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第137話 先馬

伊勢国内の支配力強化をひとまず成し遂げた織田信長は、次の侵攻目標をいまだ足を踏み入れたことのない紀伊へと定めます。


いまや宿敵となった石山本願寺を打ち倒すため、その有力な軍事力を提供する紀伊国の雑賀衆を屈服させる作戦でした。

 天正5年(1577年)2月、俺は久しぶりに戦場に身を置いていた。

 丹羽長秀の軍勢に加わり、京を進発して和泉国の海岸沿いを南下し、紀伊国へと向かっていたのだ。


 織田信長は前年に伊勢の北畠一族の主だった者たちを誅滅し、伊勢の支配力を強めただけでなく、隣国の伊賀・大和・紀伊などへの北畠家の潜在的な影響力を排除することに成功していた。

 その成果を活かし、信長が次に目をつけたのは紀伊国だった。


 紀伊国と言えば、石山本願寺に有力な軍事力を提供する、鉄砲集団として名高い雑賀衆の本拠地がある。

 これを直接攻撃して一向宗の片腕を切り落とそうと言うのが信長の狙いであった。

 まさに「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」だ。


 もっとも、他に手立てがないという事情もあった。

 重臣・佐久間信盛の指揮のもと、石山本願寺の陸上包囲はひとまず完成し、長期戦の様相を呈している。

 石山本願寺に対し、海上輸送によって後方支援を担当する毛利水軍ははるかかなた芸予諸島におり、到底すぐに叩ける相手ではない。

 さしあたって攻撃できる対象は雑賀衆しかなかったのだ。


 雑賀衆、と短い言葉で通称されるが、その実態は紀伊国北西部の紀の川河口付近(現在の和歌山市や海南市)に領地を持つ小領主たちの集合体だ。

 この時代では珍しくない「一揆」または「惣」という形態の政治勢力であった。

 1つ1つの力は小さいものの、利害関係や地縁、血縁で結びつき、巨大な1つの勢力を形成し、大名などの大勢力と対抗するという弱者の戦略なのだ。


 似たような存在としては、近江国の湖西における一大水上勢力である「堅田衆」、有力商人「会合衆(えごうしゅう)」によって統治され、和泉国だけでなく畿内においても巨大な影響力を持つ堺などがある。

 石山本願寺を総本山と仰ぎ、各地の一向宗寺院を中心に地侍や門徒が参集して勢力を張る「一向一揆」も同様の存在と言えるだろう。

 加賀国などはもう百年近くも国全体が「百姓の持ちたる国」となっている。

 この時代では戦国大名家の多くでも有力家臣たちとの合議によって意思決定がなされており、むしろ信長による独裁が揺るぎない織田家のような存在の方が珍しいのだ。


(まるでスイミーの話みたいやな。)


 至るところで一揆を結び、大勢力と対抗している様子を見るにつけ、俺はそんなことを思う。

 現代の小学生時代に国語の教科書で見た、スイミーという話にそっくりなのだ。


 その話は、黒い小魚スイミーと彼が出会った赤い小魚の群れが、知恵をしぼって大きな魚に対抗する話だ。

 スイミーたち小さな魚は、大きな魚の前には無力で、ただ隠れてやり過ごすことしかできなかった。


 そこで、スイミーは皆が集まって泳ぐことで敵よりももっと大きな魚を装い、撃退することを提案する。

 そして見事に大きな魚の目をあざむき、追い返すことに成功するのだ。

 小が大に対抗しようとする場合、時代や洋の東西を問わず人は似たような考えに行き着くらしい。


 だが、一揆は外観こそ一枚岩ではあるものの、「直接民主制」や「寡頭共和制」という体制である以上、案外もろい構造であるという弱点があった。

 先のスイミーの話で例えると、小魚によって出現した大魚はスイミーという「指導者」がいなければありえなかった。

 共同体全体の利益を考え、その維持のため適切にリーダーシップを取る存在がいなければ、その力を発揮することは難しい。

「船頭多くして船山に登る」というやつだ。


 また、リーダーがいれば安心かと言えば、そういうわけでもない。

 人間という生き物は、つまらない感情で容易く他人の足を引っ張る行動に出る。

 スイミーは自分の体色が黒という独自性を活かし、大魚の目となることを買って出たが、これとて下手をすれば嫉妬心などのよくわからない感情によって非難され、和が乱れるかもしれない。

「出る杭は打たれる」のだ。


 実際、俺たちがこれから戦う雑賀衆も分裂状態にあった。


 雑賀衆は五(からみ)(五組)によって成ると言われている。

 紀の川を挟み、海岸沿いの北に「十ヶ郷」、南に「雑賀荘」の二緘があり、内陸部には紀の川の南に「宮(社家)郷」・「中郷」・「南(三上)郷」があって、これらを総称して雑賀衆と呼んでいた。


 このうち、織田軍に対して抵抗の意志を見せているのは、海岸部の「十ヶ郷」と「雑賀荘」二緘だけだ。

 他の三緘は大部分の根来衆(紀伊国にある新義真言宗の総本山・根来寺が抱える僧兵集団)とともに織田家に味方しており、要は雑賀衆は東西で分裂していたのだった。


 彼ら三緘は地理的に根来寺に近く、政治的・宗教的にも近い関係にあった。

 ハッキリ言えば、彼らのほとんどは一向宗とは別の宗教を奉じる集団で、石山本願寺がどうなろうが関係なかったのだ。


 ただ、東西分裂は宗教的背景だけによるものではなかった。


 実は一向宗の寺院が集中し、石山本願寺と関係が深いのは「十ヶ郷」であり、その中心勢力である鈴木家だ。

「雑賀荘」の指導的立場にある土橋(つちはし)家は、根来寺の上層部に一族を送り込むなど、宗教的には東の三緘と近い立場にある。


 にも関わらず西のニ緘が手を結んで織田家に敵対したのは、結局経済的理由によった。

 川沿いの肥沃な農地に恵まれ、極端なことを言えば土地を守ることができれば、どの勢力に属しても構わないのが東の三緘だ。

 一方、西のニ緘は砂地だらけの痩せた土地に住み、漁労と交易で生きるしかなかった。


 とりわけ重要なのが交易で、西国との通商による利が彼らの経済力と軍事力の裏付けとなっている。

 薩摩との交易が盛んであったからこそ、最新兵器である鉄砲をいち早く入手できたし、交易の利があったからこそ鉄砲の購入や生産を大量に行えた。

 さらに、傭兵業という新たなビジネスも生み出すことができた。


 楽市楽座や関所の撤廃など一部で既存の経済圏を壊すことも辞さず、自分に有利な経済圏を再編しようとする信長は、主に交易で生きる雑賀衆にとっては脅威でしかなかったのだ。

 だからこそ、少ない戦力しか確保できなくても生存をかけて抵抗することに決めたのだ。


 これに対し、織田軍は石山本願寺攻めをしのぐ、かつてない規模の軍勢を動員していた。

 信長は2月2日に雑賀の三緘と根来寺の杉之坊から味方する旨の誓紙を受け取ると、13日には雑賀へ出陣すると諸国へ指令を発した。

 いまや信長の本国となった近江、嫡男・信忠が管轄する美濃・尾張、信長の次男・北畠信意、三男・神戸信孝、弟・長野信包らの軍勢を中心とする伊勢、五畿内(大和、山城、摂津、河内、和泉の5ヶ国)、さらに越前・若狭・丹後・丹波・播磨といった各国の織田家に従属する諸家の軍勢に召集がかけられたのだ。


 信長は安土を出発し、9日には京へ入った。

 予定通り13日には京を出陣し、河内方面へ向かったが、この時までに信忠ら東国の軍勢は京周辺に集結していた。

 さらに南下して16日に和泉国香庄(こうのしょう)に本陣を構えたころには、ほぼ全軍が集結を完了していた。

 翌17日には根来衆や雑賀の三緘衆も参上した。


 そこからはいよいよ敵地に臨むことになるのだが、幸先は良かった。

 和泉国貝塚に一揆勢が立て籠ったいたが、織田の大軍に肝をつぶし、夜のうちに舟に乗って逃げ散った。


 信長はさらに本陣を進め、18日に和泉国佐野、22日に和泉国志立(信達)へと移った。

 ここから先はもう紀伊国だが、大軍の利を活かし、信長は軍を大きく2つに分けて進撃することにした。


 一軍は東に大きく迂回させ、地元の根来衆と雑賀の三緘衆を案内に立てて、佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・別所重宗・堀秀政ら摂津・播磨の諸勢を送り込んだ。

 また、後方支援として稲葉一鉄父子や氏家直通らが続いた。


 もう一軍はまっすぐ南下することになり、俺が属したのはこちらだった。

 こちらは滝川一益・惟任光秀・丹羽長秀・細川藤孝ら重臣の軍と筒井順慶ら大和勢が第一陣となり、織田信忠・北畠信意・神戸信孝・長野信包ら一門衆が第二陣となった。

 その後ろには信長の本軍が控える重厚な布陣であり、死角はないように思われた。


 しかし、当初は順調だった行軍は、和泉国丹和(たんのわ)(淡輪)まで来ると、怪しくなってきた。

 南下する道は狭い一本道しかなくなり、しかも山越えをしなければならないとのことだった。

 ここからは難所が続き、紀伊に入った後も今度は川や湿地が入りくむやっかいな地域を抜けていく必要があるらしい。


 早くもこの遠征の困難さを思い、俺は不安を感じ始めた。

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