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第122話 煩悶

長篠の戦いのあと、目下のところ残る大敵は一向宗のみとなりました。


ここから一気に織田家の拡大が始まっていくことになります。


今話では、越前攻め前夜の様子をお届けしたいと思います。

「して、京からは何と?」


 京に滞在中の織田信長からの書状を黙々と読み、読み終わるや、かすかに苦笑いを浮かべた明智光秀に対し、重臣の斎藤利三が声をかけた。

 外ではひっきりなしに鳴く、セミの声がかまびすしい。

 いくら標高が高く涼しい丹波国(現在の京都府中部)と言えど、真夏の7月ともなればうだるような暑さだ。


「わしに惟任(これとう)改姓の勅許(天皇の許し)を賜り、日向守へ叙任せらるとのことじゃ・・・。」


 惟任家はかつて豊後国(現在の大分県)に栄えた大神(おおが)氏の子孫であり、九州の名族と言える。

 明智家も美濃源氏・土岐家の流れをくむ名家だが、より古くからの名家の名字を受け継ぐことを朝廷から承認されたということだ。

 朝廷に認められたということは、今後光秀が名乗る「惟任日向守」という名は私称(勝手に自分で名乗ること)ではなく、公称(公に認められた名乗り)になる。

 もっとも、この改姓は光秀が望んだというより、信長の意向によるものではあったが。


 また、日向守は言わずと知れた日向国(現在の宮崎県)の国司であり、光秀に日向国の支配権を認めるという信長の意思表示を、朝廷を通じて天下に示したということだ。

 現実には九州は織田の領国からはるか遠く離れており、光秀のもとには米の一粒も入ってはこないが、将来的に織田の支配が九州まで及べば、日向は光秀の領国になることだろう。


「おめでとうござりまする。」


 利三は、祝辞を述べた。

 実利はともかく、名家の姓の継承と任官は、信長が光秀を重んじているという証明であったからだ。

 だが、利三は光秀の様子から、書状の内容がそれだけではないと感じ取っていた。


「なれど・・・それだけではございますまい。他には何と?」


「来月に越前を攻めるゆえ、参陣せよとのお達しじゃ。」


「・・・いま一押しで、宇津城は落ちましょうに。無念にござる・・・。」


「言うな、利三。丹波攻めは端緒についたばかりじゃ。()いては事を仕損じると申すではないか。それに・・・殿の陣触れに背くことなどできぬわ。」


 長篠の大勝後、明智光秀は「丹波一国斬り取り勝手(丹波国において奪った土地は光秀のものとして良いという意味)」を約束され、丹波攻略を信長に命じられた。


 天正3年(1575年)7月、明智勢は丹波国に攻め込み、船井郡の小畠家、桑田郡の川勝家らを味方につけ、桑田郡の宇津城攻めを開始していた。

 3千以上にふくれ上がった明智勢に対し、宇津城内の戦意は日に日に衰えていくようで、光秀や利三ら首脳陣は勝利の手ごたえをつかみつつあるところだったのだ。


 信長の召集に応じるということは、せっかくつかみかけた勝利を捨てて転進することを意味する。

 また、光秀軍撤退後、今回織田に味方した国人衆が報復攻撃を受ける可能性も濃厚だ。

 光秀らが悔しさをにじませたのも当然であった。


 丹波国。


 ここは京のある山城国の北西に位置し、古くから京の動向に影響を与えてきた土地だ。

 室町時代には三管領家のひとつ細川家が代々守護職を務め、家臣の三好家の台頭によって細川家の勢力が衰えて根拠地の四国を失うと、丹波が細川家の新たな根拠地となった。

 三好家の最盛期を築いた三好長慶も丹波国を制圧することはできず、最終的には送り込まれた重臣・内藤宗勝(松永久秀の弟、松永長頼のこと)が敗死する有様だった。


 丹波は東西に長く山がちな内陸国で、ところどころ山が落ちくぼんだように盆地が点在する複雑な地勢を備えていた。

 このような地形であるために細川家の支配力が十分に確立されず、細川家によって代々守護代に任ぜられた内藤家の権力もまた、一国の隅々まで浸透しているとはとても言えなかった。


 6つある郡にはそれぞれ小領主である国人衆がひしめき、事実上小領主たちによる群雄割拠の状態が生まれていた。

 長慶が主宰する三好政権は、松永長頼を内藤家の婿養子に送り込んで丹波支配を目論んだが、かえって国人衆の反発を買い、団結した彼らによって排除されたのだ。


 このように攻略困難な丹波国だが、いまや完全に織田家の支配下に入っていない地域のなかでは最も京に近いところとなっていた。

 目だった大勢力もなく、織田家にとって脅威が少なかったためにこれまで優先順位が低かったが、いつまでも手つかずの状態で放置しておけない。


 この困難なミッションに、光秀はうってつけの人材だった。

 丹波にほど近い近江国志賀郡を領し、単独で丹波攻略作戦を進め得るだけの軍事力を有していた。

 それだけでなく軍事・行政両面で優れた才能を発揮し、調略の才にも長けている。

 時間はかかるかもしれないが、光秀に一任すれば、いずれこの国は織田の領国のひとつとなるだろう。


 だが、信長は光秀の才とその軍勢を、丹波にのみ張りつけておくつもりはさらさらなかった。


 丹波攻略の困難さは重々承知しつつも、自分がメインと考える作戦に対して容赦なく動員する。

 光秀の才能を認め、だからこそ、このような「無茶ぶり」が十分に可能と見ているのだった。


(何とも人使いの荒い御仁であることよ。だが、我が身の栄達のためには仕方あるまい。)


 光秀は、ともすればこみ上げてくる不快感を押し殺すように、自分自身に言い聞かせた。

 手がけた仕事を中途で投げ出すことは耐え難いが、主君の命に背けば自分の地位など一瞬で吹き飛んでしまうのだ。


 改めて振り返ってみるまでもなく、今の光秀があるのは信長のおかげだ。

 京を追い出され、諸国を放浪する将軍にお供して素寒貧(すかんぴん)同然だった光秀の才能を認め、坂本城主の地位まで引き上げてくれたのは信長だ。

 そして、今も光秀を信任し、重大な任務を次々に与えてくれる。

 そのことを思えば、とるべき道はひとつしかなかった。


「ただちに陣を解く。坂本へ戻り、越前攻めに備えるのじゃ。」


 ……………………………………………………………


 8月13日、俺は丹羽勢の一員として小谷城下にあった。

 越前攻めの陣触れを受け、この日佐和山城を出発し、岐阜からやって来た信長の本軍と合流を果たしていた。

 最終的には明日越前入りし、敦賀郡で全軍が集結する運びとなっていて、惟任光秀ら近江西部の軍勢や若狭国衆らとはそこで合流するはずだった。


 大戦を前にして、俺は久しぶりに羽柴秀吉に会いたいと思い、面会を申し入れた。

 信長らの応接に忙しいはずだが、秀吉は時間をつくって会ってくれた。


「久しぶりやな。」


「おお、お互い元気で何よりや!」


 屈託なく笑う秀吉の顔は前世で幼なじみだったヨシローとは似ても似つかないが、なぜかまったく同じ笑顔に見えた。

 このところ、会うたびに意見の違いに悩んでいたが、別にケンカをしたわけではない。


(やっぱ、長年の友達というのはいいもんやな。)


 主に向こうが多忙になった結果、なかなか会う機会も減っていたが、しみじみと思った。


「そう言えば、今日はえらい豪勢なおもてなしやったな。」


 実は、小谷城下に集結した織田軍の将兵全員に、羽柴家から夕食が振る舞われたのだ。


 この時代、いったん出陣するといつものような食事はとても望めない。

 味よりもいかに素早く補給できるかに重点が置かれ、干飯(ほしいい)というカチコチに乾かしたご飯や味噌玉(みそだま)という味噌を固めただけの簡易食が主食となる。

 通常はこれらを水や湯で戻して食べるのだが、酷い場合はそのまま口に放り込み、むりやり胃の中に流し込むことすらあった。


 そんな戦陣での食糧事情を思えば、秀吉によるご馳走は思ってもみないプレゼントだ。

 織田兵たちの秀吉に対する人気が急上昇したことは言うまでもない。


「まぁ、腹が減っては戦はできぬって言うしな。領地の経営も順調になってきたし、そのことを周りにアピールしようって思ったんよ。」


 予想はしていたことだが、秀吉のご馳走は単なる親切ではなかった。

 織田家中における人気取りの意味合いもあったろうし、与えられた旧浅井領の経営をわずか2年足らずでガッチリと確立したことを信長や他の重臣たちにアピールする狙いがあったのだ。


 使えないと判断した人間は、割とアッサリと切ってしまうのが信長という主君であり、いまは重臣の地位に収まっていても、少しでも気を抜けばいつ降格させられるかわからない。

 秀吉にもそういう不安はあるのだろう。

 共通の秘密を持つ者同士、こういった腹を割った話ができるというのはいいものだ。


「話は変わるけど・・・越前の様子はどうなんやろ?加賀や大坂から一向宗の幹部クラスや兵隊が続々入ってきて、簡単には倒せそうにないようやけど!?」


 秀吉は北近江だけでなく敦賀郡の防衛をも受け持ち、朝倉時代から越前国へ様々なアプローチをしてきた「実績」がある。

 今も情報収集を怠ってはいないだろうと俺はにらんでいた。


「確かに一向宗の坊官(指導者)の下でまとまっているように見える。表向きはな。」


「・・・実際は?」


「朝倉の旧臣たちの不満がたまってるらしい。よそ者にデカい顔されて面白くないんやろな。それに、織田軍の侵攻に備えるって名目で重い年貢がかけられてるらしくって、民衆の心も離れつつあるみたいやな。」


「ヨシローのことやから、何か手を打ってあるんやろ?」


「もちろん。盛大に噂をばらまいて、一向宗の指導者らと朝倉の旧臣や民衆たちの間を裂こうとしてる。特に朝倉の旧臣たちは一度は織田に降ったヤツらやからな。今ごろ、織田の大軍を前にして、みんな疑心暗鬼になってるやろ。」


「相変わらず暗躍してるな。」


「まあな。今回、俺は殿から筑前守を名乗ることを認められたけど、惟任殿らと違って朝廷から正式に認められたもんやない。ここで手柄を立てて、正式な名乗りと越前国を領地にすることを認めてもらうんや!!」


 今回、光秀の他に朝廷から松井友閑が宮内卿法印を、武井夕庵が二位法印の官位をもらい、簗田広正と丹羽長秀にはそれぞれ別喜(べつき)惟住(これずみ)という九州の名族への改姓が許された。

 秀吉は筑前守を名乗ることを許されたが、これはあくまで信長から認められたものであって、朝廷の許可なく勝手に名乗っているものと変わらない。

 ライバル視する光秀と差をつけられ、秀吉は功名心に燃えているようだ。


(信長という人は、ここまで考えて褒美を与えてるんやろか・・・?)


 自分の懐がまったく痛まない九州がらみの官位や名字といい、功名心をあおるような格差のつけ方といい、狙ってやっているとしたら部下の操縦に関しては恐ろしい手腕と言える。

 俺は明日から始まる越前攻めのことより、そんなことの方を考え込み、近江の夜は更けていった。


 ……………………………………………………………


※丹波国諸勢力図を図解しました。


挿絵(By みてみん)

羽柴秀吉が天正3年(1575年)7月時点で「筑前守」に任官したとされることが多いのですが、今作ではその説をとっておりません。


『信長公記』にその旨の記述が見えないことがその理由です。


ただ、一般的に羽柴時代の秀吉は「羽柴筑前守」や「羽柴筑州」として知られていますので、正式に任官したのではなく、信長から受領名として名乗りを認められたとしております。

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