第9話 婚儀
「加納口の戦い」で織田信秀に大勝した斎藤利政(道三)は、織田から大垣城を取り戻すことを考えます。
国内の不統一に悩む利政が打った手は、他国の勢力を利用することでした。
「殿!近江勢から先触れがございました。間もなく城下へ到着されるとのこと。」
「そうかっ!丁重にお迎えせよ。わしもすぐに挨拶に向かう。」
織田信秀に大勝してからのこの1ヶ月というもの、斎藤利政は常に上機嫌であった。
近隣に勇名を轟かせる信秀を打ち負かし、利政の武名は大きく上がった。
日頃から美濃国の統制に苦しむ利政は、国主としての地位を固める糸口をつかんだ思いだった。
反抗的な国衆たちに自分の力を見せつけるため、利政は次の行動に出ようとしていた。
それに当たって、僅か数百だが六角家からの援軍はありがたかった。
他国が利政の政権を承認するだけでなく、積極的に助ける意思を示したのだ。
利政は主君の土岐家を追放し、いわば非合法の政権をつくっていた。
そのため、今まで利政と同格の存在だった美濃の国衆たちの反発は大きかった。
他国の援軍を加え、さらに勝利を重ねることで、利政は自分の権威を確立しようとしたのだ。
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天文16年(1547年)11月上旬、斎藤利政は同盟国である近江の六角氏の援軍を加え、大垣城の奪還に動いた。
大垣城は牛屋川(揖斐川)沿いに築かれた平城だ。
平地にありながら天然の川を堀として活用した、なかなかの堅城だった。
何より重要なのは、美濃と尾張を結ぶ街道沿いにあるため、美濃側にとっては国境防衛の要、尾張側からは美濃侵攻の拠点となるのだ。
天文13年(1544年)以降、大垣城は織田の支配下にあった。
織田軍を蹴散らした勢いに乗り、利政は一気に織田家の勢力を美濃国から追い出そうとした。
大敗したばかりの織田信秀には援軍を出す余力がないとみて、利政は勝利を確信していた。
だが、織田信秀は一筋縄でいくような男ではなかった。
11月17日、突如大垣城の南東から東にかけての広い範囲でおびただしい煙が立ち昇った。
やがて利政のもとに飛び込んできた報告は、彼の顔色を青ざめさせるのに十分なものだった。
「竹が鼻が織田に焼き討ちされましてございまする!」
「織田軍が茜部の入り口まで達し、あちこちに火を放っております!!」
竹が鼻は大垣城の南東2里半(約10km)、茜部はそこから北東へ2里半(約10km)進んだ位置にある。
木曽川を渡った信秀軍が、広い範囲を放火しながら北に向かって進撃していたのだった。
現在信秀がいると思われる茜部は、大垣城から東に4里(約12km)、稲葉山城からは南に2里(約8km)の位置にあった。
大垣城を囲む斎藤軍の背後を襲うことも、稲葉山城を直撃することも可能だった。
(弾正忠はやる気だな・・・とても戦う力などないと思うておったのに・・・。)
利政には2つの選択肢があった。
すなわち、信秀と戦うか、兵を退くか。
「・・・ただちに兵を退く。織田軍と出会わぬよう、稲葉山へ引きあげる・・・!」
利政が選んだのは撤退だった。
(戦となれば、弾正忠の方が手慣れておる。もし負けでもしたら、国衆どもがどう騒ぐかわかったものではないわ。それにしても・・・織田信秀という男、まことに恐るべき男じゃ・・・。)
利政は手早く兵をまとめ、稲葉山城へ引きあげていった。
その整然とした退却は、利政の軍才もまた平凡なものではないことを示していた。
結局、利政が恐れていた織田軍の攻撃はなかった。
11月20日、清洲城の守護代織田信友の軍が信秀の留守を襲い、その居城古渡に押し寄せたため、信秀は軍を返さざるを得なくなったのだ。
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稲葉山城に帰り着いた斎藤利政は、失意のなかにあった。
人前では強気に振る舞っていたが、挫折感が重くのしかかっていた。
大垣の奪還に失敗し、美濃国主としての威権を確立する、絶好の機会を逸したのだ。
自信家の彼には珍しく、自信を失いかけていた。
(父は偉かったな。)
利政は亡父・長井新左衛門尉のことを思い出していた。
父は元の名を松波庄五郎と言い、他国から美濃へ流れてきて土岐家に仕官した男だった。
誰よりも能力があり、やがて土岐家の家政は彼がいなければ回らないほどになっていった。
だが、父は慎ましやかな性格で、引き立てられた恩義を忘れず、主家を凌ごうなどとは思いもしない。
大変な自信家で野心家の利政からすれば、それが歯がゆくてならなかった。
父の後を継ぐと、父のおかげで利政は主君・土岐頼芸から可愛がられ、引き立てられた。
美濃の国政は父にかわって利政が取り仕切ることになったのだ。
利政は主君を憎んだことはなかったが、ただ軽蔑した。
頼芸は書画に優れ、素晴らしい鷹の絵をたくさん残したが、それだけの男だったからだ。
やがて利政は斎藤家を乗っ取り、遂には不仲になった主君・頼芸を国外に追放する。
積極的に主君を排斥しようとしたわけではないが、後悔はない。
意外だったのは、今まで特に大きな反発を見せなかった国衆たちが、あからさまに反抗的になったことだった。
元々国政は実質的に利政が行なっていたのだから、飾り物の守護がいなくなっただけだというのに。
所詮、利政の権勢は主君の権威を背にして初めて成り立っていた。
そのことに聡い利政は気づいていたが、あえて目を背けて今日まで来た。
だが、もう限界だった。
利政は、国内を固めるため、あるひとつの結論を導き出していた。
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数日後、尾張の織田信秀のもとに斎藤利政からの書状が届けられた。
それを幾度も繰り返し読み、信秀はしばし沈思していたが、やがて重臣の平手政秀に書状を渡した。
「山城守殿の御息女を三郎様に!?」
「うむ。嫁がせたいと申しておるな。」
「しかし、当家と斎藤家の間には、長年の因縁がございますぞ!」
「・・・山城守めは、国内をまとめきれず、よほど困っておるようじゃな。でなければ、勝ち戦の後にかような文は寄越すまいて。」
「なるほど。苦境は当家ばかりではありませぬか。」
平手政秀が言うように、信秀もまた苦しい状況にあった。
斎藤軍の大垣攻めは一か八かの積極策で乗り切ったが、実弟の織田信康ら多くの将兵を失った信秀軍は明らかに弱体化していた。
そして、それにつけ込んで、先日も清洲の織田信友軍に古渡を攻められたばかりだった。
迅速に引き返してきた信秀を見て清洲勢が引き揚げ、大事には至らなかったが、以後織田大和守家とは紛争状態となっている。
三河で今川、美濃で斎藤、そして尾張国内で主家の織田大和守家。
いまや織田信秀は完全に守勢に回っていた。
三河方面は今のところ小康を保っているが、清洲とはなかなか和議が結べない。
美濃の斎藤には手酷くやられたばかりだ。
そんななかで持ち込まれた斎藤家との政略結婚とそれに伴う和議は、魅力的な提案だった。
斎藤と和議が成れば、清洲は孤立し、やがて和を請うてくるだろう。
そうすれば、三河での今川との戦いにある程度専念できる。
「政秀。そちにこの件を任せたい。婚儀をまとめ、北からの脅威を減じたい。」
「かしこまりました。」
政秀はさっそく交渉を開始した。
だが、つい先日まで戦っていた両家である。
なかなか互いに相手への疑念を拭えなかったが、平手政秀の尽力もあって、ひとつずつ条件をクリアしていった。
政秀は並行して清洲へもたびたび和睦を求める書状を出したが、こちらは思うような成果をあげられなかった。
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秋の終わりが近づいた翌天文17年(1548年)9月、俺は清洲城下を抜けていく行列を眺めていた。
斎藤利政の娘が織田信秀の嫡男信長に嫁いで行く、輿入れの行列であった。
北からやってきた行列の先頭はすでに城下を過ぎて半刻(1時間)近く経つが、行列の後尾はまだ視界に入ってこない。
総勢千人を越える大行列である。
美々しい行列であった。
護衛の武士が持つ槍が陽光にきらめき、豪華な輿が10挺以上、長持は数十挺に及ぶ。
遠目にも一際豪奢な輿には着飾った女性が座っており、彼女こそ行列の主役に違いなかったが、残念ながら容貌までは窺うことができなかった。
行列はまるで清洲城内の者たちに織田と斎藤の和睦を見せつけるデモンストレーションのようであった。
実際、清洲の織田信友らはそれまで頑なに信秀からの和議の申し出をはねつけていたが、今回の婚儀を知ってようやく態度を軟化しつつあった。
近いうちに和議が結ばれるはずだ。
秋の太陽はまだ少し傾きはじめたばかりであり、この分なら夕方には那古屋城に着くことだろう。
俺は大名の婚礼行列の壮麗さに圧倒されながらも、別のことを考えていた。
(豪華な行列は、裏返せば斎藤家の苦境を示しているのかも知れんな。守護を簒奪した斎藤利政には国主としての正統性や権威が不足している。あるいは、必死に力を周囲に見せつけようとしているんやろうか。)
そういう目で見ると、きらびやかな行列が精一杯背伸びをしてこしらえた、金メッキのような存在に思えてきた。
(ここまでは史実通りに進んでいる。これで織田信長は斎藤道三の婿となった。織田弾正忠家にとっても守勢を挽回するための講和だったんやろうが、史実をなぞって進むとしたら、来年あたりから今川の攻勢が始まり、織田弾正忠家は三河の地歩を失っていくことになるはず。さて、どうなっていくんやろ。)
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※大垣城救援作戦見取り図を追記しました。
信長が結婚し、美濃斎藤家と縁戚となりました。
信長の正室については資料が少なく、子供がいないため今後の登場予定もありませんので、特に呼び名は設定しませんでした。




