第105話 騒擾
天正2年(1574年)1月は箔濃事件に始まり、物騒なことが立て続けに起こった。
そのせいで、俺は丹羽勢の一員として急きょ越前国敦賀郡への移動を余儀なくされた。
原因となったのは越前国に起こった動乱だった。
1月19日、越前国守護代の桂田長俊(旧名・前波吉継)が死んだ。
自然死ではなく、富田長繁と富田に扇動された土一揆によって居城としていた一乗谷城を攻められ、殺されたのだ。
長俊はいち早く降参し、朝倉旧臣のなかで最も信長の信頼を勝ち得た人物だった。
守護代として彼が信長から与えられていた権限は大きく、没収された朝倉宗家や家臣の旧領の支配権だけでなく、代官や奉行の任免権、寺社領への課税の管理、寺社間におけるトラブルの裁定権などが与えられていた。
特に大きかったのは、越前国の国衆らに対して新たに領地を与える際、長俊にその可否についての発言権が認められていることだった。
実際、信長は降伏してきた朝倉旧臣の取り扱いについて長俊の意見を聞いて決定しており、戦後の新体制は長俊の意に沿うかたちでつくられた側面があることは否めない。
信長の代理人としての立場ではあるが、かつての朝倉当主が握っていた権力を行使できる地位にあったと言っても過言ではなかった。
それもあって、就任からわずか数ヶ月で長俊の敵は驚くほど増大していた。
元々前波家は朝倉家の譜代家臣だったが、代々奉行職を務めるに過ぎず、重臣とは到底言えない家柄だった。
それがいち早く織田に寝返ったことで国主然とした地位についたわけで、ねたみもあって同じく織田に降った朝倉旧臣からの受けは悪かった。
それを知ってか知らずか、長俊は与えられた権限を遠慮なく行使し、越前の民や国衆らはそれを強権的な統治と受け止め、不満を募らせた。
また、領地宛行に対する発言権を発揮して富田長繁や富田の与力の毛屋・増井に与えられた領地が多すぎると信長へご注進に及び、富田らの怒りを買った。
桂田と富田の2人は朝倉家臣時代から折り合いが悪く、権力を笠に着て嫌がらせをしたと取られても仕方のない対応だった。
朝倉旧臣たちの長俊に対する嫌悪感は次第に怒りや敵愾心へと変化し、越前国内には不穏な空気が漂うようになった。
特に、桂田から遅れることわずか1日で織田に降り、結果として府中城のみを与えられただけ(それでも十分厚遇されているが)の富田長繁は、反桂田の急先鋒となっていた。
そんななか、桂田にとっては不運なことに、彼の視力は急速に悪化して失明に近い状態となり、日々の政務はともかく戦の指揮など到底おぼつかない有様となった。
それによってただでさえ低下していた長俊の求心力は急降下し、富田長繁らの反乱につながったのだった。
長繁の手勢は1千ほどに過ぎなかったが、彼の扇動によって蜂起した一揆勢は3万と称する大軍となり、真っ黒なかたまりとなって一乗谷を襲った。
桂田長俊は敵の規模を聞いて自分の運命を悟ったのだろう。
実母や嫡男を逃がしたあと、不自由な身体で打って出て敵勢に突入し、散った。
だが、運命とは残酷なもので、長俊が命を張って逃がした家族は翌日には一揆勢に捕捉され、皆殺しにされてしまったそうだ。
俺は敦賀へ行く途中で以上の経過を聞いた。
桂田長俊の死により、前年に信長が構築した体制は崩壊し、織田軍が確保している木ノ芽峠より北の越前国内は混沌とした状況になっているようだった。
敦賀郡より北の地域は事実上織田家の手を離れたと言ってよかった。
ただ、親織田を貫く勢力もいくつかあるとの風説も聞こえてきており、情勢はよくわからない。
敦賀へ向かう道中、俺は羽柴秀吉の陣を尋ね、少しでも情報を得ようとした。
信長は敦賀郡の死守を打ち出し、丹羽長秀のほか近江北東部を治める羽柴秀吉、不破光治・直光父子、丸毛長照・兼利父子ら美濃衆、武藤舜秀ら若狭衆の動員を指示していて、秀吉らとはともに行軍していたのだった。
「ヨシロー。越前の情報、何か入ってないか?桂田殿は亡くなったらしいが、その後はどうなってるかさっぱりわからん。」
「実はウチの家臣の木下祐久が無事に戻ってきてな。報告を聞いて、ナンボかわかったよ。」
木下祐久は滝川一益の家臣・津田元嘉と明智光秀の家臣・三沢秀次とともに府中城に駐在し、桂田長俊を補佐する奉行だった。
統治の実務はほぼ彼ら3人によって担われており、誰よりも現在の越前国について通じている人物と言えた。
「木下の話では、桂田の死後に府中城も敵に囲まれたらしい。ただ、安居景健殿が仲裁に入り、木下らは命を助けられたみたいや。」
安居景健とは、姉川の戦いで朝倉軍の総大将を務めた朝倉景健のことだ。
昨年織田家に降り、信長の許しを得て居城の安居城にちなんで苗字を安居に改めていた。
彼は一揆勢や富田長繁を説得し、木下ら信長の奉行衆を助命し、無事に越前国から出られるよう取り計らったらしい。
木下らは越前を出たあと、信長への報告を行うために岐阜へと向かい、途中で羽柴勢が北国街道を北上していることを知って秀吉に面会を求めたそうだ。
「すると、安居殿は中立か織田家寄りなんか。」
「いや、一揆勢に味方しているらしい。朝倉景胤や魚住景固らも一揆側についたようやな。一揆勢は全部で3万を超えてるらしいから、しゃーなしに降参しただけかもしれんが。」
「じゃあ、織田方のままで頑張ってる武将はおらんのか。」
「いや、亥山城主の土橋信鏡殿や織田城主の織田景綱殿は一揆勢には加わってないらしい。まぁ、織田方としてハッキリと動いているわけでもなさそうやけどな。」
「ああ、土橋殿か・・・。」
俺は途中で言葉を切ったが、意図は秀吉に正確に伝わったようだ。
彼ら2人も安居景健と同じく信長に改名を許された元朝倉一族だ。
土橋信鏡と聞けばわかりにくいが、旧名の朝倉景鏡と言えば悪名が知れ渡っている。
主君の朝倉義景を最終的に自殺に追い込んだ張本人である。
長年の主君を裏切って死に追いやったくらいだから、いつ敵に寝返るか知れたものではないという共通認識がある。
「それより、面白い話があんねん。実は昨日富田長繁の使者がやって来てな。」
「富田長繁の?いったい何の使者や!?」
富田長繁は今回の内乱を引き起こし、敵の総大将格に収まっている人物だ。
そんな人物が、いったい何の用件で使者を出したのか。
「弟を人質に出すから、殿に取り次いでくれってさ。」
「ん!?富田は殿へ反乱を起こしたんやろ?何でそんな使者を送ってくるんや。」
「富田の言い分では、桂田長俊は殿の名前を使って悪さをしまくって、織田家にとって害となる存在でしかなかった。だから自分が排除しただけで、織田家に逆らうつもりは全然ない。その証として弟を人質に出すから、乱れた越前国を安定させるために自分を新しく守護代にしてほしい、ということや。」
「はい!?ちょっと意味がわからんな。桂田が悪政をやっていたかはともかく、殿が任命した守護代を殺しといて、織田家に逆らうつもりはないってのは通らんやろ。それに、越前が乱れたのは富田のせいなんやから、よくもぬけぬけと守護代にしてくれなんて言えたもんやな。」
「そうよ。単に桂田が気に入らんってのと、自分が守護代になりたいっていう野心で動いただけなんやろな。聞いた話やと、桂田の方が富田より降参した日が1日早いだけで守護代になって、自分がたかだか府中城主にしかなれんかったことを恨んでたらしい。」
「府中城は重要な場所やし、大出世なんやけどな。欲の皮が突っ張ったら、止まらんのやな。で、その使者はどうしたん?」
「岐阜へ行って殿に会いたいって言い張るから、そのまま行かせたよ。追い返すことも考えたけど、俺の判断でそうするのもどうかと思ってな。一応俺の意見書を持たせといた。長繁の弟はしばらくは生かしておく方がいいって。一応、俺がいま仕込んでる作戦のことも書いてな。」
「作戦って?」
「細作(スパイ)使って、越前中に噂をバラ撒くんや。富田が弟を人質に出して織田に降り、守護代の地位を得ようとしてるってな。富田の使者は目立たんようにやって来たから、たぶん一揆勢や他の武将たちにはナイショで送ってきたんやろ。元々ヤツらは寄せ集めなんやから、一回疑い出したらすぐ仲間割れしはじめるはず。そしたら、敦賀まで攻めてくるのは当分先になるってこっちゃ。」
「なるほどな・・・。」
(確かにそんな噂が広まれば、木ノ芽峠以南の織田領を攻める余裕なんか吹っ飛ぶな。しかも、ただの噂やなくて事実やし。にしても、恐ろしい策を考えるもんやな。)
「ま、その間にこっちは準備を進めんとな。何せ、いまのウチには越前へ大軍送る余裕がないんやし。」
秀吉が言う通り、いまは木ノ芽峠を固めて敦賀郡死守の態勢をとり、後方支援のために若狭国の安定を重視するのが最善の方法だ。
織田家には越前奪還のために大軍を派遣する余裕はない。
思わぬ敵が、東から圧力をかけてきているからだった。