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第8話 加納口の戦い

加納口の戦いを描いた第8話です。


三河で「小豆坂の戦い」に勝った後、余勢をかって美濃へ侵攻したとして扱っております。

 清洲に帰還して間もなく、俺は父の和泉守、兄の新介とともに那古屋弥五郎の葬儀に参列した。

 那古屋家の菩提寺で執り行われた葬儀は盛大なもので、守護斯波義統の代理や美濃へ出陣中の織田信秀の代理ら大勢の参列者でごった返していた。


 そんな中、まだ12、3歳くらいの美少年が喪主となっているのが目を引いた。


「弥五郎殿の嫡男とはいえ、あの歳で喪主とはな。」


 父のつぶやきに、俺は思わず反応してしまう。


「喪主が若すぎると思っていましたが、那古屋様のご子息ですか。」


「うむ。弥五郎殿の死を受けて元服し、親と同じ那古屋弥五郎を名乗ったと聞いた。先日の戦で死んだ家中の者も多く、那古屋の家はしばらく大変であろうな。」


 父に教えてもらい、少年の前途の多難さに哀れを覚えた。


「・・・それにしても、主家の織田大和守様からは代理の者も遣わされていなかったようじゃ。」


 帰り道、すっかり色づいたすすきを横目に馬に揺られていると、父が憮然とした様子で口にした。


(言われてみると、確かに守護代織田信友本人どころか代理人すら参列していなかったような気がする。なんでやろう?)


 兄の新介も不思議に思ったようで、父に問いかけた。


「父上、なぜ大和守様は代理を遣わさなかったのでしょうか。」


「おそらく武衛様への当てつけじゃよ。今回の三河出兵は遠江を取り返したい武衛様の命を奉じた形にはなっておるが、実際のところは弾正忠殿が己の利のために起こした戦じゃ。大和守様や大和守様の御家老の坂井大膳殿からすれば、己には何の利もなく、弾正忠殿の私戦にいやいや駆り出された。しかも清洲衆は弾正忠殿の指揮に従わされ、まるでその下風に立たされたようになったゆえ、腹に据えかねておられるのであろう。」


(なんだそりゃ。そんな子供みたいな理由で部下の葬式に出ないなんて。)


「ですが、那古屋家からすれば、主命に従って出兵し、当主は討死までしたのに、主君から弔問すらなかったというのは理不尽でしかないでしょう。」


 俺が憤りを口にすると、父もため息をつきながら同意した。


「そのとおりじゃ。これが何かの火種にならねばよいが。」


 守護代織田信友と守護の斯波義統、守護が頼みとする織田信秀の対立がさらに深まりそうな情勢に、俺も憂鬱な気持ちになる。

 守護館が守護代の居城清洲の城内にあるのも具合が悪く、いつ武力衝突が起きても不思議はない。

 血なまぐさい事態を避けるためにも、無闇に守護代たちを刺激しないように岩竜丸を導いていかなければ、と俺は改めて思った。


 初陣を終えると、俺には元の日常が戻ってきた。


 実家で起居し、岩竜丸に仕え、学問などを教える毎日。

 殺伐とした戦場から帰ってきてから、穏やかな日々がありがたかった。

 岩竜丸の成長をゆっくり見守ること、実家で家族や伝兵衛夫婦、右近たちと何気ない暮らしを送ること、そんな普通の時間が俺の心の底にどんよりと溜まった重い感情を少しずつ溶かしてくれているようだった。


 そして、新しい楽しみもできた。


 伝兵衛とりつさんの子は長男桐葉丸(きりはまる)6歳、次男霜衣丸(しもごろもまる)4歳、長女(つばめ)1歳の3人だが、上の2人はどちらも俺によく懐いてくれる。

 家にいるとき、俺は2人と一緒に遊んだり、文字を教えてあげたりするようになった。


 ちなみに、兄の新介は10年ほど前に遠縁にあたる山田家の娘せつと結婚したが、いまのところ子供には恵まれていない。

 俺より1歳年上のせつさんはころころとよく笑う明るい女性で、屋敷中のみんなから愛されている。

 夫の新介とも仲がよく、むしろ良すぎるから子供がいないのではと言われるしまつだ。

 なお、せつさんの実家の山田家も守護家の被官で、せつさんの父と兄も守護斯波義統に仕えている。


 優しいせつさんは伝兵衛夫婦の子供たちにも懐かれていて、2人は毎日のように「御方様~」と叫びながら、せつさんの部屋に遊びに行く。

 騒々しい客に嫌な顔もせず、せつさんは菓子をやったり、すごろくなどで一緒に遊ぶ。


 子供と一緒に部屋へ行くようになり、俺もせつさんと親しくなった。

 彼女と話す時間も、俺の新しい楽しみのひとつだ。


 彼女は普段から源氏物語などの書物を読み、教養豊かな女性だった。

 好奇心も強いようで、出入りの商人などに気さくに声をかけ、俺が知らない余所の話を聞き取っては教えてくれたりもする。


 ちなみに、彼女の今一番の楽しみは、侍女のりつさんの娘・燕の顔を見ることだそうだ。

 毎日りつさんに娘を「同伴出勤」させ、飽くことなく眺めているらしい。


 うん、赤ちゃんは誰の子でも、とにかく可愛いですよね。

 俺も燕ちゃんの顔を見ると、知らず知らず笑顔になるし。


 こうして守護館や太田家は穏やかな日々を取り戻していたが、尾張国内や美濃国は剣呑な空気に包まれていた。


 ……………………………………………………………


 思えば、織田信秀は小豆坂の戦いの直後にその最盛期を迎えていたのかもしれない。


 東は岡崎城の松平広忠を降して三河国西部を支配下に置き、北は天文13年(1544年)に土岐頼芸を奉じて美濃を攻めた際に大垣城を手に入れていた。

 尾張国内に並ぶ者のない勢力となり、主家である守護代織田信友ですら敵意をあからさまにすることはできなかった。


 だが、その絶頂期はあまりに短かった。


 天文16年(1547年)9月3日、三河国から帰還した織田信秀は、そのまま美濃国へ侵攻した。


「兄上、これ以上の進軍は無用にございましょう。」


 信秀の実弟・織田信康が面と向かって声を上げた。


 美濃に攻め入った信秀はさらに進軍し、斎藤山城守利政(後の斎藤道三)の居城・稲葉山城へ進む意欲を見せていた。

 信康はその意図を図りかね、諫言(かんげん)を行ったのだ。


「いや、美濃の国境を侵しただけでは十分とは言えぬ。稲葉山城まで攻めのぼり、斎藤山城守めの心胆を寒からしめてやるのじゃ。」


 信秀は今川軍を破り岡崎松平氏を降した余勢を駆って、あわよくば斎藤家を屈服させるつもりだった。

 勝ちを積み重ね、あるいは信秀の心に慢心が生じていたのだろうか。

 その意思は固く、信康の言葉は信秀に()みなかった。


「なれば、それがしに先陣をお申しつけくだされ。」


 信康は自分の意見が聞き入れられないなら、せめて兄のために力を尽くそうと覚悟を決めたのだった。

 弟の献身を喜び、信秀は即座に許可を与えた。


 織田軍は村々に火を放ちながら進軍し、9月22日には斎藤利政の居城稲葉山の城下に達した。

 そのまま近隣の村々を焼き払い、城下町井ノ口の入り口まで押し寄せたが、その日のうちに攻め落とすことは難しいとみて、いったん引き揚げにかかった。


 このとき申の刻(午後4時ごろ)に差しかかり、辺りは夕焼け空に包まれ始めていた。

 軍勢の半数ほどが引いたころ、突如斎藤軍が出撃してきた。

 突然おびただしい矢が降り注ぎ、続いて夕陽に槍をきらめかせた騎馬武者たちを先頭に斎藤軍が突っ込んできた。

 背中を撃たれた形となった織田軍は大混乱となった。


 激戦だった。


 先陣をつとめた織田信康は、手勢をまとめて防戦しながら、使者を兄の本陣に走らせた。


「兄上にお退き召さるように伝えよ!ここは信康が引き受けますゆえ、いったん下がって軍を立て直されるようにと。」


 織田軍はかつてない大敗を喫した。

 押し寄せる「二頭波頭」の洪水に多くの将星が呑まれ、散っていった。


 信秀の実弟信康をはじめとして織田因幡守、織田主水正、青山与左右衛門、千秋末光、毛利敦元、毛利藤九郎、岩越喜三郎ら多くの名のある将が帰らぬ人となった。


 信秀は、弟たちが奮戦する間に、からくも死地を脱した。

 そして、何とか美濃国内で軍を立て直そうとした。


 しかし、相次ぐ将たちの悲報は軍の掌握を不可能にした。


 信秀は悄然と馬首を南の尾張へと向けた。


 ……………………………………………………………


 敗報は2,3日以内に清洲にも達した。


 清洲城内では、信秀軍5千人が討死したとの話がまことしやかに流れた。


 だが、これはいくらなんでも多すぎる気がする。

 それでは信秀軍はほぼ全滅してしまうから、話半分、いや、さらにもう半分しても、あるいはまだ多いかも知れない。


 それでも、織田信友らに信秀を攻める好機が来たと思わせるには十分なインパクトがあったことだろう。

 実際、守護代・織田信友らが怪しい動きを見せはじめているらしいとの噂も伝わってきた。


 信秀の敗報を、俺は冷静に受け止めていた。


 そもそも、三河出兵に従軍した俺にとっては、そのまま美濃へ攻め入ることが信じられなかった。

 1ヶ月ほどの間に三河で激戦を行い、軍は無視できない傷を負い、疲労も相当に溜まっていたはずだ。

 

 信秀の作戦目標は不明だが、三河での戦勝という実績をもってすれば、簡単に斎藤利政を屈服させられると考えたのだろうか。


 いずれにせよ、この「加納口の戦い」により織田信秀の武名は大きく傷ついた。

 俺はメモに次のように記した。


『織田信秀は加納口において、斎藤軍に大敗した。結果的に三河で得た輝かしい戦果に蛇足を加えることになった。』

余談ですが、斎藤道三が使った家紋「二頭波頭立波」、筆者はいつ見てもカッコいいなぁと思います。


他の家紋と並べてみても異彩を放つというか・・・現代でもロゴとかで使われてそうなデザインに感じます。


道三が自らデザインしたとの説がありますが、それが本当なら、道三という人は相当デザインセンスに優れた人だったんだろうな〜と思います。

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