第135話 惨殺
伊勢国担当の重臣・滝川一益に対し、大船建造とともにある密命を下した織田信長。
その命令を忠実に実行に移した一益によって、伊勢国のある名族を惨事が襲うことになります。
天正4年(1576年)11月25日。
伊勢国多気郡三瀬にある三瀬館の周囲はここ数日来降り積もった雪により、一面白銀の世界となっていた。
この日も空はなお曇り、チラホラと白い雪が待っていた。
三瀬館の主、北畠具教は奥まった一室で大きな背中を丸めるようにして座っていた。
塚原卜伝や上泉信綱といった当代一流の剣豪に剣を学び、卜伝からは奥義「一の太刀」まで授けられた猛者にしては寂しい姿である。
(もう少しばかり、暖かい場所に隠居城を持ちたかったわ。)
寒さの苦手な具教は、心の中でぼやいた。
だが、その思いを口に出すことは、はばかられた。
周囲を代々の家臣たちで固めているとは言え、誰が聞き耳を立てているかわからない。
めったなことを言えば、反逆の意思ありとして処断されてしまうかもしれないのだ。
具教は南北朝時代から伊勢国司を世襲し続けてきた名門北畠家の元当主であった。
かつて伊勢国内において何ら遠慮することなど必要なかったのに、無理やり隠居させられてからと言うもの、名ばかり「御所」と尊称されている山奥の館に押し込められ、不自由な生活を強いられている。
すべては現当主の北畠信意(織田信長の次男。後の織田信雄)とその父である織田信長のせいだった。
永禄12年(1569年)、侵攻してきた織田軍に敗れ、信意(初名・具豊)を養嗣子(跡継ぎとなる養子)として迎えることを約束させられてから具教の没落は始まった。
当初はそれまで通り家中の実権は具教の手にあった。
具教の嫡男で当時の当主であった具房の養子として押し付けられた信意は幼く、しかも平凡な資質の子供だったためだ。
だが、信意が成長して元服し、家督を継いでからは具教の権力は次第に制限されるようになっていく。
それでも具教は「大御所(元当主)」の立場で文書を発給し続けたが、昨年途中からはそれすらもかなわなくなった。
いまや北畠家の実権は当主・信意の手にあり、実際にはこれを補佐する滝川一益が信長の命を受けて統治を行っている。
もはや具教の威令が及ぶのは住んでいる三瀬館の中のみと言っても過言ではなく、鬱屈した思いを抱えて日々を過ごしていた。
晴れた日などは得意の武芸の鍛錬などに精を出し、汗を流すのが日課であったが、このところのように雪に閉ざされてはそれもかなわない。
具教は暖かくした小部屋に引きこもり、澱んだ空をうらめしく見つめることしかできないのだった。
それでも、部屋の中は賑やかだった。
具教の膝の上にはまだ幼い五男・亀松丸が座り、隣では1つ歳上の四男・徳松丸が「特等席」を奪い返そうとして、父の足をよじ登りつつ、きゃっきゃと歓声をあげている。
(この子たちのためにも、何としても北畠の家を再興せねばならぬ。)
無邪気に笑う息子たちを穏やかな顔で眺めつつ、具教はその思いを強くした。
まだ49歳、気力体力が充実している彼にとって、織田家の顔色をうかがいながらの生活は息が詰まった。
自分の子供たちの将来を開くためにも、実権を取り戻さねばならぬ。
そのためにも、いまは隠忍自重して機会を辛抱強く待つしかない。
数年前に武田信玄と秘かに通じていることが露見し、そのことが現在の苦境につながっていることを考えれば、無理は禁物だった。
「御屋形様。長野左京亮殿、藤方刑部殿の名代・加留左京進殿、柘植三郎左衛門殿が挨拶に見えられましてございまする。」
「左京亮らが?はて!?」
長野左京亮は北伊勢の有力国衆・長野家の一族であるとともに北畠家の重臣、藤方刑部少輔は北畠一族だ。
柘植三郎左衛門は北畠一族の木造家の重臣であり、その甥で木造家出身の滝川雄利は縁組によって織田の重臣・滝川一益の義理の甥となっていた。
いずれも現在の北畠家主流派に属し、具教との交流はめっきり薄れている者ばかりだ。
「・・・広間に通せ。くれぐれも丁重にな。」
取り次いだ近習の佐々木四郎左衛門に対し、具教は面会する意思を示した。
当然、最近疎遠になった者たちの突然の来訪に不審の念はあった。
だからといって会わなければ、どんな勘繰りを受けるかもしれない。
しかし、具教の嫌な予感は現実のものとなった。
具教は左京亮らが待つ広間に入るやいなや、異様な空気を感じ取った。
左京亮の右側には本来対面の場にはありえない、槍が置かれている。
「御覚悟っ!!」
突然、左京亮は槍をつかむと、具教に向かって繰り出した。
具教は危うくかわし、後ろに控える佐々木四郎左衛門が持っていた太刀を奪いとった。
むろん応戦するつもりである。
が、抜けない。
よく見ると、刀の鍔と鞘にはぐるぐる巻きに縄が巻かれ、容易に抜けないように細工がしてある。
誰が、とは考えるまでもない。
具教の近習・佐々木四郎左衛門は、主人を助けるどころか逃亡を防ごうと立ちはだかっていた。
(近習までもが寝返りおったか・・・!)
加留、柘植の両者も抜刀し、具教に迫る。
いくら名うての剣客といっても、丸腰では勝ち目はない。
数瞬後、具教は全身を朱に染めて倒れ伏した。
「外へ合図せよ!徳松丸ぎみ、亀松丸ぎみの御命も頂戴つかまつれ!!」
左京亮らの家臣が門を開け、城外で合図を待っていた左京亮らや滝川雄利の配下の軍勢を引き入れた。
さして広くもない館内は、たちまち血の海となった。
最後まで具教に忠誠を尽くした十数人がここを死に場所と決めて奮戦し、散っていった。
哀れなのは、まだ年端もいかぬ具教の幼い息子たちだ。
突然踏み込んできた荒々しい軍兵たちによって、まるで虫でも殺すかのように無造作に刺し殺された。
左京亮らの凶行は、もちろん信長の密命によるものだ。
それを受けて滝川一益が陰謀の画を描き、実行犯たちはわざわざ安土の信長から召喚され、本領安堵(現在の領地の保持を主君が保証すること)の朱印状を直々に授けられるほどの念の入れようだった。
ただ、その仕掛けはこれで終わりではなかった。
同じころ、北畠信意の居城・田丸城においても大規模な粛清が行われていた。
こちらでは日置大膳亮、土方雄久、森雄秀、津田一安、足助十兵衛尉、立木久内といった信意付きの織田家臣たちが合図の鐘とともに一斉に牙を剥いた。
惨殺されたのは長野具藤(具教の次男)、北畠親成(具教の三男)、坂内具義(具教の娘婿)といった北畠具教につながる北畠一族だ。
かれらを屠った後、城内の邪魔な具教派の北畠一族はしらみつぶしに消された。
凄惨な現場であったが、下手人の織田家臣たちは淡々と任務をこなしていった。
彼らにしてみれば主君である信長・信意父子の命令という大義名分があり、またこの時代には流血の戦闘行為が珍しくなかったこともあって、特別な感傷などなかったのだ。
いや、正確には1人だけ目を潤ませ、涙を流しながら北畠一族を手にかけていく者がいた。
下手人たちのなかでは長老格の津田一安だ。
彼は元の名を織田掃部助忠寛と言い、やや遠縁ながら信長と同じ織田一族にあたる。
かつては長く対武田外交の責任者を務め、北畠家が織田の勢力下に入ったのちは滝川一益とともに信意の後見人の地位につけられた。
ただ、彼はその役目のなかで北畠一族と関わるうち、織田と北畠の融和を誰よりも強く望むようになっていた。
彼自身も北畠家と縁続きになっていたこともあり、さすがに今回の陰謀を漏らすことこそなかったが、最後まで反対の立場を取り続けた。
遂に同意した後も、幼少の者を殺さないように主張したり、北畠一族の遺児の養育を買って出るなど、排除されゆく北畠家に同情的だった。
そんな彼だからこそ、力及ばず自分の手を汚すことになり、頬を伝う涙を抑えきれなかったのだった。
田丸城の粛清も短時間で終わり、北畠信意とその養父・具房を除く主だった北畠家の直系のほとんどは抹殺された。
討ち漏らされた北畠一族はいるにはいたが、すでに旗印になるような大物は軒並み消された後であり、残党が蜂起したとしてもたかがしれていると思われた。
こうして、伊勢国は事実上織田家の直轄領となった。
それに伴い、京の外港として古来より栄えた大湊もまた、織田家が自由に使えることとなった。
また、伊賀・大和・紀伊など織田家の支配力があまり浸透していない周辺諸国と結びつく恐れのある内部勢力も一掃されたのだった。
一連の粛清劇は、直ちに安土の信長のもとへ知らされた。
「であるか。」
報告を聞いた信長の返事はそれだけだった。
彼の関心はすでに別のことへと移っていたのだ。
ただ、一瞬の後、思い出したように右筆(書記)に何事かを書き取らせ、滝川一益へ送った。
こうして新たに下された密命により、なおも粛清の刃が振るわれることになるのだった。
北畠家の粛清については『信長公記』には記述がありません。
よって、『勢州軍記』などの記述をもとにし、筆者の妄想で書き綴りました。
なぜこの時期に粛清が行われたのかは謎ですが、海軍力の強化のために伊勢国を直接掌握したかったこと、次に出兵を予定していた紀伊国と北畠家の関係が深いことなどが関係していたと筆者は見ています。
それにしても、戦国の世にはありふれた粛清劇とは言え、物心つくかどうかの幼児が殺されていることは、痛ましいとしか言いようがありません。