第136話 連鎖
伊勢国で突如降って湧いたように起こった大事件は、さらなる余波を生みました。
その「処理」が淡々と進むなか、織田信長は三河国吉良へと鷹狩に向かいます。
信長にとってはすでに終わった事件ながら、その影響は三河で待つある人物の思わぬ反骨を育てる結果をもたらしたのでした。
伊勢国内の北畠一族を震撼させた粛清劇から20日あまり。
事件の首謀者のひとり北畠信意(後の織田信雄)の居城・田丸城では、急きょ防御施設の改修工事が行われていた。
主だった具教一派の北畠一族を誅殺することには成功したが、伊勢国内には不穏な空気が漂っており、念のために城の強化を行うことになったのだ。
もっとも、これまで具教らが殺されたことに直接的な反発を示した者はほとんどいない。
唯一と言っていい反応は、元の北畠家の本拠地である多気郡霧山城に立て籠もった北畠政成くらいだった。
彼はその名が示す通り北畠一族であり、「多気御所」と通称された霧山城を預かる重臣でもあった。
その立場から言って、今回の事件で危うく難を逃れてきた者たちを保護し、反旗を翻したことじたいはある程度予想できることだった。
また、政成の挙兵に呼応する勢力がほとんどなかったことも想定通りだった。
政成は信意の養父・北畠具房の義兄(妹が具房の妻)ではあったものの、所詮は傍系の北畠一族でしかない。
彼自身を信意に対抗する北畠当主として押し立てるには、血統面で不十分だ。
この点、具房以外の北畠直系を同時に消した織田側の作戦が奏功したと言えるだろう。
結局、霧山城を助ける外部勢力はついぞ現れず、城は織田方に包囲され、わずか10日ほど後の天正4年(1576年)12月4日に落城した。
北畠政成以下の主だった将は自刃し、伊勢国内は沈静化した。
・・・かのように見えた。
だが、不安の種は国外に残っていた。
北畠具教の弟に大和国興福寺の東門院院主となっている者がいたが、その者が兄たちの非業の死を知って激怒し、復讐を誓って姿をくらませていたのだ。
彼は奈良を脱出した後、隣国の伊賀に入り、「北畠具親」と名乗って活動を開始しているらしい。
すでに伊勢国内で「北畠家当主・具親」の名による檄文も出回っているようで、水面下でそれに呼応しようとする動きもあるとの噂が広がっていた。
具親が伊勢国内に入って来て挙兵すれば、どのような規模の争乱が起こるかもわからない。
最悪の事態に備え、田丸城の普請が行われているというわけだった。
北畠信意の重臣・津田一安は、この日(12月15日)もいつものように責任者として普請場の見回りを行っていた。
一安と言えば、田丸城で長野具藤ら北畠一族を殺戮しているとき、涙ながらに刃を振るっていた男だ。
織田一族でありながら北畠家とも縁戚関係にあり、織田と北畠の平和共存を願っていた彼だったが、すでに気持ちは切り替えていた。
過去をいくら嘆いても、もう戻ることはないのだ。
彼には北畠信意の重臣としての立場があり、今は与えられた普請の責任者としての役割を全力で果たすことに注力しようとしていた。
仕事に没頭することで、ともすれば脳裏に蘇ってくる惨劇を少しでも忘れてしまいたいとの思いもあった。
熱心に作業の様子を見回っている一安の前方から、日置大膳亮がやって来るのが見えた。
日置は元々北畠家の家臣だったが、織田軍が侵攻してくるといち早く降伏し、今では信意の信頼厚い家臣のひとりとなり、寺社奉行を務めている。
(寺社奉行の日置が・・・はてな?)
一安は若干不審を抱いたが、その間にも両者の距離はどんどん縮まってくる。
不審感はいったん脇に置き、一安は立ち止まって会釈をした。
日置は自分より上席の一安に道を開けて一礼をすべきであるが、お構いなしに近づいてくる。
無礼な、と一安が思った刹那。
「上意!」
叫び声とともに刀身が一閃し、一安は激痛とともに倒れ伏した。
一瞬の静寂の後、現場は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
さすがにこの時代の武士たちは場慣れしており、日置が乱心したと見てこれを取り押さえようとする者もいる。
「乱心などしておらぬ!上意じゃ。逆臣津田一安を始末せよ、とのご上意により、この大膳亮が討ち果たした!!」
上意という言葉を聞き、日置を取り押さえようとする者はいなくなった。
(上意とは、上様の命か、それとも・・・)
自分を処断するように命じたのは織田信長か、それとも北畠信意か。
答えの出ぬ問いを繰り返しながら、一安の意識は薄れていった。
「仕留めたか!!」
日置の報告を興奮の面持ちで聞いたのは北畠信意だ。
先日の事件から、自分が当主となって初めてその力を実感し、浮かれ気味なのだ。
自らは手を汚さず、凄惨な現場を一切見ていないこともあり、自分の権力が行使されていることだけを喜び、殺された者への感傷など皆無であった。
「早速、上様へご報告せよ!」
急使は安土でも岐阜でもなく、尾張国清須城に走った。
信長は三河国吉良へ鷹狩りに行くと言い出し、2日前の12月13日から清須に滞在していたのだ。
「そうか。」
津田一安の誅殺成功を聞いた信長の返事はそっけないものだった。
北畠一族だけでなく、一安の生死じたいには関心は薄いらしい。
大事なのは、息子の信意の権力を脅かす存在がいなくなるかどうかであり、不穏分子と結びつく恐れがぬぐいきれない一安を排除できるかどうかだ。
そして、いまその脅威は永遠に排除されたわけだった。
信長は、なお数日清須に留まり、伊勢方面に目立った動揺がないことを見極めると、三河へ向かった。
こうして潜在的な不満分子まで殺しつくしたことで、伊勢の支配は安定をみた。
翌年に北畠具教終焉の地である三瀬を中心に展開される北畠具親の挙兵も、さしたる脅威とならず平定されることになる。
しかし、非情な仕打ちは思わぬ方面に波及するのだった。
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12月25日、信長の姿は三河国吉良にあった。
この3日間は鷹狩り三昧で、しかも大漁だった。
独自の方法を編み出したほど鷹狩りに思い入れの強い信長だ。
素直に獲物の鳥の多さを喜び、終始上機嫌だった。
また、鷹狩りは一種の軍事訓練でもある。
馬廻衆や小姓衆が機敏に動き、軍隊組織として優秀さを証明していることも信長の上機嫌の一因だった。
「上様。岡崎三郎様がお見えにございまする。」
「おう、婿殿が。それはよい、ここへお通しせよ。」
しばらく後、幕を張り巡らせた信長の本陣へ案内されてきたのは、徳川家康の嫡男・徳川信康だった。
彼は父よりかつての本拠地・岡崎城を預かり、「岡崎三郎」を通称としていた。
信長の長女・徳姫の夫であり、織田・徳川両家の結びつきを体現する存在でもあった。
「父・家康の名代としてまかり越しました、岡崎三郎信康にございまする。内府(内大臣の通称。信長は11月21日に内大臣へ昇進していた。)様のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ・・・」
「さような堅苦しい口上はよい。よう参られた。婿殿と出会うたは確か・・・昨年の長篠表の戦の折であったかな。」
「・・・左様にございまする。」
「どうじゃ、五徳(徳姫のこと。)は息災か?」
「息災にござる。」
「登久姫(信康と徳姫の長女。信長の初孫にあたる。)はどうじゃ?」
「これまた息災にて・・・」
「おう、それは重畳。聞けば、五徳はまた身ごもっておるそうな。次は世継に恵まれると良いがのう。」
「・・・そう願っておりまする。」
途中からは一方的に信長が喋り続ける結果となった。
いつになく上機嫌の信長に押しまくられた感じで、信康は消化不良の感じが拭えないまま対面を終えた。
信長は娘婿に精一杯の親愛の情を示していたのかもしれないが、信康は改めて苦手意識を持った。
単純に信長と合わないというだけではない。
信康は織田家に対して含むところがあった。
元々は対等の盟約を交わして同盟関係をスタートさせた両家であるのに、いまや徳川家は完全に織田家の下風に立たされている。
そのことが、信康にやり場のない怒りを抱かせるのだ。
勢力を急拡大させた織田家と徳川家では勢力格差は歴然であり、武家のルールから言っても織田家が上位の存在になることは、信康も頭では理解している。
だが、常に織田家の顔色を伺うようにして振る舞う父・家康の姿を見るにつけ、信康は言いようのない情けなさを感じてしまう。
また、妻の徳姫も信康に負けず劣らず気の強い女性であり、信康はともすれば織田家の傲慢さのようなものを感じ取ってしまうのだ。
信康の母で岡崎城に住む築山殿が徳姫を嫌っているのも、信康の思考に大きな影響を与えていた。
今年長女・登久姫に恵まれ、妻は今も第2子を妊娠中だが、最近では夫婦仲は冷える一方だった。
もし世継となる長男が生まれなければ、いよいよ信康と徳姫をつなぐものはなくなってしまうことだろう。
(伊勢の行状、相当に酷いようじゃ。北畠の者のみならず、単に北畠に心を寄せたというだけで津田一安をも上意討ちにしたとそうな・・・。我が徳川とて、いつ寝首をかかれるかわかったものではない!)
ここのところのもやもやとした思いが、次第にひとつの方向へと収斂しつつあった。
信康の心に織田と織田に媚を売り続ける父・家康への反骨が芽生え始めたのだった。
この時期、忙しい合間をぬって三河国吉良へと鷹狩りに出かけたのはなぜか、資料は黙して語りません。
この直前に伊勢で大規模な粛清が行われているため、筆者は伊勢方面の動静を見極めるためと考えました。
吉良に信康がやって来たとの話はどの資料にも出てきませんが、この年信康と徳姫の間に長女が生まれており、信長も初孫の誕生に高い関心を持っていたことが想像できます。
岡崎へ寄った記録はないものの、信康とは何らかの形で会っていた可能性は十分にあると推察し、その方向で物語を展開させました。
また、信康が後年の悲劇を迎えるまでにどのような経緯があったか詳細はわかりませんが、そのきっかけをこの時点に置くことにしております。




