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第130話 忠死

安土城の建設がはじまり、新たなステップへと進みはじめた織田家。


しかし、わずか4ヶ月ほどで信長の意識は他所へと無理やりそらされてしまいます。


事態を大きく動かしたのは、信長にとってもはや宿敵と言ってもよい宗教勢力の挙兵でした。

「退くな!逃げる者は許さぬぞ!!」


 先刻から同じような怒号が何度飛んだかわからない。

 織田家の重臣で南山城と大和の守護を兼ねる原田備中守直政は、額に青筋立てて味方を鼓舞することに忙しかった。


 大将がそんな必死の声をあげるくらいだから、戦況が思わしいはずがない。

 敵の一向一揆勢が放つ数千挺はあろうかという鉄砲の轟音が響くたび、直政の周囲の馬廻がバタバタと倒れていく。


 いまや直政と直政を守る一握りの馬廻たちは敵の重囲に陥っていた。

 原田勢を構成していたはずの山城・大和の寄騎衆たちはとっくの昔に逃げ散り、もはや影も形もない。

 直政の周囲に逃げようとする者はもういなかったが、それでなくてもすでに脱出は不可能だった。


(もはやこれまでか。かくなるうえは、武士として恥ずかしくない最期を遂げるのみ。敵に背を向けず、原田は最後まで戦ったと聞こえれば、上様も我が子に所領を安堵してくれよう。)


 直政は覚悟を決めた。

 自分の死は避けられない。

 だが、恥ずかしくない最期を演じることで、跡を継ぐ子や孫たちに胸を張って死んでいくことができる。

 直政が織田家のために最後まで戦い抜き、戦死したという事実が原田家の存続と子孫たちによる継承へとつながるのだ。


 直政は尾張の一土豪に過ぎない(ばん)家に生まれ、側近とは言え赤母衣衆という連絡将校の立場でしかなかった身から身を起こし、遂には2ヶ国を束ねる重臣の地位まで登りつめた。

 まだまだ身を粉にして働き、新しく興した原田家をさらなる繁栄に導きたいとの思いは強かったが、こうなった以上は家を残すためせめて自分の死を名誉で飾り立てるのだ。


 やがて、戦場に静寂が戻った。

 まだ鉄砲の硝煙がたなびくそこには無数の物言わぬ屍が累々と横たわり、酸鼻をきわめていた。

 最後まで抵抗をつづけ、馬廻が身を盾にして守り、死体が小山のように折り重なった一角には、原田備中守直政をはじめとして直政の伯父の塙喜三郎、弟の塙小七郎、重臣の蓑浦無右衛門、丹羽小四郎といった原田勢の幹部クラスが枕を並べて討ち死にしていた。


 ……………………………………………………………


「なに、備中が!?」


 敗報は翌日には京に滞在中の信長のもとへもたらされた。

 その後も次々と飛び込んでくる知らせは、すべて悪いものばかりだった。


 天正4年(1576年)5月3日、信長の命によって行われた木津砦の攻撃は、完全な失敗に終わった。

 和泉衆と紀伊の根来衆を率いて先陣を務めた三好康長は敗走し、山城・大和など畿内各国の将兵を率いた総大将の原田直政にいたっては戦死してしまったのだ。

 勢いに乗った敵軍はそのまま織田軍の天王寺砦まで迫り、これを包囲しているという。


 重臣クラスの武将を失うという隠しようのない敗北に、さすがの信長も少なからずショックを受けていた。

 これまでも伊勢長島や越前などで一向一揆に苦しめられてはきたが、それらを壊滅させたことで一向宗の勢力を大きく削いだつもりだったからだ。

 まさか再びこのような大きな痛手を受けようとは思っていなかったのだ。


 ただ、今回の戦は、元々後手に回った観が否めなかった。


 戦の発端は、4月14日にさかのぼる。

 ちょうど信長が安土城の築城現場に滞在し、始まったばかりの石垣づくりを熱心に見学していたころだ。


 前年に成ったばかりの和議を破り、石山本願寺が挙兵したとの報告を受けた信長は、それほど脅威を感じなかった。

 むしろ、いまや畿内周辺でもっとも強大な敵性勢力である一向宗との決着をつける好機とすら考えた。

 長島や越前といった有力な戦力を失い、一向宗勢力の衰退が著しいと見ていたためだ。


 このため、当初動員された織田軍の顔ぶれは、大坂に近い畿内の諸将をまとめて投入したものに過ぎなかった。


 まず、摂津守護の荒木村重に対し、石山本願寺の北西約1里(約4km)に位置する野田まで進出させた。

 信長の命を受けた村重は尼崎から船をつかって野田周辺に上陸し、3つの砦を取り立て、大坂北方の川筋の交通を遮断した。


 また、惟任光秀と細川藤孝には大坂から見て東南に位置する守口と森河内にそれぞれ砦を築かせ、包囲網の東側を固めさせた。


 大小の川や水路はあるものの、上町台地の存在によって最も軍勢を展開させやすい平地に恵まれた南側には原田直政の軍勢を当てた。

 直政は天王寺砦を修築してここへ入るよう命じられた。


 原田勢は直政直属の山城衆と大和衆に加え、三好康長の和泉衆や紀伊の根来衆、その他河内などの畿内各地の国衆の軍勢によって構成され、その兵力は1万を超える大軍だった。

 明らかに他の荒木・惟任・細川らの軍勢に比べて数多く、主力と言える軍容だ。


 そのためか、砦の防衛が命じられた他の将たちと異なり、直政には天王寺砦へ派遣された猪子高就、大津長治の2人の検使を通じて信長から作戦が授けられた。

 それは天王寺砦の西約1里(約4km)にある木津砦を攻略することだった。


 織田軍の4人の将が率いる軍勢により、大坂周辺の3方はすでに包囲が完了し、残るは海に面した西側を残すのみとなっていた。

 信長は和泉などの水軍数百艘を動員してこの方面も包囲しようと画策していたが、広大な海域を完全に封鎖することは困難だった。


 そこで、河口付近に位置する木津砦を押さえて敵の補給路を絶ち、袋の口をしばるように包囲を完成させようと考えたのだ。

 そのために惟任光秀と佐久間信栄(信盛の嫡男)の軍勢に天王寺砦へ入るよう指令をくだし、直政が一兵でも多くの兵力を抽出して攻撃軍を編成できるようにするほどの念の入れようだった。


 しかし、信長の思惑は外れた。

 木津砦の重要性は敵も重々承知しており、織田軍が天王寺砦に多くの軍勢を集めた時点でその狙いについても十分に予想されていた。


 敵は楼岸砦に1万以上の兵を展開しており、織田軍の動きを察知すると素早く南下し、三津寺付近で待ち伏せた。

 兵数じたいは原田勢も敵と大差はなかったが、戦場で物を言ったのは紀伊の雑賀衆を中心とする数千挺の鉄砲だった。


 思いもよらぬところで会敵し、雷鳴がとどろいたような射撃をくらった三好康長率いる先鋒はたちまち苦戦を強いられた。

 同じく鉄砲で知られた根来衆を擁しているとはいえ、初動で後手に回ったことは痛かった。

 劣勢を挽回できぬまま一方的に押され、元々戦意が高いとはいえなかった和泉衆などは早々に逃げ崩れる有様だった。


 先陣の混乱を知った原田直政は自ら兵を率いて急行し、三好勢を助けて敵を支えようと試みた。

 三好勢が敗走すれば原田勢の半ば近くが無力化されることになり、敗北は免れない。

 ここで敗れれば木津砦の攻略はおろか、自軍の天王寺砦まで危険にさらされかねない。

 何としても友軍の崩壊を食い止め、軍の立て直しを行わなければならなかった。


 だが、敵の火力は直政の想像を遥かに超え、原田勢主力をも猛烈な勢いで駆逐していった。

 寄騎として参加しているに過ぎない山城衆などは和泉衆らと同様に戦意は低く、敵の射撃によってみるみる被害が増え始めるとたちまち動揺し、もろくも崩れた。

 直政がいくら声をからして督戦しても、負け癖のついた寄せ集めの集団はもはや逃げる意外の思考を失っていた。

 多くの兵が逃げ散るなか、それでも戦い続けた直政らは退路を失い、ついにその命を散らしたのだった。


 こうした戦況の悪化を聞いた信長は、すぐさま支配下にある諸国へ軍勢動員の命令を出した。

 何しろ、京にはわずかな側近を伴っただけでやって来ており、信長の手元には戦力と呼べるだけの兵はまったくと言っていいほどなかった。

 敵が万を超える兵力を動かしている以上、とにかく軍勢をかき集めなければどうにもならないのだ。


 信長はジリジリとした思いで軍勢の集結を待ったが、そんなすぐに集まるわけがない。

 何しろ、京周辺のめぼしい軍勢はすでに大坂方面へ投入されており、近江や美濃、尾張、伊勢といった遠方からの兵を待つしかないのだから。


「ええい、らちが明かぬ。あとから来る者どもには河内へ参れと伝えよ!」


 言い捨てるが早いか、信長は湯帷子を着ただけの軽装で京を出発し、わずか百騎の馬廻衆に守られ、河内国若江城へ入った。

 5月5日のことだった。

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