えば十分と言える状況に追い込まれていたのだ。


 京を発してから約2ヶ月、実際に紀伊へ攻め入って1ヶ月あまり。

 苦境に立たされたのは、領地を荒らされた雑賀衆ではなく、交渉十万という圧倒的な大軍を擁している織田軍の方だった。

 もう1ヶ月近く膠着状態が続き、勝利が近づくどころか、これ以上の長期戦が続けば軍が崩壊する恐れも出始めていた。


 何しろ、軍隊というものは元々が非生産的なシロモノだ。

 ただ兵糧などの物資を消費していくだけで、何ら生産活動を行わない。

 特に何万という大軍ともなると、莫大な量の物資の消費のために軍の維持そのものに苦しむことになる。

 1人につき米などの食料や水がそれぞれ1日あたり最低で1升(約1.5kg)ずつ、それ以外の物資も含めると兵1人あたりで1日につき数kgの物資が必要となる。

 これが何万人という軍の規模になると、1日だけで数十から百トンの物資が必要となるからだ。


 残念ながら、この時代にこのレベルの物資を安定供給するだけの補給体制は存在しない。

 トラックも巨大な輸送船も飛行機もない時代に、いくら織田の領国に隣接していて距離的に近い紀伊とは言え、後方からの補給だけで戦線の維持を行うことは不可能なのだ。

 となると現地調達しかないが、戦場となっている「十ヶ郷」と「雑賀荘」は農地に恵まれない砂地だらけの土地ときている。

 後方からの補給はうまくいかず、現地調達も十分に行えず、では織田軍が窮してくるのは道理だった。


 こうなると、信長の見通しが甘かったと言われても仕方ないだろう。

 根来衆を通じて雑賀衆五(からみ)のうち三(からみ)(「宮(社家)郷」・「中郷」・「南(三上)郷」の3つ)が織田軍についたとき、もはや戦に勝ったと思ったに違いない。

 戦う前から敵は半減しているのだから、負ける要素が見当たらない。

 大軍でもって押し寄せれば、さしたる抵抗もなく敵は降伏する可能性だってある。


 だが、現実はそう甘くはなかった。

 待っていたのは敵の徹底抗戦だった。

 彼らは確かに数こそ減ってしまってはいたが、かえって団結力は増し、自分たちの土地を守るため大軍をものともせずに戦い抜く覚悟を決めていたのだ。


 この雑賀衆を相手にして、織田軍は攻めきることができなかった。


 俺が属する丹羽勢をはじめとする北からの侵攻軍は、「十ヶ郷」については比較的簡単に攻め取ることに成功した。

 丹和から南下する道は一本しかなかったため、急きょ道なき山と谷をルートとして追加し、くじ引きで軍を3つに分けて進むことになった。

 諸所を焼き払いつつ進撃し、特に中央を進んだ惟任光秀・細川藤孝勢は迎撃してきた雑賀衆の軍勢を打ち破り、追いついてきた第二陣(織田信忠、北畠信意、神戸信孝、長野信包)とともに敵の中野城へと攻め寄せた。

 天正5年(1577年)2月28日に中野城は開城し、ついで3月1日には鈴木孫一の平井館も攻め立てた。


 しかし、その先の紀の川を越えて「雑賀荘」へ攻め入ることはできなかった。


 一方、東から攻め入った佐久間・羽柴・荒木・別所・堀の諸勢は根来衆と雑賀三緘衆とを案内に立て、三緘の領内までは順調に進んだが、小雑賀川まで至るとそこから先へ進むことはかなわなかった。


 どうやら、雑賀衆は元々最終防衛ラインを「雑賀荘」に定めていて、十分な防衛施設の整備を行っていたものらしい。

 対岸を攻め立てようとした織田軍は雑賀衆が設けた切岸と柵にはばまれて上陸することができず、そこを猛烈な鉄砲の射撃を受け、多くの兵と名のある将を幾人も失う損害を受けた。


 やはり、数千挺にのぼるという雑賀衆の鉄砲は脅威だった。

 この時代の鉄砲は、防衛戦において真価を発揮する。

 それに加えて手練れの雑賀衆がこれを用いるのだから、恐るべき威力を見せつけられた。


 雑賀衆は20人くらいの小さな組に分かれ、連携して間断なく銃弾を撃ち込んでくるようだった。

 そのため、常に陣の前に弾幕が張られているような様相となり、ろくに近づくことすらできない。

 鉄砲傭兵として名を馳せた彼らに比べれば、織田軍の鉄砲衆の練度など取るに足らない。


 織田軍も竹束を前に押し立てて進むなど、決して無策ではなかったが、有効打とはならなかった。

 敵は鉄砲衆だけでなく弓衆もおり、火矢を織り交ぜての射撃によって竹束は無効化されてしまったのだ。


 また、雑賀衆は本城・雑賀城を中心に大小の砦を固め、「雑賀荘」全体を一大要塞化していた。

 たとえ織田軍が敵の抵抗の排除に成功して川を渡れたとしても、なお強固な障害が行手に待ち構えており、これをも突破して雑賀城までを征服するとなると、どれほどの犠牲と時間を要するか見当もつかなかった。


 信長は自軍の戦意昂揚をねらい、本陣を漸次香荘から丹和へ、さらに鳥取と前進させたが、戦況や補給の問題から紀伊国入りは見送られた。

 織田軍の苦戦は京へも聞こえ、戦勝祈願の祈祷が行われるしまつだった。


 まさにそのタイミングで、雑賀衆から降伏が申し入れられた。

 織田信長は、文字通りこれに飛びついた。

 これ以上作戦を継続しても、大きな戦果は期待できない。

 それならば、「名目」だけでも勝利を得ることで、何とか遠征に成功した形だけでも確保しておきたいのが本音だった。


(あるいは・・・こちらの窮状がバレてたのかもしれんな。)


 こちらには根来衆や雑賀三緘衆が加わっており、彼らの一部と敵が水面下でつながっていても不思議はない。

 織田軍の内情についての情報をつかみ、弱みにつけ込む形での和平を求めたのかもしれない。


 雑賀衆にしても、長期戦になったとしてメリットはない。

 自領が戦場になって経済的に大打撃を受けているうえに、近くに助けてくれそうな味方勢力はいないのだ。

 最も近い大坂の石山本願寺は、雑賀衆の軍事力でもってようやく織田軍と対抗できている状態であり、期待はできない。


 ならば、表向きは織田の顔を立てつつ、自分たちに有利な時点で和を結ぶとの選択が意味を持つ。

 十分にありうることだった。


 こうして、何はともあれ織田軍の「勝利」で戦は終わった。

 何とか面目を保った信長は、3月21日に撤退を開始し、香荘へ本陣を下げた。

 そして雑賀衆の動きに備えて和泉国佐野に砦を築くことを命じ、根来の杉之坊の僧兵衆と織田信張を守将として置いた。

 また、佐久間、惟任、丹羽、羽柴、荒木の諸勢の一部を駐留させることにした。


 ただ、薄氷を踏むかのような織田の勝利は、たちまち意味を失うことになった。

 信長たちが引き揚げると、早速鈴木孫一らは織田についた雑賀衆らへの攻勢に転じた。

 また、大坂の石山本願寺への支援の動きもみせた。

 雑賀衆が織田に屈したわけではないことは、誰の目にも明らかだった。

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