第114話 長篠の戦い(一)
いよいよ長篠の戦いです。
まだ全部を書き切れていませんが、かつてないほどの分量になりそうな予感。
第1話目は長篠城主・奥平貞昌視点でのお話となります。
「努めてくれよ・・・!」
三河国長篠城主・奥平貞昌は、目の前の兵に声をかけた。
戦時の警戒態勢下のことゆえ、声をかけられた奥平兵はただ静かに頭を下げた。
ところどころに焚かれたかがり火がパチパチと音を立てるほかは、実に静かな夜だった。
貞昌がわずかな供回りを連れ、本丸の各所で不寝番を務める者たち全員に声をかけて回ることは、いまや毎晩の恒例行事のようになっていた。
配下の将兵たちは、微笑みさえ浮かべている貞昌のいつもと変わらない冷静な様子を見て安心し、闘志を奮い立たせているようだ。
だが、まだ20歳と若い貞昌は内心の不安を押し殺し、努めて平静を装っているに過ぎなかった。
恒例となった巡回にしても、毎夜神経が高ぶって眠れず、ジッとしてられなくなって見回りに出てしまうのだ。
貞昌は父の貞能がいつも見せている豪快な笑顔を見習おうと、何とか顔に微笑を張りつけながら、周囲の労をねぎらっているのが実情だった。
どうしても顔がこわばり、満面の笑みには程遠いその表情が、周囲には微笑みに見えているだけだ。
貞昌が極度の緊張を強いられている理由は、城の周りを取り巻くおびただしいかがり火とそれに照らされて夜目にもくっきりと見える無数の武田菱の軍旗だった。
長篠城は三河国北部、俗に奥三河と呼ばれる地域の交通の要衝であり、現在は武田・徳川いずれにとっても最前線の重要拠点となっていた。
城は南流する寒狭川と乗本川(大野川)が合流する地点に岬のように突き出した河岸段丘上に築かれ、狭く急な川の流れと断崖絶壁と言ってよい急峻な崖のおかげで、東・西・南の三方は攻撃がほぼ不可能な地勢だった。
唯一北側が開けていて攻撃が可能だったが、防衛側は当然そのことを織り込み済みで、最南端の本丸曲輪の北に寒狭川の水を引き込んだ堀を挟んで二の丸曲輪、さらにもう一つの堀を越えて北側には弾正曲輪など複数の曲輪を配し、小さいながらも鉄壁の守りを誇っていた。
この重要な長篠城に徳川家康によって貞昌は城主として送り込まれ、対武田最前線の一翼を担っていたのだった。
今をさかのぼること2年前の天正元年(1573年)8月、徳川家康は奥三河で反撃に転じ、城主・菅沼正貞を降して長篠城を手に入れた。
正貞の長篠菅沼家は田峯菅沼家の分家にあたり、奥平貞能・貞昌父子の作手奥平家とともに3家は「山家三方衆」と呼ばれ、足並みをそろえて徳川・武田両家の間を渡り歩き、何とか勢力を保っていた。
しかし、奥平貞能は武田信玄の死を知るといち早く武田に見切りをつけ、徳川家と手を結ぶと「山家三方衆」のまとまりは崩れた。
徳川軍はこの機に乗じて長篠城を攻略し、長篠菅沼家を没落させた。
家康は奪い取った長篠城を作手奥平家の新当主・奥平貞昌に与えた。
それだけでなく、家康の長女・亀姫を貞昌と婚約させ、貞昌を自分の娘婿とすることを公表したのだった。
だが、一度は徳川を裏切って武田信玄に属した奥平家を家康は心から信頼していたわけではない。
家康は、隠居した前当主の奥平貞能を自分の身近に置いた。
貞能が奥三河の地形や各家の内情に詳しく、その才を相談役のような形で活かしたいというのが表向きの理由だったが、本音ではいまだに奥平家中で大きな影響力を持つ貞能を人質にとろうとする思惑があった。
また、まだ亀姫が15歳でしかないためとの理由ですぐには貞昌と結婚をさせず、本当に貞昌が武田に寝返らないか慎重に見守っていた。
貞昌の忠誠心を確かなものと見極めるまでは、娘をやらない心づもりだったのだ。
それに加え、武田軍の侵攻に備えるためとの名目で松平景忠らを長篠城へ入城させていた。
景忠は松平分家のひとつ五井松平家の当主で、家康に忠誠を捧げ続け、家康の信頼厚い松平一族の武将だ。
これなどは援軍を名目とした事実上の監視部隊だった。
このような事情は貞昌も十分にわかっていた。
武田から徳川へ鞍替えする際、対外イメージの刷新を図って父の貞能から自分へ当主の交替が行われ、家康も表向きは信任を示したのだが、案の定すぐに絶大な信頼を得るところまでには至っていない。
家康の信頼を勝ち得るためには、武田軍の攻勢をはね返し、身をもって忠誠心を示さねばならないのだ。
そして今。
ある意味、それを示す絶好の機会が訪れていた。
城は武田勝頼自らが率いる1万5千と称する大軍に囲まれ、貞昌率いる長篠城兵5百は果敢な抵抗を続けていた。
親徳川・反武田を示すにはこれ以上ないくらいの状況だった。
にも関わらず、貞昌の苦悩は尽きない。
天正3年(1575年)5月11日に始まった昼夜を問わない武田の猛攻の前に難攻不落のはずの長篠城の外郭は次々と突破され、わずか3日の戦闘の末に本丸を残してすべての曲輪が敵の手に落ちていたのだ。
武田勝頼は長篠城の北10町(約1.1km)の医王山に本陣を据え、自ら前線に出て督戦し、わざわざ甲斐国から連れてきた金山衆(鉱山の採掘を行う専門家集団)まで動員して長篠城の塀を根元から掘り崩す力の入れようだった。
城の南東に位置する鳶ノ巣山に築かれた砦からは長篠城内の様子がよく見えるらしく、城の弱点を見つけ出しては、そこを執拗に攻撃されたことも奥平勢の不利に働いていた。
そして、唯一残った本丸も無傷ではいられなかった。
武田兵が絶え間なく浴びせてきた銃弾によって無数の穴があき、見るも無残な姿となっていた。
また、敵の火矢によって本丸の兵糧蔵が炎上し、十分に備蓄されていたはずの兵糧などの物資の多くが焼失する不運も重なっていた。
誰の目にも長篠城と貞昌ら奥平勢の運命は風前の灯火と映っていた。
(後詰めはもう出ただろうか・・・。)
貞昌は城の西側、寒狭川沿いに築かれた土塁の上に立ち、対岸に陣取る武田軍の後方に目をやった。
黒々とした夜の闇に包まれたそのはるか向こうには、家康が長篠城への後詰め(援軍)を行うために入っている岡崎城がある。
奥平勢が生き残るための唯一の希望は、そこから発せられるだろう援軍の到着だった。
貞昌は家康がいずれ援軍を寄越すことは確信していた。
長篠城を失えば、その負の影響は周辺に波及し、徳川の三河支配は根幹から崩壊する恐れすらあった。
今ごろ、家康は徳川領国中から必死に兵力をかき集め、援軍を組織しているはずだ。
ただ、長篠城がここまで切迫しているとは知らないに違いない。
せっかく援軍がやって来ても、それまでに長篠城が落ちてしまえば何の意味もないのだ。
それでは前年の高天神城の二の舞になってしまう。
おととい、すなわち5月14日、そのことを恐れた貞昌は援軍要請のため岡崎城へ1人の使者を派遣していた。
使者と言っても、城を10倍以上の敵が取り巻く非常時なのだから、文字通り決死の覚悟がいる役目だ。
そのことを重々承知の上でこの危険な役目を買って出た使者の名を鳥居強右衛門勝商という。
夜陰に紛れて長篠城を脱出した強右衛門が無事に武田の陣をすり抜けたことはわかっている。
昨日の朝、長篠城から北西約1里(約4km)足らずのところにある雁峰山に一条の狼煙が上がったからだ。
脱出に成功すれば、それを知らせる狼煙をあげるとの約束をあらかじめ強右衛門と交わしており、目を皿にようにした城兵によって強右衛門の無事が確認されたのだ。
そのまま岡崎城へ赴いたとすれば、すでに家康へ長篠城の苦境を説明し、急ぎ援軍を派遣するよう要請しているはずだった。
一度武田を裏切った貞昌には降伏の選択肢はない。
武田家新当主の勝頼は、父・信玄の死に乗じて裏切った奥平家をことのほか憎み、決して許さないと周囲に語っているとの風聞が届いていたのだ。
もし援軍が来なければ、玉砕するほかなかった。
悲壮な覚悟で西方を見つめ続ける貞昌を、白々と朝の光が照らしはじめた。
みるみる間に闇が融け、貞昌や城を朝陽が包んでいく。
突然、貞昌の供回りが大きな声をあげた。
「殿、あれをっ!雁峰山に煙が立ち昇っておりまする!」
「おお、確かに。強右衛門じゃ、強右衛門が戻ってきたのじゃ!!」
気づいた貞昌も喜びのあまり大声をあげた。
その歓喜は周囲にも伝染し、長篠城内は喜びの感情に満ちた。
長篠城から岡崎城へはゆうに片道10里(約40km)以上あり、これをわずか1日で戻ってきたということは、家康にすぐ面会が叶い、しかも色よい返事が得られたからに違いない。
責任感が強い強右衛門のこと、援軍の到着に先がけて城内に知らせるため、戻ってきたのだろう。
「者ども、間もなく後詰めが参ろうぞ!我らの勝利、疑いなしじゃ!!」
貞昌はこのところ続いた憂悶から解放され、力強く拳を頭上へと突き出した。
それを見た城兵たちが「応!!」と応じた。
みな生気を取り戻し、見違えるような活発さを見せていた。
だが、強右衛門があげた狼煙は、長篠城内を力づけただけでは済まなかった。
2日続けて早朝にあがった怪しい煙は、武田軍の目にもとまらないではいられなかったのだった。
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※長篠城攻防戦の周辺図を図解しました。