第131話 弊履
木津砦をめぐる戦いで大敗し、主将の原田直政までが討ち死にするなど緊迫した情勢を受け、信長は自ら出陣を決意します。
しかし、その焦る気持ちだけが先行し、麾下の軍勢はなかなか集まらず・・・。
追い詰められた信長は、決死の行動にうって出ます。
天正4年(1576年)5月7日、河内国若江城に滞在中の織田信長は、一昨日から続くイライラを抑えきれず、逸る自らの心を持て余していた。
木津砦攻略の失敗と原田直政の敗死を聞き、取る物とりあえずといった状態でこの若江城に入ったのが5月の5日。
すでに麾下の武将たちには出陣の指令が送られ、ボツボツとこの若江城に入城しはじめているのだが、圧倒的に足りないのが現状だ。
敵の重囲に陥っている天王寺砦からは、ひっきりなしに救援を求める使者がやって来る。
使者たちはみな、あと何日持ちこたえられるかどうかわからない、といった悲痛な叫びを携えていた。
「待てど暮らせど兵は来ず、やっと参ったと思えば、将領のみ。かような有様でどうして戦えようか。こうしている間にも、天王寺は落ちてしまうぞ!」
もはや悪態としか言いようのない不満を喚き散らし、信長はイライラと歩き回っていた。
京から出陣命令を発してもう4日になると言うのに、若江城に集まってきた兵力はわずかに3千を数えるほど。
中には急を聞いて駆けつけたのは良いが、兵が十分に集まっておらず、とりあえず指揮官クラスの武将だけが先着している部隊もあった。
数が少ないだけでなく、軍隊としていびつな構造であり、とても一戦交えるだけの準備ができているとは言い難かった。
これはやむをえないと言えば、やむをえない話だ。
京周辺の諸将はすでに動員されて大坂方面へ投入されており、新たな軍勢を組織しようとすれば近江以東からの兵の到着を待たねばならない。
4日程度で河内へ集結させるというのは、土台無理な話なのだ。
原田勢を屠り、天王寺砦を囲む敵勢の数は1万をはるかに超えるとの知らせも入っており、しかも数千挺の鉄砲を備えている。
はっきり言って、現在信長の手元にある軍勢の質と量では、到底勝ち目は見込めない。
巨岩に卵をぶつけるようなものだ。
あっという間に蹴散らされ、信長自身の命も危ういだろう。
「なれど、かの者どもを攻め殺させては、世の非難を受くるは必定。それこそ、無念というものじゃ。」
天王寺砦には、数千の兵とともに重臣の惟任光秀らが立て籠もっている。
彼らを見殺しにすれば、織田信長頼むに足らずとの悪評が立ち、今後命を張って信長のために戦う者はいなくなるに違いない。
進むも地獄、退くも地獄といった状況に信長は置かれていた。
(いや、かような軍勢でも、まったく勝ち目がないとは言えぬ。将が奮えば、兵もまた猛る。わしが命を捨て、武勇を示せば、負け戦も覆せるやもしれぬ!)
勇将の下に弱卒無し、という。
軍を率いる総大将自身が勇気を示し、先頭に立って突っ込めば、道が開けるかもしれない。
例え蛮勇としか言いようのない代物であっても、大将である自分が勇気を示して戦う姿勢を見せれば、配下の将兵たちも士気が高まり、何倍もの力を発揮するはずだ。
生を捨て、死中に活を求めるのだ。
「馬を曳けっ!!」
一旦決断すれば、信長の行動は早い。
また、このような命令に慣れている小姓たちの動きもよどみがなかった。
たちまち、信長の全身が鎧で覆われ、庭先に曳かれて来た馬に飛び乗って馬上の人となった。
40歳をとっくに過ぎた信長だが、あきれるほど10代の頃と変わらぬ機敏さだった。
周囲はこれまたあっという間に臨戦態勢を整えた馬廻や小姓たちが固めている。
「出陣!!」
ようやく騒然としてきた城内を尻目に、信長は落ち着いた様子で号令を発した。
その姿は、先刻まで感情をあらわにしてうろついていた人物とはまるで別人のようだった。
城門が開くのを待切れないかのように、信長を中心とする集団はサッと駆けだした。
その後を慕って、準備を何とか整えた部隊から順に続いていく。
途中、信長は何度か小休止をとり、追いついてきた軍勢を部署し直した。
先鋒にすえたのは、若江城を固めていた若江衆に佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝の諸勢だ。
戦場に近い部隊を先陣に起用するのはこの時代の戦の常道だが、それに加えて石山本願寺包囲網の東側を構成していた諸将を投入するかたちとなる。
元からこの方面で軍事行動をしていたために、現状の軍勢のなかでは最も組織が整い、戦闘力が期待できた。
第二陣として編成したのは滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄、氏家直通、安藤守就らの軍勢だ。
これらは安土城普請場などまだ京に近いところにいたために間に合った者たちで、顔ぶれこそ豪華だがごく一部の兵しか参戦させることができていない。
また、第三陣を務める信長の馬廻も似たようなもので、通常の兵数を大きく割り込み、外観はともかく中身は貧弱な軍容だった。
こうした不利を補うべく、信長は先手の足軽衆のなかに身を置き、実際に戦場の最前線を駆けまわって指揮をとろうと考えていた。
「住吉口より、かかるべし!」
一刻も早く天王寺砦を救援したいという気持ちはあったが、信長は冷静だった。
そのまま東から天王寺へ迫ったのでは、敵が待ち構えるところへまともに飛び込むことになってしまう。
このため、いったん南に大きく迂回し、住吉口から北上して天王寺へ向かうことにした。
この機動は成功し、信長らは一気に天王寺付近まで進出することができた。
だが、敵の数はこちらの数倍である。
緒戦における混乱が徐々に収束すると反撃が開始され、たちまち激戦となった。
特に数千挺に及ぶ鉄砲がやっかいで、雨あられと降り注ぐ銃弾は貴賤に関係なく織田軍の将兵を傷つけた。
信長は必死に戦場を駆け、味方の崩れをつくろい、敵の乱れをついて何とか敵中を突破して天王寺砦へ合流しようとしていた。
最前線に身を置く以上、信長も無傷ではすまなかった。
敵が繰り出した槍でかすり傷を負い、足には銃弾も受けた。
だが、信長はひるまず味方を鼓舞し続けた。
それでも、人間の戦闘能力には限界がある。
何倍もの敵に対し、ひたすら突貫を試みる織田軍の足が次第に止まり、その鋭鋒も鈍り始めた。
敵軍は数の利を活かし、次第に左右に広がって織田軍を包み込み、討ち果たそうとしていた。
このままでは、織田軍の敗北は必死だった。
その時、敵の後方から喚声が上がった。
信長の馬印を遠望し、救援軍の到着に気づいた惟任光秀ら城兵たちが出撃し、敵軍の背後を襲ったのだ。
一向門徒たちは数こそ多いが、雑賀衆など一部の者を除き戦闘のプロではない。
前後から挟み撃ちにあうとたちまち崩れ、信長らの前にやがてぽっかりと血路が開いた。
「今ぞ。一気に砦へ駈け込め!!」
信長の号令が発せられるや、麾下の軍勢は一斉に砦へと殺到し、城兵たちと合流を果たした。
砦の門は、再び固く閉ざされた。
合流した織田の君臣は、互いの無事を喜ぶ間もなく軍議に移った。
諸将はみな、籠城策を取るべきとの意見を掲げた。
突破は果たしたものの、敵は数を恃んで引き揚げるどころか再包囲のために軍勢を動かし始めており、戦意は失われていないようだ。
数日持ちこたえれば、東から織田の援軍が続々とやって来て、数の不利も解消されるはずなのだ。
しかし、信長は頑として出撃を主張した。
(かような所に籠って、何の利があろう!!)
信長の見るところ、いまの天王寺砦では守るのに不十分だった。
砦とは言っても、元々四天王寺の土塀や伽藍を急きょ戦闘に流用したものに過ぎない。
数日来続いた敵の攻勢で塀は至るところで破られ、応急処置としてはがした床板や畳を積み上げて塀代わりにしている場所もある。
建物には無数の銃弾によって穴があき、防御施設としては何とも心もとない。
1万を超える敵軍を向こうに回して、数日間を戦い抜けるのか、大いに不安を感じたのだ。
もちろん、そんな消極的な意見で出撃を唱えれば、軍の士気に関わる。
信長の口から出たのは、全然逆の勇ましい言葉だった。
「かように敵味方が間近に寄せ合ったるは、天が与えた好機じゃ。この機をとらえ、敵を粉砕すべし!」
信長は勝ち戦に乗じ、さらに敵を攻撃するべきだと声高に主張した。
慎重論を唱えていた諸将も、到底無理だと思われた敵中突破を成し遂げた主君の自信満々な様子に力を得、ついには出撃を受け入れた。
信長は全軍を大きく2つに分け、余力のある者を先陣に立てて出撃を下命した。
突如再び城門を開いて突出してきた織田軍に対し、迎え撃つ一向一揆勢はもろくも崩れた。
数も少なく、かろうじて合流したばかりの織田軍が息つく間もなく出撃してくるとは思ってもみなかったのだ。
織田軍は敵軍を大いに破り、逃げる敵兵を追って本願寺の城戸まで攻め寄せ、およそ2千7百を討ち取った。
さすがに攻城準備のない小勢ではそれ以上の戦果は期待できないため、信長は順次集まってくる兵をつかって本願寺の周囲に合わせて10の付城を築かせ、長期的な包囲戦に切り替えた。
また、本願寺の海上と河川による補給を絶つため、住吉の海岸付近に砦を築き、真鍋七五三兵衛と沼野伝内を入れた。
彼らは和泉国の水軍衆であり、木津浦(大坂湾)の海上警備も担うことになった。
信長はこれら石山本願寺包囲陣の総指揮官を重臣の佐久間信盛に委ね、包囲陣を形成する諸将をみなその寄騎として附属させることにした。
こうして、佐久間信盛は北陸を統括する柴田勝家と並んで一躍強大な軍権を握ることになったのだった。
一方、信盛の出世の陰で、逆に一気に没落した一族もあった。
最後まで信長のために戦い抜き、壮烈な討ち死にをとげた原田直政の原田家は事実上取り潰され、遺族は追放された。
一向門徒という必ずしも戦のプロではない集団に負けたどころか、命まで失った直政に対し、信長の下した評価は冷たいものだった。
有力な家臣がともに討ち死にし、幼い跡継ぎと残された家臣たちでは直政と同等の活躍は期待できないと判断し、容赦なく潰してしまったのだ。
その有様はまるで弊履(破れたぞうり)を捨てさるかのように、無造作で冷徹なものだった。




