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第100話 大功

(さて・・・どう攻めたもんかな・・・。)


 羽柴秀吉はひとり絵図の前で考え込んでいた。

 絵図には三角形を形作るように伸びる二本の尾根を丸ごと要塞化した、巨大な城が描かれている。


 ただ、よく見ればその絵図の至るところには朱筆で「×」がつけられていた。

 その×印は「山崎丸」や「福寿丸」などが並ぶ城の西側の尾根丸ごとと、最も北側の「大嶽城」と書かれた場所にもつけられ、無事なのは東側の本丸などが並ぶ尾根だけだった。


 近隣では比べるものがないほどの規模を誇り、浅井家三代の繁栄の象徴であった小谷城の現状を示したものがこの絵図だ。

 扇に見立てれば要の位置に当たる大嶽城はすでに織田軍の手に落ち、本丸・京極丸・小丸などが所狭しと立ち並ぶ東の尾根のみが浅井家に残された唯一の領域となっていたのだ。


 今の秀吉に課されたミッションは、この小谷城攻めの先陣をつとめ、これを攻略することだった。


 その作戦をどうするか。

 絵図をにらみながら、秀吉は思案に暮れていた。

 奇しくも、主君の織田信長と同じく、彼もまた自分ひとりで作戦のおおよそを決定するタイプの人間だった。


 ただ城を落すだけなら、もはや難しいことではなくなっていた。


 すでに浅井家の強力な後ろ盾となってきた越前の朝倉家は滅亡し、近くに浅井家を助ける勢力は存在しない。


 織田領の東側や徳川領を脅かしてきた武田軍も、この4月に本国へ引きあげてからほとんど動きがない。

 それもそのはず、信長が細作(さいさく)(スパイ)を多数動員して探らせ続けたところによると、どうやら当主の武田信玄はすでに死去したらしい。

 少なくとも軍を指揮できないほどの重病の身である可能性は高いようで、しばらくは武田の動向を気にせずにいられた。


 各地の浅井軍の将兵は軒並み投降し、眼前の小谷城以外に組織的な抵抗を続ける浅井軍は存在しなくなっていた。

 つまり、小谷城は孤立した城であった。


 にも関わらず秀吉が悩んでいるのは、今なお千名以上の敵兵が立てこもり、ある程度の防衛力を残す小谷城をなるべく早く、なるべく犠牲を少なくして落としたいからだった。


(これだけ敵が弱ってしもたら、一気に落とせんと評価がメチャメチャ下がってしまう。せっかく信頼されてきたのに、ヘタ打ったらヒラ社員に逆戻りや。)


 秀吉の脳裏には中川重政の姿が浮かんでいた。

 重政は信長の遠縁に当たり、馬廻の身分から安土城の城将や京都奉行に抜擢され、蒲生郡の一部の支配や京都行政に深くかかわるなど、一時重臣のひとりとして遇される存在だった。


 ところが、同じく蒲生郡の一部を任されていた柴田勝家と領地を巡ってトラブルを起こし、勝家の代官を殺害した結果、家臣団の規律を重んじる信長の怒りを買い、追放されたのだった。

 最近になって重政は信長の直臣として復帰を果たしたが、往年の地位には復帰できず、完全に出世コースから外れてしまった。


(血縁者だろうが何だろうが、織田家では一度信頼を失ったらどんな目に遭うかわからん。ここでつまずいたら終わりや。せっかく秀吉に生まれ変わったのに、平凡な人生で終わってしまう。何としても速攻で城攻めを終わらせなアカン・・・!)


 対浅井家の最前線を任され続け、今回の小谷城攻めも先陣を任された秀吉にとって、自分に寄せられた信頼に応えるためにも可能な限りすみやかに攻略を成し遂げなければならない。


 ただ、悩ましいのは力攻めによる急襲以外に選択肢がないことだった。


 小谷城にいるのは最期まで浅井長政と戦う意思を固めた猛者たちで、秀吉が常道とする調略によって寝返ってくる者はまったくなかった。

 彼らを武力で壊滅させる以外、取るべき道はないのだ。


 そうなると、秀吉の軍勢に多数の被害が出ることが予想された。

 狭い尾根道を敵の防衛施設を排除しながら攻め続けねばならないため、数百人規模の損害が出る恐れもあった。


 秀吉にとって今回の戦は通過点に過ぎず、これから先の活躍のためには彼の配下の犠牲を可能な限り少なく抑えたいという思いがあった。

 苦労して作り上げてきた自前の軍勢を、こんなところで磨り潰すわけにはいかない。


(正面にしろ、搦手にしろ、尾根伝いに攻めるからエライ目に遭うんや。いっそ、こっちから攻めたら・・・)


 秀吉の指が絵図の上をなぞる。

 およそ進撃路として誰も想定していないであろうそのルートは、紙の上では滑らかに進むことができる。

 だが、ここ数年小谷城の険しさを目の当たりにしてきた秀吉には、それがいかに過酷なルートであるかよくわかっていた。

 ルートと言っても、そこには道などない。

 本当に登りきることができるかもわからない。


(けど、試す価値はある。うまくいけば、時間も犠牲も少なくてすむ。何度もバクチを打たな、天下なんか取れんやろ。打つとしたら、今や!!)


 天正元年(1573年)8月27日深夜、秀吉率いる羽柴勢は小谷城山麓の城下町跡に突入した後、東に向きを変えて急斜面を登り始めた。

 なるべく身軽に、なるべく物音を立てないよう、羽柴の将兵は槍は捨てて太刀や脇差のみで武装していた。

 先頭を進む者たちは鎧すら身に着けず、特に急峻な斜面では頑丈そうな岩などに綱をくくりつけ、味方の命綱とした。


 暗夜のなか、敵に悟られることを恐れて火もともさず、羽柴勢2千あまりはひたすらに上を目指した。

 距離にしてわずかに1町(約1.1km)あるかないかの道のりだったが、急傾斜や暗闇は実際にはその何倍にも距離を長く感じさせた。


 登り始めて1刻(2時間)以上は経っただろうか。

 闇夜にうっすらと大きな建造物の姿が浮かび上がった。

 断定こそできないが、目指す京極丸に違いなかった。


 京極丸は浅井家が北近江の守護職であった京極家の当主などを住まわせるために作られた曲輪(くるわ)(城の区画)であり、守備力は抜群だが武骨な他の曲輪とは一線を画すように華美な建物がいくつも並んでいた。


(よっしゃ、うまくいった!!ここさえ奪れれば、敵を真っ二つにできる。あとはひとつずつ前後から挟み撃ちにして攻めたら、そんなに時間もかからんし、損害も少なくてすむやろ。これでこの戦、もらったわ!!)


 秀吉は尾根道伝いに正攻法で攻撃をかけるのではなく、城の真ん中付近に位置し、警戒も薄いと考えられる京極丸を直撃することを考え、道なき急斜面を登って攻め込む作戦を考えた。

 そして配下の頑張りもあって、見事に狙う京極丸までたどり着いたのだった。


 敵に気づかれることなく京極丸に達した羽柴勢は、土塁をよじ登り始めた。


 先頭を切って進むのは、歴戦の勇者たちだ。

 秀吉が自分の手勢を強化するために大枚はたいて集めた彼らは戦うために生まれてきたような男たちで、ほぼ総じて戦以外の役には立たない。

 事務仕事ができないだけでなく、小部隊の指揮官としての役割すら果たせない者が多い。

 彼らはどこまでも一匹の戦士であり、いざ戦闘が始まれば自分の部隊の指揮など放り出して単騎で突撃してしまうのだ。


 だが、彼らの勇気は本物で、矢や弾が乱れ飛ぶ前線を真っ先に駆け、真っ先に敵陣や敵城に乗り込み、猟犬のようにどこまでも武功を追及してやまない。

 人間離れしたその勇気によって突破口をあけ、敵を圧倒する。

 秀吉の羽柴勢だけでなく、織田軍の強さは彼らのような常人離れした男たちによって支えられていた。


 ようやくこちらに気づいた浅井の見張りの兵が応戦し、建物の中からも次々と敵兵が飛び出してくる。

 だが、不意をつかれた影響が大きいようで、飛んでくる矢や弾丸は散発的だし、組織的な抵抗ができているとは言い難い。


「よし、今のうちや。このまま一気に攻め落としてしまえっ!!」


 秀吉の号令のもと、登ってきた残りの兵たちも押し出す。

 すでに京極丸の至るところに先発の羽柴兵が入り込み、突破口は穿たれていた。


 それからわずか四半刻(30分)あまりの戦闘の末、京極丸は落ちた。

 京極丸の主だった守将たちは討ち死にし、残余の兵は北の小丸や南の本丸方面へバラバラになって逃げだした。


「続いて北の小丸に攻め込むぞ!小休止したら、進軍や!!」


 秀吉は登山と戦闘で疲労のたまった部下たちに若干の休息を与えたあと、本丸ではなく反対方向の小丸や山王丸を目指して攻撃を再開した。

 秀吉が次の攻撃対象として小丸方面を選んだのは、後方にある大嶽城がすでに織田軍の手に落ちており、挟撃が可能だったためだ。

 この挟撃作戦については事前に大嶽城の守兵たちとも申し合わせており、今頃は京極丸の戦闘の騒音を聞きつけて出撃準備に余念がないはずだった。


 前後から倍、というより3倍以上の織田軍の攻撃を受け、小丸と山王丸を守る浅井軍の運命は極まった。

 どうあがいても勝ち目はない。

 しかし、彼らは降伏や逃亡を図るどころか、激烈な抵抗を示した。

 明らかに全員が死ぬ覚悟で、ひとりでも多くの織田兵を道連れに死出の旅へ出ようと考えているようだった。


 それでも、人間の体力には限界がある。

 27日未明に始まった小丸での戦闘は日が高くなるころには大勢が決し、残った残兵は小丸の一角に引きこもった。


 やがて、敵将・浅井久政(長政の父)から使者が遣わされてきて、部下たちと最期の別れをしたいから、と一時休戦の申し入れがあった。

 生き残った城兵たちで別れの酒宴を催し、自害するつもりだろう。


 秀吉は申し出を快諾し、攻撃を中止して兵をいったん退いた。

 その間、浅井兵たちは別れの杯を酌み交わし、久政をはじめとして数十人が自刃した。

 こうして小丸も落ちた。

 秀吉は久政の首を探し出すと、これを虎御前山の信長の本陣に送った。


 信長は秀吉から届いた捷報と久政の首に喜びを顕にし、大いに秀吉の功を褒めるとともに自らも陣を出て京極丸へ入った。

 そして、最後の決戦を指示し、本丸への攻撃を開始した。


 すでに浅井長政の周囲には数百の兵しか残されておらず、しばしの戦闘の末にこの最後の浅井軍は壊滅した。

 長政は赤尾清綱に守られながら、赤尾の屋敷に逃げ込み、ここで自刃した。

 こうしてわずか2日の戦闘で小谷城は落ち、ここに浅井家は滅亡した。


 浅井家の滅亡により北近江は完全に織田家の勢力下に入った。

 信長は戦後処理を行い、今度の城攻めに大功を立てた羽柴秀吉を賞して浅井家の旧領を与えることにした。


 秀吉は小谷城を与えられたものの、その交通の便の悪さと発展性の無さを理由に居城とはせず、今浜に城を築くことを信長に願い出て許しを得た。

 秀吉は地名に信長から一字をもらうことも許され、今浜から長浜へと改名し、築城を開始した。


 また、信長は長政の遺族のうち妹のお市と3人の娘は長政からの申し出を受け入れて引き取ったが、10歳になる長政の嫡男はこれを探し出して関ケ原で処刑した。

 信長にとっては甥にあたる子どもだが、容赦はなかった。


 自害した浅井長政・久政父子の首はともに京へ送られ、先に送られた朝倉義景の首と同様に獄門に掛けた。


 こうして、わずか1ヶ月足らずの間に信長にとって宿敵と言うべき浅井・朝倉両家を滅ぼし、信長は久しぶりに大戦果をあげた。

 改元直後にもたらされたこの成果は、「天正」が信長の時代となることを示唆しているようにさえ思わせるものだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 唇亡くなれば歯寒し。……って歯の方が先に滅びてたのですね。 自称歴史好きなのに逆だと勘違いしてました!? 『織田上総介の行く末を見たかった』と言い残した朝倉宗滴さんも、まさかこんな行く…
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