第134話 栄進
初の大規模な海戦に惨敗した信長は、さしあたって佐久間信盛を大将とする陸上の大坂包囲陣を立て直すことで石山本願寺の包囲作戦を継続しました。
しかし、水軍をはじめとする毛利軍への対処を考えなければならないのは明らかでした。
近々起きるであろう毛利との再戦に向け、信長は対応を考え始めていました。
天正4年(1576年)7月に生起した木津川口の海戦は、織田水軍の大敗に終わった。
敗戦じたいも手痛い打撃だったが、それ以外にも大きな影響を与える敗北だった。
この敗戦が浮き彫りにしたのは、次の5点だ。
①直接刃を交えたことで、毛利家との手切れ(国交断絶)が決定的となったこと。
②毛利水軍による補給を阻止できなかったことで、石山本願寺との戦いが長期化することは避けられなくなったこと。
③毛利水軍の戦闘力が織田水軍のそれをはるかに凌駕することが、誰の目にも明らかになったこと。
④早ければ数ヶ月後に再び起こるであろう、毛利水軍による2回目の補給作戦を阻止するため、海軍力の整備が急務であること。
⑤毛利水軍への対処だけでなく、陸上戦力を用いての攻撃も考えなければならないこと。
このうち、①について信長は来るべきものが来たという思いを持ったに過ぎなかった。
安土へ本拠を移すことを決めてからというもの、次の侵攻対象が西国へ向けることは既定路線だったからだ。
それに、京を追われた将軍・足利義昭が昨年の夏頃から毛利家へ身を寄せ、いまは備後国鞆の浦にあって、さかんに各地の大名へ信長打倒を呼びかける手紙を送っていた。
いまや毛利家を主軸とする信長包囲網が作られつつあり、開戦は時間の問題だった。
また、②についても、元々長期戦になることは付城を築いて包囲を始めたときから覚悟はしており、1年かそこら延びたところで、そこまで深刻なダメージはなかった。
早速、真鍋七五三兵衛らの戦死によって手薄になった住吉海岸沿いの城も強化し直し、包囲陣の立て直しを図っていた。
もっとも、この後長々と4年近くも続くとまでは信長も想像できなかったのだが。
問題は、④の海軍力の整備と⑤の陸上攻撃作戦の実施だ。
特に⑤の陸上攻撃はなかなかすぐには取りかかれない難題だった。
何しろ、毛利家の本拠である安芸国ははるかかなたにある。
織田家の勢力圏の西端にあたる摂津国からみても、間に播磨・備前・備中・備後の4ヶ国が横たわっており、まずはこれらの国々を征服しなければならない。
ただ、あまり悠長に構えていられない事情もある。
実は、4ヶ国のうち備中と備後の両国はすでに毛利家の支配下に入って久しい。
また、その東隣にある備前も毛利方の宇喜多直家が元の主人である浦上宗景を破り、一国の領有を成し遂げていた。
織田家の重臣で摂津国守護の荒木村重が浦上家へひそかに兵糧の援助を行っていたのだが、遠方のため直接的な支援を行えなかったこともあって失敗に終わっていたのだ。
つまり、現状では播磨国を除く山陽道の諸国はのきなみ毛利家の支配下に入りつつあり、その手は播磨へも伸びようとしていたのだった。
このまま播磨まで毛利の勢力圏に入ってしまえば、織田家の畿内支配も揺らぐ恐れがある。
せめて播磨だけは押さえておかねばならないが、そのためには誰か1人重臣を派遣して播磨の攻略に専念させる必要があるだろう。
広大な播磨一国だけでなく、事実上対毛利最前線を担う重要な役割なのだ。
そのような重大な任務を任せるとなると、数多いる織田家臣と言えど務まる人間は限られてくる。
だいたい、そんな重要人物ならすでに何かしらの専任の作戦区域を任されている。
例えば、織田信忠は徳川家康とともに東国を、惟任光秀は丹波を、柴田勝家は北陸を、滝川一益は伊勢を、そして佐久間信盛は大坂を、といった具合だ。
戦場ではないが、丹羽長秀もまた、安土城築城の総奉行という重要任務についている。
彼らを担当区域から引っこ抜いて播磨へ投入するのは現実的ではなかった。
いや、1人だけ「遊んでいる」男がいた。
信長の脳裏には、ある男の姿が浮かんでいた。
「そちに播磨の取次(外交責任者)を任せる。しかと励め!」
「ありがとうございます。この秀吉、必ず播磨を上様のものとしてみせまする!!」
信長が対播磨の責任者に任命したのは、長浜城の築城を終え、現状では専任の戦域も持っていない羽柴秀吉だ。
これは、信長が秀吉の調略の才を買っての抜擢だった。
残念ながら現状の織田家には播磨へ常時大軍を張りつけておく余裕はなく、秀吉が播磨攻略に当てにできるのは自前の3,4千ほどの兵力しかない。
まずは外交によって播磨国内の諸勢力を味方につけ、彼らの軍事力を取り込む必要があるのだ。
秀吉を播磨国に関する外交窓口としたのは、そういう目的に沿うものだった。
秀吉ならば対浅井の最前線を少ない兵力で危なげなく支え続けただけでなく、その後の内政にも手腕を発揮していた。
北近江と播磨が物理的にやや離れているのは不安だが、彼ならそこは巧くやるだろう。
もうひとつ、秀吉には強みがあった。
昨年の夏、播磨国の有力勢力のひとつ小寺家の家老・黒田官兵衛孝高という者が秀吉の仲介によって信長に対面し、小寺家の織田家への臣従を申し出たことがあった。
このときから秀吉は播磨国とのコネクションを持つようになっていたのだ。
信長の命を受けた秀吉は、早速播磨の官兵衛と連絡をとり、活発な調略活動を開始した。
さいわい、この時期の播磨は調略がしやすい環境にあった。
播磨国は元々室町幕府で「四職」と呼ばれた名門の赤松家の本拠だったが、この時期には赤松本家はすでに没落し、龍野城の龍野赤松家、三木城の別所家、御着城の小寺家、有馬城の有馬家といった赤松の分家が独立割拠する状態になっていたのだった。
このうち、小寺家は昨年から織田家に臣従していて、家老の黒田官兵衛は秀吉の手先のようになっている。
秀吉と官兵衛の狙いは、赤松本家の娘婿である龍野赤松家と最大の勢力を持つ別所家という最も播磨国内で影響力を持つ2家だった。
この2家が完全に味方につけば、他の家は雪崩を打って織田へ味方するに違いなかった。
11月12日、龍野赤松家当主の赤松広秀、別所家当主の別所長治と叔父で後見人の別所重宗、そして毛利方の宇喜多直家に備前を追われて小寺家へ身を寄せている浦上宗景らは京で信長に面会した。
織田と毛利が戦った後にも関わらず、わざわざ上京するということは織田に味方すると表明したということだ。
こうして、播磨問題は秀吉・官兵衛の働きにより、早々に片付いたかに見えた。
しかし、思わぬ火種がくすぶり始めていた。
播磨国の東隣の摂津国を取り仕切るのは、いまや織田家の重臣に列した荒木村重である。
彼は備前の浦上家を支援してきただけでなく、隣国播磨の諸勢力とも密接に連絡をとり、例えば龍野赤松家の臣従についても仲介役を続けてきた。
それを頭越しに秀吉にいいところを持っていかれ、期待していた播磨国の取次役は村重の手からすり抜けてしまった。
「所詮、外様は外様かっ!!」
居城・有岡城において秀吉の人事を知った村重は、悔しさのあまり吐き捨てた。
摂津国出身で織田家にとって「よそ者」でしかない村重は、いくら信長が才能ある者をどんどん抜擢すると言っても、やはりどこかしら疎外感を感じないではいられなかった。
今回の人事も、尾張出身で織田家叩き上げの秀吉だから決まったことなのだ、と。
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山陽道方面の計略を秀吉に任せた信長は、残る海軍力の強化について考えを巡らしていた。
村上海賊衆が繰り広げた戦法について詳報を得た信長は、その緻密さと威力に驚嘆した。
機動力に優れた中小型の軍船によってなされる火器攻撃は、一朝一夕で身につくようなものではない。
今後も海上において近接戦闘に持ち込まれる事態に陥れば、愚の骨頂だろう。
練度の違いによって、今回以上の被害をこうむる可能性すらある。
では、どうやったら勝てるのか。
信長が出した答えはアウトレンジ戦法、すなわち距離をとって戦い、接近戦に持ち込まれないようにする戦い方だ。
近づかれると手に負えないのだったら、近づかれないように戦えば良いのだ。
この間の戦で使ったよりももっと大きな船を用意し、もっと長い射程を持った銃器を装備すればいい。
信長は、その戦法の研究と準備を壊滅状態に陥った和泉国の海賊衆ではなく、別の海賊衆に任せることにした。
志摩国の海賊衆である九鬼嘉隆とその上役に当たる伊勢国の責任者、滝川一益だ。
伊勢には日本一とも称される大湊という大きな港があった。
ここならば信長が思う大船もつくれるに違いない。
信長の呼び出しを受け、安土に出頭した両者は、全力を尽くして大船の建造と村上海賊衆に打ち勝つ方法の研究に取り組むことを誓った。
そのまま退出しようとする滝川一益に対し、信長はしばし待てと声をかけた。
「そちには、別に申しつけたき儀がある。近う寄れ。」




